03 - supernova


 日曜日の今夜も、ヤニで汚れた冷房が唸るように稼働していた。気が狂いそうになるくらい、うだるような熱帯夜が続いていた。

「ずいぶん久しぶりじゃないの、秋田クン。あの日、なんだかよくわからんけど泣きながらヤケ酒してた日以来だよねえ!」

「ええ、久しぶり……なのかな。そうか、こっちだと二週間ぶりになりますもんね、広瀬さん」

「ムサい飲み仲間だとしても、会えないとやっぱり少し寂しいのよ、実際。何してたのさ、夏バテでもしてたかい? そんなにスリムになっちゃってまあ」

 胡散臭いサングラスに反射した自分の顔には、疲れた瞳と深いほうれい線が刻み込まれていた。見るからにやつれて不健康な風貌の信じたくない自分の姿だった。


 居酒屋のテーブルにはビールジョッキ二つ、唐揚げ、焼き鳥盛り合わせ、だし巻き玉子が並んでいる。パクパク美味しそうに食べているのは広瀬さんだけである。僕も箸を割って食べる素振りはするが、小皿に唐揚げの一欠片が乗せられて、そのまま放置されていた。

「夏バテ、ですかね。いや、広瀬さんに言い繕う必要は無いか……前に斡旋してくれた“仕事”ありましたよね」

「ん? ああ、アレね。良い仕事でしょ、拘束時間少ないクセに金払い良いから秋田クンも小遣い稼ぎにはバッチリだよね!」

 がはは、と笑いながら広瀬は冷えたビールを呷る。和柄ポロシャツの胸元、喉をぐびぐび鳴らしながら飲む様子を見て、そういえば乾杯した一口目から飲んでなかったな、と思い出して結露が水たまりになったジョッキを持ち上げて同じように口をつけた。

 僕は広瀬に訊きたいことがあった。この二週間、僕がどのような苦しい思いで過ごしてきたのか、彼は理解者なのだろうか、と。

「……広瀬さんはあの仕事、過去にやったことあるんですよね。だから、こうして仲介業者として話すこともできるし、そういうパイプも繋がってるんですよね」

「ん、おお、そうだよ。けっこう前にだが、やったことあるよ。あの仮想世界はリアルだよなあ! 車飛ばしてると最高だし、女を抱いてるとき気持ち良いし、ちゃんと風邪ひいて熱も出るし、鼻も詰まるんだもんな。どういう仕組みかわかんねえけど、あれはすげえよ、うんうん」

 顎に手を当てながら、しみじみと頷く広瀬。

 事実、その通りだった。ルイ・アームストロングが歌うよりも素晴らしき世界に僕は生きていた。少し頑張って手を伸ばせば、自分にとって都合の良い偶然の巡り合わせが起こる世界。呆れるくらい白々しい奇跡を積み重ねた美しい世界。架空の成功体験を脳に植え付け、何もない虚無の現実と向き合うことを強制させる──呪いの世界だった。


「……最初はもう一回だけ、と誓っていたんです。仕事は休めないし、残業も毎日あるので次の土曜日になるまで苦痛でした。街を歩いてるとき、飯を食べてるとき、朝起きるとき、気を抜くとずっと考えてしまうんです。だから、もう一回だけ夢を見たら、現実をしっかりと生きよう。そう思ってたんです」

「ほう、なるほど。続けてくれ」

「次の世界では、頑張ってギターと歌を練習してバンドを組みました。もちろんすぐに売れるわけでもなく、ギターボーカルとして苦しくも楽しい生活をしていました。それから、着実にファンが増えていって目が覚める十年後には大型ライブハウスをワンマンで埋められるくらいのバンドに成長してたんです。達成感の中、現実に戻ってくると、たった一時間半くらい経過してただけでした」

 着実に蝕まれていた。

 銀行口座には別れた妻に送る養育費を引いても、余裕でお釣りが出る金額が記載されていた。金銭面は笑ってしまうくらい容易く解決できたが、それと反比例するように仮想世界の夢から醒めて現実に戻るたびに心が脆く、砕けていくような感覚が襲うようになった。

「それから、夢から醒めた土曜と日曜が終わり、月曜に仕事に行ったのですが、火曜には体調不良を装い無理やり早退して、その足で気付けばショッピングモールまで向かっていたんです……」

「ははーん、秋田クンずいぶんとハマっちゃってるねえ」

実のところ、水曜は我慢できたが、木曜も金曜も仮想世界に行っている。恥ずかしいので広瀬には伏せたが、サングラスの奥ではもしかしたら気付かれているかもしれない。


 向こうの世界では望めば何者にでも成れた。記憶が残っている数十分の間に必ず書いた目標通りに行くことはなくとも、それに近い成功者の人生を歩むことはできていた。弱肉強食、犯罪すれすれの儲かる仕事をしたこともある。社会福祉として恵まれない人たちを救う仕事だってしていた。

 ただ、向こうの世界で成功すればするほど現実に戻ったときの何も積み重ねていない惨めな自分に押し潰されてしまいそうになる。それが堪らなく怖くて、直視できない。だからまた、仮想世界に逃げてしまう。もはや謝礼金なんてどうでもいいとさえ思い始めている自分がいるのだ。

「広瀬さん、言いたくはない信じたくはないですが、これって新しいヤバいドラッグ──」

「胡蝶の夢、って知ってるかい」

 淡々と、しかし僕の言葉を遮るように広瀬は低い声で、そのまま次の言葉を紡いでいく。

「胡蝶の夢ってのはさ、古代中国の思想家の言葉でね。向こうの世界で生きている自分が現実なのか、今ここに在る自分が夢なのかわからないけれど、どちらにしても何にも縛られず自由に生きればいいんじゃない? っていうありがたい説話なんだよ、たぶん間違ってなければね」

 広瀬はいつの間にか頼んでいた、二杯目のビールをぐいと飲み、オヤジくさい盛大なゲップを吐く。

 僕だってそれを考えなかったわけじゃない。同じような考えに至って、土曜日──つまり昨日だ──に電車を乗り継いで久しぶりに実家に帰ったのだ。目的はかつての自室、勉強用に使っていた机の引き出しを開けるために。

 仮想世界に行くと僕は必ず、この引き出しにメモとして目標を貼るクセが習慣になっていた。この報われない、何も積み上げていない無為な人生こそが夢であるならば……! そう思い込みたくて、引き出しを確認したが、何も貼っておらず、何かを剥がした痕すら無く、徒労に終わっただけだった。ここはどうしようもなく本当の現実であることが証明された瞬間だったのだ。


「それとも何か? 俺の親切心で紹介した割りの良い仕事で、ちょっと都合が悪くなってきたからって秋田クンは逆恨みするような恩知らずってわけかい。友達だもんな、違うよなあ?」

 焼き鳥の串を指し棒のように、僕へと向ける広瀬。わかりやすく脅してるわけでもない、至って普通の調子だが有無を言わせない凄みと、一瞬だけ暴力の匂いを醸し出していた。

「いや、勘違いでした。さっきのことは忘れてください」こう言うしか道は残されていない。

「いいよ、聞かなかったことにしてあげる。俺だって秋田クンとはこれからも飲み友達でいたいからさあ!」

 相変わらず、がははと豪快に笑う。

 これは僕が立ち向かうべき問題なのだ、騙されたかもしれないとはいえ、まだやれることはある。もうこれ以上、夢の自分に溺れて現実が侵食される行動はすべきではない。まだ間に合う。きっとまだ手遅れではないはずだ。克服しよう。明日から、また明日から頑張ろう。


「……広瀬さん、辛気臭い話で酒を不味くしてすみませんでした」

 僕は謝罪の意を込めて、目の前で常温に戻ってしまったビールを一気に飲み干し、勢いで二杯目を注文する。

「おっ、良い飲みっぷりだねえ。まだ俺も暑気払いできてねえから、キンキンに冷えた三杯目に行くとするかね」

 そう言って、注文しているときに尿意を感じ、断りを入れてから僕はトイレに立つ。広瀬は暑いのか、パタパタと和柄ポロシャツの胸元を仰いで風を送り込んでいた。ヤニで汚れた冷房が唸るようにずっと稼働している。

 僕は偶然──本当に偶然だったのだが、狭い居酒屋の奥のトイレに向かいながら広瀬の横をすれ違うときに見てしまった。彼の胸から肩にかけて刺青が施されている。僕は心臓がギュっと縮み上がり、背筋がスッと冷たくなるのを気合で抑えてトイレに向かった。

 狭い個室に入り、扉を背にしてずり落ちる身体。早鐘を打つ鼓動を深呼吸で落ち着かせながら、冷や汗と震える手で口元を抑える。今の光景を反芻して理解しようとするが、どうにも頭が追いついていなかった。

「どういうことだ……」


 ──ここはです。どう生きるかは自由ですが、なるべく多くの経験を積んで我々のデータ収集にご協力ください。


 ふと、あの施設の女性スタッフの言葉を思い出す。そうだ、ここは紛れもなく僕にとっての現実だ。疑う余地も無い。そう、思っていたのに。

 先程、胡蝶の夢の話をされたが、僕はまだ辛うじて夢と現実の違いは理解している。しかし、もしも……夢の中でひたすら現実を意識しながら生きているのだとすれば、それは果たして楽園か、はたまた地獄だろうか。

 扉の向こう、狭い居酒屋では何事もないかのようにヤニで汚れた冷房が唸るように稼働している。今日もまた、うだるような熱帯夜である。

 僕が偶然見てしまったもの。目を疑ってしまったもの。それは広瀬の胸に刻まれたものが反社会性を示唆する刺青だったからではない。もちろん、その刺青であるのだが、僕が見えてしまったのはそこに記された文字だ。

 彼の、広瀬の右胸に刻まれていたもの────。


[WAKING UP AFTER 40 - 08/18]


 ここはあなたにとって少しだけ都合の良い世界……だとするならば。



〈了〉

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向こうの記憶 不可逆性FIG @FigmentR

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