02 - voyager

 ビクン、と身体が跳ねる。

 どうやら机に突っ伏して、いつの間にかうたた寝をしていたようだ。目をこすると窓の外は真夜中。目の前にあるのは実家で僕が使っていた懐かしい机、大学の講義で使う参考書、マグカップに刺さった筆記具。乱雑に置いてあるものを見て僕に芽生えた感覚、どうして懐かしい……?

 その瞬間、何かに突き動かされるようにクローゼットの横に立てかけてある全身鏡を引っ掴む。鏡を握り、震える指先。「嘘だろ」と小さく漏れる。

 そこに反射していたのは僕だった。当たり前だが、紛れもなく僕が映っている。間違いなく僕が、大学生の幼い顔と贅肉の少ない細く若い身体で、そこに立っているのだ。 ──必ず二十歳から始まります。そんな説明が頭をよぎる。

「くそ、時間が無い! 一番、大事なこと……失敗できないこと……!」

 あなたが目覚めた先で元の現実で説明した、この世界は仮想世界であるという記憶は数十分で失われます。その間にやりたいことリストなどをメモを残しておくのも良いでしょう。新しい人生の大切な指針になりますから。記憶の底から女性スタッフの言葉を思い出す。

 引き出しからまっさらなルーズリーフを一枚取り出して、未来の自分へと焦燥感がそのままのたうち回ったような字で書き記した。


①外見を磨け。カッコいい姿になれ。

②☓☓電子の会社には就職するな。

③二五歳になったら目が覚める、忘れるな。


 嫌な脂汗を額に浮かべながら深呼吸をして冷静さを取り戻す。机の上には書き殴ったルーズリーフ。最低限これでいい、そう思った。

 高校生から今までずっと日陰の人生だった。自分の顔面があまり良くないことを自覚していたので、お洒落することに価値を見出だせずに過ごし、誰とも何も起こらないひどく平坦で無為な日々が垂れ流されていた。なので、この人生では平均以下の顔面ながらも頑張って見た目を変えれば、何かが変わるかもしれない。そのための一番目。

 二番目はただの実体験だ。実害と言い換えてもいい。僕が就職活動に失敗し続け、なんとか入社した会社がいわゆるブラックだった。就活のトラウマから辞める勇気も無く、ずるずると飼い殺されている。よくある現代の病巣。それだけの話である。繰り返したくない、その恐怖心だけが動機だ。

 三番目、これが最重要かもしれない。この仮想世界では五年単位で現実に帰還するかどうかを最初に決めなければならなかった。最短五年、最長六十年という幅で選択でき、僕は当然のように五年を選んだ。すなわち二五歳のときである。


「……これでいい。あとは引き出しの底にでも貼っておくか」

 あと少しで、僕の報われなかった人生の記憶は一時的に消える。未だにここが仮想世界なのか疑ってしまうほどに、なにもかもが現実と遜色ないことが恐ろしかった。

 四十歳手前の男なのに、二十歳の身体がある。モールの奥にあるのは半官半民の影響がどうとか言ってた女性スタッフ、その実験施設と何らかのツテがある広瀬……僕は何に巻き込まれて……いや、広瀬って誰だ? まあいいか、それよりも明後日までに仕上げなきゃいけないレポートが全然終わらないんだった。

 ──できるだけ急いで仕上げないとな。


***


 それから僕は久しぶりに死ぬほど脳みそを使ってなんとかレポートを書き上げることに成功した。いつの間にか引き出しに貼ってあった命令口調の目標も発見し、なんとなくこのままではいけないような気がして美容院で茶髪に染めた。ついでにデザインパーマも追加料金でやってみた。思ってた以上の出費に財布が軽くなったが、後日しばらくして同じゼミの知り合いから飲み会に誘われた。酔っ払いのノリもあって複数男女のメールアドレスも増えた。

 提出物がある前日、熱が出て風邪をひいたとき、何もない日々の講義の後、僕は対面でも文面でも誰かと会話する機会が今までの何倍も多くなった。


「大学生って最高じゃん」

 そんな言葉が自然と声に出る回数が増えた。結局僕も人に飢えていたのかもしれない。何もない灰色の日々だった過去がまるで遠い蜃気楼のように感じられる。バカなことを言い合える友達も出来た。

 自分が変われたキッカケはなんだったか。今はもう思い出せない。でも、すごく些細なことだったと思う。

 大学の講堂入口、無駄に背の高い大きな窓を僕は見上げる。立体的な積乱雲が、吸い込まれそうな青さの空に浮かんでいる。ずっと日陰の構内にいた僕の目には眩しすぎる陽の光に思わず、顔をそむけてしまう。午後の構内は人もまばらで、四角く切り取られた鋭い陽射しによって、窓の数の分だけ硬いリノリウムの床がいくつも白く切り抜かれていた。

 ……何か思い出せないことがある。

 ひどく蒸し暑い夏の季節には、そんな郷愁的な気持ちになったりもするが、それが何だったかわからない。まあ、思い出せないということは、さしたる問題でも無いということでもあるけれど。


***


 月日が経ち、僕は大学を卒業して広告代理店に就職した。大手では無いにしろ業界内ではそれなりに名の知れた企業で、まずまず好調な就活だったように思う。

 社会人になって一人暮らしを始めた。会社からも付かず離れずの丁度良い距離で、最寄り駅からは少し歩くが治安も良く、コンビニも近い。なかなか好立地な物件である。

 二四歳、恋人ができた。新入社員研修のときに知り合った同期の女性だった。配属された部署は違うが、色々な縁もあって今では一番心を許し合える人だ。幸せってつまりはこういうことかもな。

 今、僕はこの人を手放したくない。これからもずっと一緒にいたい、と強く願っている。


 一年後、二五歳の夏。僕と彼女は夏季休暇を利用して旅行を計画していた。沖縄も良いし、北海道も良いね。そんな他愛のない会話すら愛おしい。そろそろ同棲なんか切り出してもいいかもな。

 僕は観光サイトやら、旅雑誌やらを広げっぱなしのまま、ついうたた寝をしてしまっていた。

 明日にはそろそろ行き先を決めなくちゃ……やっぱり避暑地のほうが、いいの、かな────。


***


 ピー……ピー……。


「──お疲れ様でした。もう目を開けてもいいですよ、秋田さん。あのーもしもし、起きてますか?」

 真っ白な闇が脳内を駆け巡ったような感覚のあと、女性の声と共に肩を揺らされる。目蓋の裏からでもわかる光量に顔をしかめながら、目を開けると無機質な天井とCTスキャンのような機械があった。

 ゆっくり起き上がって、じっと手の平を見つめる。僕の両手には潤いのない、たるんだ皮膚が付いていた。

 そうか……あれは、夢だったのか。そうだよな、うん。そうだよ、仮想世界って言ってたもんな。

 ああ──。

 夢、か……。


 三階、同じフロア反対側の広いフードコートの端の席。コーラとフライドポテトを目の前に僕は独り、壁を背に座っていた。見渡すと、それぞれの席で談笑している学生や夫婦や子どもたち。どんな会話なのか、僕の耳に届くまでに喧騒の中に紛れてしまう。

 ぼおっと、無言のままポテトを口に運ぶ作業をしている。塩味と油が無遠慮に広がり、Mサイズですらまだまだ食べきれずにいた。

「……北海道にしようって言えなかったな」

 五年間の経験と記憶はこちらでも大切にデータとして保管し、活用させて頂きます。最短の五年コースなので、およそ四十分ほどの計測でした。秋田さんの脳波が活性化する回数が多かったので、良いデータが取れただろうと思いますから、後日に振り込まれる謝礼金も期待していいかもしれませんよ。あ、覚えてますよね。広瀬さん以外には、たとえご家族であっても、ここでのことは口外厳禁でお願いします。と、スタッフは念押しをしていた。

「家族か……家族に成り損ねたよ」


 いつから座っていたのかも忘れた。氷もとっくに溶けたコーラは結露で紙ナプキンもしわしわになるくらい濡れていて、あんなに美味しそうだったポテトもへたりと萎びていた。目の前の空席に本当は社内恋愛している可愛い彼女が座っていて、冗談を言い合ったり、互いの愚痴を慰め合ったり、将来の展望を語ったり、そんな日々が昨日まであって確かに存在していたんだ。伝えたい気持ちが伝えたい言葉よりも、ずっとたくさんあったはずなのに──はずだったのに。

 すっ、と頬から顎に生温かい雫が伝う。

 なんだか視界がぼやけて、大切な彼女の笑顔ばかり思い出してしまう。目尻からぽろぽろと雫が次々に落ちていく。それが自分の涙だと気付くまで、しばらくの間、フードコートの端で喪失感と現実の残酷さと虚しさにさめざめと泣いてしまっていた。


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