ハクセキレイ(イソヒヨドリの町でー2)

佐藤宇佳子

あの、あの、﨑里ちゃん、それ、カバーかけとるん、正解やわ。

第1話

 ときどき、高校一年のころの夢を見る。﨑里ちゃんが転校してきてからのことを。


 悩んどった。でも、それを露わにするのはためらわれた。だって、自分がフツーやない、なんて、誰にも説明できんことやった。絶対に、誰にもばれちゃいけんことやった。このまま波風立てずに高校生活を送りたいなら。

 それに、うじうじと悩んどっても、あの頃には悩んどる自分とは別にドライで楽天的な自分がおって、もう無理って悲鳴を上げる直前に、俺にささやいてくれとった。


「止めれ、止めれ、そげん深刻になったって、どうしようもねえんやっち。できもせんことで悶え苦しむんはバカや。それより、今、できることを満喫するほうが賢かろ?」


 その声を聞くたびに、煩悶し続ける気は失せ、苦しいのを抑えつつ、人前ではバカを言い、おどけ、明るく振る舞うようにしちょった。バカ明るい自分を演じていると、不思議と、自分は根っから明るくって悩みなんてない能天気な人間なんやっち思えた。そうやって築いていった俺の砦は上出来で、その中に隠れていれば本当の俺が傷つけられることはない、そう思えた。


 転校生が来るらしい、一学期の終わりにそげな噂が流れた。へえ、高校でも転校なんてあるんやな。神奈川から女の子が来るんやってよ、休日に部活に来た奴がちらっと見たらしいけど、制服も本人も、超可愛かったってよ。みんなの期待は高まり、噂はどんどん広まり、彼女がなぜ転入してくるのかについて根拠のない憶測が飛び交い始めると、俺は少し心配になってきた。


 八月中旬に行われた二学期の始業式のあと、くだんの転校生が教室に登場した。﨑里裕佳子。噂どおり、というか、俺が想像していたよりもずっと、綺麗な女の子やった。クラスの男子も女子も引いてしまうくらいに。実際、彼女が先生の後ろについて入ってきて、みんなの前で顔を上げると、教室は一種異様な静寂に包まれた。彼女がそれにたじろぎ、一気に緊張感を高めてしまったのが、きゅっと寄せられた眉根とこわばった口元からわかった。


「席は川野の隣な」


 小野っち先生がそう言った。偶然、おれの隣の席が空いていたから、ではない。事前に先生に呼び出され、頼むわ、と念押しされていたのだ。


「あんな、﨑里は、この春お母さんを亡くしちょる。しかも同じ学校の同じ学年の男子が運転する車にはねられて、なんよ。それ以降、学校に行けなくなって、おばあさんのいる、こっちに引っ越してきたっちゅうことや。委員長の中津留の隣も考えたんやが、おまえみたいにバカ明るいやつの隣のほうが、むしろ気が紛れるかもしれん」


 先生の、言葉の重みとは裏腹のあっけらかんとした口調に、むしろ俺は焦った。


「ええー、先生、心外やわ。俺、ほんとは繊細で神経質なんよ? 一緒に深刻に悩み始めるかもよ? 共倒れになるかもよ?」


「おう、そうよな。おまえは繊細で神経質よな。それを見込んで、こげな大役を任せるんやけんな」


 先生はにっと笑って、よろしくな、と締めくくった。


 はーい、と言うしかなかった。でも、そうは言われても、どうすりゃいいんか、さっぱりわからんかった。隣に来て、席に座り、うつむいているだけの彼女に、何か声をかけるべき? それ、俺が一人で考えんといけんの? 責任重大すぎん? 先生、ひどくね?


 その日いちにち、誰一人、彼女に話しかける人はおらんかった。彼女の可愛らしさが俺たちを気後れさせ、彼女のまとった暗い雰囲気が気軽に声をかけるのをしり込みさせた。俺も、結局、何も話しかけられんかった。


 次の日、やっぱり誰も挨拶すらせんかった。ちょっとやばくねえ? そもそも、九州の田舎の県のなかでも片田舎の町に住んどる俺たちは、都会に対して強いコンプレックスを抱えとる。単に都会から――関東の超都会から――来たっちゅうだけで、もう、一歩引いて横目で窺うことしかできん。それやのに、彼女ときたら、それに加えてあの容姿や。男子がほぼ全員、彼女の一挙手一投足に目を光らせ耳を澄ましとるのがよくわかった。でも、絶対、こいつら誰一人として、話しかけれんっちゅうのも、よくわかった。紹介されたばかりの昨日だったらまだ、勢いに任せて、ということもあり得たかもしれん。でもここまで緊張感を高めてしまった今、あえて先陣切って話しかけられる勇気あるやつ、あるいは、空気読めんやつは、このクラスにはおらん。


 女子は奇妙だった。鼻の下を伸ばした男子を冷ややかな目で見とるものの、でも、自分たちも決して彼女に近寄ろうとはせんかった。もしかすると、意地だったんかもしれん。都会もんというオーラと飛びぬけた容姿で男子の注目を一身に集めている転校生に対する無意識の嫉妬。


 ちょっとまずいかも、と感じ始めた。でも、なんて声をかけたらいいもんか?

 何もできないまま、二日目の短縮授業も終わった。


 三日目の朝、一時間目の英語の授業が始まる直前のこと。

「やっべえ、教科書忘れた! 﨑里ちゃん、﨑里ちゃん、一緒に見して!?」

 彼女はぎょっとしたような顔でこちらを見つめた。

「う、うん……」

 にこりともせず、席の左端に教科書を寄せ、見せてくれた。

「ありがとー!」

 クラスの誰も口を開くやつはおらんかったけど、みんなが一斉にこちらに注目したのがわかった。あー、おまえら、そのあからさまな雰囲気、何とかならんの?

 俺は間延びした声を張り上げる。

「なあ、なあ、教科書さあ、向こうの学校でも同じの、使っとったん?」

 首を振る。

「そうなん。じゃ、こっち来てから買ったん? 途中からやとさ、わかりにくくねえ?」

「……そんなこと、ないよ」

 近くの席から小さなどよめきが広がった。しゃべったよ、なあ、しゃべったよ。ああ、もう、おまえらいいかげんにしろや! 


 四日目の朝。俺としては精いっぱい早めに――なんと、ホームルームが始まる三十分も前に!――登校したのに、彼女はもう席について文庫本を開いていた。ほかにはまだ誰も来ていなかった。

「おはよー、﨑里ちゃん! 早いなあ」

 本から目を上げると、

「おはよう、川野くん」

 わずかに口角が上がっている。俺はものすごく嬉しくなった。やっぱり、誰だって、笑ってくれたら嬉しいもんな。

「川野、でいいよ。なに読んどるん?」

 彼女は無言のまま、本にかかっていた紙のカバーを外し、表紙を見せてくれた。ぎょっとした。というか、ぞっとした。

「……蝶々殺人事件? なん、それって、推理小説?」

「うん」

 にっこりする彼女に、俺はあたふたしながら言った。

「あの、あの、﨑里ちゃん、それ、カバーかけとるん、正解やわ。ぜったい外さんほうがいいわ」

「どうして?」

「ど、ど、どうしてって……」

 﨑里ちゃんは昨日までよりずっと穏やかな顔だ。緊張感が消えると、この子、思いのほかあどけない雰囲気になるんやな。

「これ、名作だよ。川野、横溝正史は知らないの? でも、金田一耕助は知ってるでしょ? 横溝正史ってその生みの親だよ。この作品には金田一耕助は出ないけれど、同じく名探偵の由利麟太郎が出るの。素敵だよ」

 にこにこしながらしゃべる。可愛いな、うん。いや、それはいいんやけど、わかっとらんな、この子。

「あー、えっとお、話はきっと素敵なんやろうけどさ、その、さ、表紙がさあ……」

 俺がどぎまぎしているのにも気づかず、﨑里ちゃんはさらに目を輝かせた。

「表紙? そう、この表紙もいいでしょ?! 杉本一文っていって、有名なイラストレーターが描いてるの。この独特の世界観、横溝正史の世界にぴったりだと思うの。杉本一文の表紙は何十冊も出てるんだけど、集めたくなるよね。画集も出てるんだよ」

 クラスメイトたちが次々と登校してくる。俺は焦って、

「わかった、わかったわ、でも、男子には刺激強すぎるから、その表紙見せんといて、な、早よ、カバーして!」

 﨑里ちゃんはうろたえる俺をいぶかしげな顔で見つつ、表紙をもう一度眺めて、ああ、とようやく理解し、紙のカバーをかけた。


 この、どこかずれたやり取りが、俺と﨑里ちゃんの初めての会話らしい会話だった。


「川野、おはよ!」

 美羽が登校してきて、俺の前の席に座った。﨑里ちゃんとしゃべっていた俺をうろんな顔で見た。

「あ、美羽さあ、明日から午後も授業やん? おまえ、黒木ちゃんと二人で弁当食べとるやろ? 﨑里ちゃんも入れてやってよ」

 美羽は一瞬、逡巡したが、すぐに少しだけ頬を緩めて﨑里ちゃんを見ると、

「いいよ、明日からお昼、一緒に食べよ!」

 﨑里ちゃんは目を見開いて美羽を見ていたが、ふわりと笑顔になって

「ありがとう、よろしくね」

 そう言った。

 美羽は見た目が派手で、言動も荒っぽくてぶっきらぼうなので誤解されがちだけれど、実はすごく面倒見が良い。小野っち先生だって、俺じゃなくて美羽に頼めばよかったのに。そのとき「お母さんが亡くなった」というフレーズを思い出した。ああそうか、そういうことか。死んどりはせんけど、うちも母ちゃんはおらん。このクラスで片親なのは、うちだけやった。


「美羽、おはよう」

 黒木ちゃんが美羽の席にやってきた。すかさず声をかけた。

「おー、黒木ちゃん、おはよー! ちょうどいいわ。明日からさあ、お昼食べるの、﨑里ちゃんも入れてやって?」

「え? うん、いいよお」

 黒木ちゃんは丸い顔をほころばせて、快諾した。みんな、﨑里ちゃんのことを気にかけてはいるんだ。しゃべれんかっただけで。


 あの日を境に、クラスのみんなが﨑里ちゃんと話をするようになった。一度話をすると、打ち解けるんは早かった。みんなが警戒しとった、お高くとまっているところや、都会出身であることを匂わせるようなそぶりは、﨑里ちゃんにはなかった。それは、彼女が川崎の思い出をほとんど口にすることがなかったからかもしれない。どこかピントがずれていて、高校生になるとどの女の子も途端に発しはじめる、蒸れたような女のにおいが、彼女からはほとんど感じられなかった。それが俺にはとても心地よかった。

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