第27話
「可愛いなぁ」
一度壁を越えてしまうと、口にするハードルが著しく下がる。当惑している感想が、ぽろっと零れ落ちた。
シュカがまじまじとこちらを見る。今までだって、可愛いと口にしたことはあるのだから、そこまで喫驚しなくてもいいだろうに。
「な、に? どうしたの?」
「どうもしない。ずっと思ってるよ」
う、あ、と意味のない母音を零して、視線が暴れまくる。
「今までだって言ったことあるだろ?」
「だって!」
許容範囲を超えたのか。シュカは顔を赤くして、わっと声を上げた。静かな夜にぐわんと残響が走る。
天文台は誰でも来ることができる場所だ。大声を出すと誰かに聞きつけられる可能性がある。シュカもそれに気がついたのか。はしたないという感性なのか。ぱっと唇を押さえる。それから、手のひらを離して、こちらを見上げてきた。
「だって、好きだって知ったのは、今だもん」
ぽそぽそと囁かれて、じわっと羞恥の原因に気がつく。
そうして気がついたことで、一挙に羞恥が伝播してきた。うなじ辺りから、ぐわりと熱が広がってくる。
無意識に襟首を掻きながら、視線を逸らした。こっぱずかしさが今までの比ではない。どうしてこんなことをやれているのだろう、と思ってしまいそうになるが、本質は何も変わっていないだろうと自分を叱咤する。
ここで、へどもどしたっていいことはひとつだってない。というか、慣れていかなければ困るのは自分たちだ。
今は合宿所にいるからバラバラのロッジに戻るが、この合宿が終われば同じ家に帰る。他のどこにも逃げ場はないし、逃げる気もない。
シュカは眼前で髪の毛を弄ったり、目線を逸らしたりと、気ぜわしくもだもだしていた。多分、このシュカが主導権を握って、行動することはできないだろう。それを受け身だ何だというつもりはない。
亭主関白が通例であるあちらの価値観を持っているシュカだ。そういうところがあるのも仕方がないと思うし、俺自身、ここでシュカに任せるほど軟弱になるつもりはなかった。くだらない矜持かもしれないが、だからこそ相性はいいのかもしれない。
「……慣れてくれよ。想っていることは、今も前も変わんないから」
「そんなこと言われたって、ドキドキする」
わたわたと宙を掻いていた手のひらが、膨らんだ胸の上に置かれる。ドキドキという心臓部分を示しているのだろうが、どうしたってその心臓の上に乗っかっている脂肪が目に入ってきた。
シュカはそんなことなどまるで気にしていないのだろうけれど、こっちはそういうわけにはいかない。目が合わせられないのはお互い様だった。
天文台にも人が現れ始めているのが、逸らした視界の中に入ってくる。それぞれバラけているので、他人の会話が届いてくることはない。他人がいることも分かっている。雰囲気を壊そうという気もないものだから、他人のことは他人のことだ。
それでも、夜の中にある薄らとした人影たちが触れ合ったり抱き合ったりしているのが見える。克明に見えるわけではないが、影が寄り添っているのは分かった。
そっちを眺めているのも無粋だろうし、身の置き所がない。気遣い半分と逃げ半分。シュカが気になるということもあったから、どれも三分の一だったかもしれないが。
とにかく、シュカへと視線を戻したところで、思いっきり目が合った。瞬間、シュカはびくんと身体を竦めてしまう。動揺は今もって消失していないようだ。
苦笑いが漏れてしまった。気持ちが分からんでもないだけに、突く気にはならない。いや、これはもうシュカにほだされきっているから、俺がありったけ受け止めているだけに過ぎないのかもしれないが。
それでも、まぁ、受け止められているのだから、いいことだろう。
「シュカ」
呼ぶと、目線が再びどうにか合った。思えば、いつもはシュカが名を呼んでくれている。今はその逆だ。いつもいつも、シュカに主導を任せてしまっていたのかもしれない。
「好きだよ」
「~~っ」
底抜けに免疫がないようだ。大層、挙動不審になっている。
「改めてよろしく」
「……うん。私も、よろしく」
立て直すには時間がかかるかと思ったが、試しに手を出すと、それを無視することはなかった。一応、反応してくれるくらいには思考がついてきているらしい。だが、目の前のことを処理することで精いっぱいのようだ。
細い指先が手のひらに触れて握手になった拍子に、俺はその手を力任せに引き寄せた。強く抱きしめる。もう、腕に馴染んでいた。けれど、この抱擁は今までのものとは意味が違う。
シュカの呼吸音が耳元で響いた。
「結婚してください」
勢いでも偶然でも何でもない。契約だけの意味しかないプロポーズでもない。ただ状態に陥っただけでもない。あのときのように、呆然としている間にあれよあれよと周囲に急きたてられて囲まれたわけでもない。
自発的に告げて、シュカを正面から見据えた。シュカは一度目を伏せて、緩く抱擁から離れた。そうして、あの日したように、俺の腕を取って胸元へと引き寄せる。あのときのシュカと今のシュカが重なって、心臓が止まりそうだった。
もしかすると、俺はあのときから既に――。
「お受け致します」
遅ればせながら、踏み出せたような気がした。元より動き出していたが、好きだと感情を伴って再出発ができる。
シュカがほろりと顔を綻ばせた。月光に照らされた美麗なきらめきが、目に眩しい。瞼の裏に焼きついて刻まれた。
気まずさがなくなったわけではないし、そんなにすぐに慣れるわけでもない。だから、そのときは一時的な高揚感に飲み込まれて、視野狭窄に陥っていただけだろう。
さっきまでうろうろとうろついていた視線が吸い寄せられるように離れていかない。これは俺だけでなく、シュカも同じだった。顔面は目と鼻の先だ。その距離で凝視しあっていれば、起こることはひとつしかない。
何の躊躇もなく動けたのは、やっぱり視野狭窄に陥っていたのだろう。けれど、きっとそれで正解だった。中庭のときのような横やりはない。
俺が首を傾けるのと、シュカが瞼を落とすのはほとんど同じだっただろう。初めて触れた唇はほの温かい体温があって、柔らかかった。
何事にも賢者タイムはある。
それは含羞が膨らんでしまったこともあるが、ひとけのある場でキスを決め込んだ浮かれっぷりが一番居たたまれない。俺たちはプロポーズを終えると、そそくさと手を繋いで天文台から抜け出した。
正直言って、天体の様子など欠片も覚えていない。そもそも、見ていなかった。月光に照らし出されたシュカの顔色しか覚えていない。全面的に浮かれきっていたので、賢者タイムと呼ぶにはまだ地に足はついていなかっただろう。
そういうときに限って、足元は掬われるものだ。
「お、ラブラブ夫婦はっけーん」
正面からやってくる翔と結羽の軽快な姿に、どっと重力が負ぶさってくる。一気に現実に戻ったような気がした。
「なんでお前らがいんだよ」
「別に友人同士で天体観測に来てもいいだろ? 天文台の本来の使い方じゃん」
「そうそう。あんたたちみたいにイチャイチャするために行くわけじゃないの」
そういう結羽の視線は、俺たちの繋がれた手のひらに向けられている。
別に手を繋いだのを見せたことがないわけじゃない。だが、今はそこに含みを込められていることが丸出しだった。
「悪かったな、ラブラブで」
やけくそだっただろう。だが、もうからかわれたところで、臆面もなくカップルだと公言できる。
もちろん、今までだって、周囲にとってはカップルだっただろう。だが、俺たちの中では、契約的な婚約者としての一線を越えきらないところがあった。今やそんなものはない。
ぬけぬけと笑ってシュカと繋いだ手を振って見せつけてやれば、結羽はふはっと笑った。
「浮かれ過ぎ」
「うるせぇわ」
「ふふふっ」
雑な態度をいつも気にしていたはずだ。それを口に出すこともなかったが、無言になることが多かった。そんなシュカがおかしそうに笑っている。
やっぱり、言葉は必要だったのだと思い知らされた。
「もういいだろ。俺たちはそろそろ戻るから、お前らは風景よく見てこいよ」
「お前、風景まったく覚えてないな、それ」
「……いいだろ、別に。シュカのことを覚えているからそれでいい」
「恥ずかしいことをいけしゃあしゃあと言うなよ。こっちが恥ずかしいわ」
「そっちがからかい続けるからだろ」
「なんか変なスイッチ入ってない? また一段と壊れてんじゃん。シュカさん、これでいいの? 本当に?」
ひどい言い草だ。見たことのない顔を見せているということだろうが、壊れたというだけならまだしも、シュカに確認することか。
半眼で見下ろしていたが、その嫌気はすぐに一掃された。
「健斗さんじゃなきゃ嫌ですよ」
シュカも同じように振り切れていたのだろう。いや、それでなくても、シュカは言ってくれていたかもしれない。
けれど、今となってはその響きがまるで違う。可愛いと口走った俺に挙措を失っていたシュカの気持ちがようよう分かったような気がした。
「……もうダメだね、これは」
「俺たちが何を言っても無敵じゃん。そんなにいいことがあったのか?」
鋭いと言うべきなのか。茶化しているだけなのか。翔の真意は読みづらい。
だが、答えることはひとつだ。俺とシュカは顔を見合わせる。それから、翔に……二人に向き直った。
「「秘密」」
ユニゾンした俺たちに、二人は呆れた顔をする。晴れ晴れとした気持ちだった。
「分かった分かった。邪魔者はさっさと退散しますよ」
「天体楽しんでくるからね」
「おう。じゃあな」
ひらりと手を上げて、二人の横を通り過ぎる。あちらもひらひらと手を振り返して、暗闇への道を辿っていった。さらりとした空気は、俺と結羽たちの間では当たり前のことだ。
俺とシュカは顔を見合わせて、ホールのある建物へと歩き始める。宵の中に輝く光は、煌々としていた。そこへと進んでいく。
繋いでいた手は、いつの間にか恋人繋になっていた。もう、契約や政略だけの婚約者ではない。婚約者であり恋人である。
前途は洋々としていた。
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