第26話

「シュカ」


 シュカがぐるんとこちらを見る。狼狽えていたところに差し出された声は、救いに思えたようだ。二歩、三歩。シュカのほうから、歩み寄ってきてくれた。


「そっちの人は?」

「あ、俺は」

「シュカに何か?」

「……時間があるなら、と思って」


 男は俺の存在をシュカの相手だと確定できていないのだろう。濁しつつも、まだ諦めていない声が真実を語る。

 知らなければ知らないものだな、と新鮮な気持ちでそれを聞いていた。シュカといえば自分と結びついていることがあまりにも自然になっていたような気がする。


「悪い。俺と約束してるから」


 きっぱりと言い切ると、男はひゅっと唾を飲んだ。シュカへ視線を向けてから、こちらへと視線を動かす。俺は一瞬たりとも目を逸らさなかった。男はそのうちに


「すみません」


 と呟くように言ってから、去って行く。

 悪いやつではないのだろう。衆人環視に晒された一連には、多少同情した。

 しかし、だからと言って、こちらから手心を加えるわけにもいかない。それこそ、追い打ちだ。シュカも申し訳なさそうな顔をしつつも、見送ることしかできていなかった。


「シュカ、行こうか」


 後味がいいものではないし、ケチをつけられた感じもある。それでも、今ここで引くことも考えられなかった。進むしかないのだから、声をかけて一歩を踏み出した。

 周囲もそれに釣られたかのように時が動き出す。俺とシュカは並んで、ホールを後にした。他の男女がどうなっていくのかを見守る義理はない。


「……怒ってる?」


 後ろからついてくるシュカが、そっと声を出す。

 振り向くと、数歩遅れたところでシュカが俯き加減に歩いていた。こっちが立ち止まったことにも気がついていないのか。そのまま、俺の腹部にぶつかってきた。

 それから、ようやくこちらを見上げてくる。眉尻は下がりきっていて、落ち込んでいるようだ。

 嫉妬心があることを伝えたことで、輪を掛けて不安を抱かせてしまっているのかもしれない。失敗だっただろうか。本心であるので、誤魔化したところでどうしようもないのだけれど。


「怒ってないよ」

「本当?」

「俺、そこまで心が狭く見えてるか?」

「……そんなことはないけど」

「けど?」


 問いかけると、シュカは唇を噛み締めた。いつもなら、促せばシュカは口を開く。だが、今ばかりは頑なに唇は引き締められたままだった。

 シュカはそのまま硬直してしまっている。このままここに立ち竦んでおくわけにもいかない。ホールから出てくる生徒にも見つかるし、揉めているとまで言わずとも、気まずくなっているところを見られたくはなかった。たった今、男を振って出てきた婚約者たちとしても、居心地が悪い。

 俺はシュカの手首を捕まえて、歩を進める。シュカは抵抗することもなかったが、口を開くこともなかった。

 自分はそこまで余裕がなく見えているのだろうか。それとも、よほど気にかかっているようなことがあるのだろうか。何か不安にさせるような失態をしでかしたか。ぐるぐると考えながら、天文台への道を辿る。

 歩道は森林に囲まれていて、夜闇に虫の鳴き声が響いていた。暗い道を踏み外さないように気をつけながら、外灯の光を頼りに前へ進んだ。シュカは黙ってついていきている。

 このまま突き進んで、踏み出そうとした一歩を踏み出せるのか。その不安が胸を過るが、今更どうしようもない。ここで踵を返すなんて、意気地なしにもほどがある。むしろ、その取り消しに踏み切る勇気の持ち合わせすらなかった。

 そう考えているうちにも、足は止まることはない。着々と進んで、天文台へと辿り着いてしまった。

 点在している外灯の光は心なしか薄い。夜空には満天が広がっていた。シュカも空を見上げたのか。すーっと深呼吸する音が聞こえた。

 それで、道中の無言による気まずさが消えるわけではない。それでも、シュカが反応を示してくれたことに、ほんの少し気が楽になった気がした。


「……いい景色だな。あっちと同じくらい、星が良く見える」

「光が少ないからだね……綺麗」


 月の光がブロンドをきらめかせる。目を眇めているエメラルドにも光が走っていた。確かに、綺麗だ。

 そのまま緩やかに、天文台の柵まで進む。薄暗い森の景色は、見下ろしたところで絶景というわけでもない。それでも、幻想的な雰囲気のある森閑とした緑の匂いがした。


「静かだね」

「……シュカ」


 会話は途切れたままになっている。このまま空気に飲まれて、曖昧にする道もあったのかもしれない。けれど、棚上げにしておけば、後々面倒な感情に翻弄されるのは分かりきっている。

 呼んだ声は、掠れていた。シュカの顔がゆっくりとこちらを向く。月光に輪郭が光っていた。


「どうして、怒ってると思ったの?」

「……疑っているわけじゃないよ」

「うん。分かってるけど、何か引っ掛かってることがあるんじゃないのか?」


 うやむやにしておきたくはない。自分のためもであっただろう。だが、シュカに不安や疑問があるのなら解消しておきたかった。


「……」


 シュカは再び唇を噛んで黙り込む。言わないつもりか、という苛立ちはなかった。

 シュカだって、そこまで幼稚な態度を取り続けることはないだろう。躊躇を責める気はない。こうして待つことがシュカを追い詰めるかもしれないとは思ったが、引くに引けないのも事実だった。

 じっと待っていると、シュカの手が俺の腹辺りのジャージを掴んでくる。力は弱々しい。シュカがこうして縋ってくるのは、今までにも多くあった。甘えている。甘えられている。息を吸い込む音が、静かな夜に鋭く響いた。


「……私が、言い出したんだもん」

「言い出した?」


 怒っていると誤認した理由と繋がりが見えない。復唱した俺に、シュカが厳かに頷く。それから、次の言葉を紡ぐにも時間がかかった。


「この婚約は、私が言い出したようなものでしょ? もちろん、健斗さんが私を嫌ってるとは思ってないよ。そう言ってくれたし、よくしてくれているし、そこまで疑ってない。でもさ、しょうがないって思ってるんじゃないかって。契約みたいなものだから、取り消しもできないし、だから、仕方がないって言ってたし、そうやって……割り切っているんじゃないかって、思って、だから……、私がいちいち言うのとか、心地良くないことをされたりするのとか、嫌になったりするんじゃないかって。私が、勝手に、頷いたから。全部、私が始めて、勝手にこういう状況にしちゃったから。健斗さんを逃げられなくしちゃったのは、私だから」


 シュカの声は震えていた。それでも、止まることなく吐き出していく。語尾に行くほど震えはひどくなり、ジャージを握る握力が強くなっていた。シュカは俯いてしまっていて、こちらの表情をまったく見ていない。


「シュカ」


 フラットに呼びかけたつもりだった。

 しかし、シュカは怯えたような目でこちらを見上げる。怒っているつもりはないのだが、シュカにしてみればそう簡単に割り切れるものではないのだろう。負い目に思っているのなら、尚のことだ。

 頭を撫でてみても、シュカは怯えを消しはしない。やはり、言葉がいるのだろう。そのつもりだったのだから、何も躊躇する理由はなかった。


「俺はちゃんと納得している」

「納得」


 繰り返す声には自嘲的な笑みが乗っている。ことごとく後ろ向きになってしまっているようだ。

 俺だって、それが引っ掛かっていた。だからこその今日だ。だが、シュカがそこまで深刻に思い詰めているとは思っていなかった。

 頭を撫でていた手を滑らせて、シュカの頬に添えた。柔らかくて滑らか。自分の手のひらに収まる小顔は、自分の手と比較して肌が白い。

 エメラルドが陰っている。いつだって、これに光を灯した目をしていて欲しかった。そうして、そばにいてくれる。

 俺は、そんなシュカのことが。


「……好きだよ」


 するっと零れた言葉に、シュカが瞠目した。意味が理解できないとばかりに、呆然としている。あまりに呆然としているものだから、徐々に不安が膨張して胸が痛い。平然としていることもできなくて、頬が引きつった。

 やっぱり、シュカに感情は伴っていないのだろうか。俺がしょうがなく付き合っていると信じ込むのは、自分がそうだからだろうか。

 シュカは数十秒間が経っても尚、一ミリも動かない。石化してしまったかのように、まんじりともせず俺を凝視している。いや、見ているのかすら定かではない。ただ、視界に入っているだけで、視認できていないのではないのだろうか。それくらい反応がなかった。


「シュカ……?」


 根負けしたのはこちらで、恐る恐る名を呼んだ。そうすることで、シュカはようやく我に返った。


「……ほんとう?」


 角砂糖のようにほろほろと溶けてしまいそうな儚い声だ。

 信用がないな、と思ったが、目の前で不安な顔をしているのを見れば、そんな文句をつけようとは思えない。


「こんな嘘は言わないよ」

「……そうかも、しれないけど」


 信じられないのだろう。

 これは、ここまで一切伝えずにやってきた弊害だ。伝えないままに、大切だと伝えていたし、スキンシップを取ってきた。そんな人間が急にする告白には、真実味がないのだろう。

 考えられるようになると、刹那に焦りが本格化してきた。


「ずっと、ちゃんと好きだった」

「……どうして?」

「そりゃ、あれだけ一緒に過ごしていて、相性もいいし、シュカは俺に歩み寄ってくれて、優しい言葉をかけてくれて、可愛い姿を見せてくれて、それで何とも思わないわけないだろ。俺は、好きでもない子に触れたりできるほど、器用じゃないんだ」

「若宮さん」

「結羽とシュカにしているのが同じだなんて思ってないだろ?」


 さすがに失言だと分かったのか。シュカはこくんと頷いた。それから、はふりと息を吐く。


「私も、ちゃんと好きだから、嬉しい」


 どうにかこうにか絞り出した様子のシュカは、じわじわと自覚をしたかのように表情を蕩かせた。

 ああ、と思う。触れている頬が、熱を放出しているようだった。胸を掻き毟りたくなるような衝動に揺さぶられる。


「ありがとう。俺も嬉しいよ。好きだから」


 シュカの自覚が追いつかないと言うのなら、繰り返すしかない。それを面倒に思わないほどには、俺は悩殺されきっている。


「……うん、あ、ありがとう? うん」


 俺が一度も伝えていないのだから、シュカだって一度も俺の告白を聞いてもいない。どう反応して良いのか分からずに、あからさまに戸惑っていた。

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