第25話

 シュカがどこまで深刻に受け取っているのかは分からない。結羽の俺への態度が揺らぎを与えているのか。それとも、結羽の発言自体がシュカの心を削っているのか。そこには微妙な差がある。

 結羽を嫌っている気配はない。そもそも、シュカに嫌悪感が存在するのかと疑うほど、穏当だ。

 今も、クラスメイト以外ともナチュラルに馴染んでいる。コミュニケーション能力が相当高い。今までは、自分としか付き合いがなかったから気がついていなかったことだ。出会ったときの引っ込み思案のような仕草が、記憶に焼きついていることもあるかもしれない。

 シュカとの親交が深まっていないとは思っていなかった。お互いに距離を近付けているし、理解できていることも増えているはずだ。

 だが、知らない一面もたくさんある。触れるようになってから知るようになった顔もあった。俺自身、自分の知らない顔が引き出されている。結羽が感じているのは、そういうものだろう。

 ぴーっと鳴り響いた笛に、シュカたちが手を上げて喜んでいた。勝負はついたらしい。ハイタッチしてはしゃいでいるシュカに、男女の貴賎はなかった。

 それにグチグチ言うつもりはない。思わずにはいられないが、気持ちを伝えたことは気持ちの容量を多少は大きくしていた。

 シュカは俺と目が合うと、人の輪を抜け出してこちらへやってくる。褒めてもらおうとする犬のようだった。


「お疲れ様。大活躍だったな」


 大仰な褒め言葉ではない。それでも、シュカは嬉しそうにへにゃりと笑った。

 額を伝う汗がキラキラとしている。爽やかな汗というのはこういうものか。タオルで拭ってやると、シュカはなすがままに拭かれていた。ふふふ、と笑いながら自分で拭おうとはしない。


「ほら、自分で拭けよ」

「はーい」


 ぞんざいに押し付けたようなものだったが、シュカは弾んだ声で返事をした。

 何がそんなに面白いのか。不思議さは拭いきれなかったが、雑な態度を喜んでいるのかもしれないと思い至る。そう思えば、微笑ましさに笑みが零れた。


「健斗さんは、もういいの?」


 コート内では、またメンバーを募って試合を始めようとしている。それを一瞥してから、こちらを見上げてきた。


「うん。もう十分。シュカこそいいのか? まだ時間はあるんだし、自由にしていいんだぞ」

「私が付き合ってもらってるんだから、健斗さんを放置したりしないよ」

「気を遣わなくていいけど」

「私がいるの邪魔なの?」


 本気でそう言っているわけではないだろう。けれど、頬を膨らませて不貞腐れているのは、半分は本気のはずだ。シュカは俺の隣に並んできて、ちらりと結羽を見た。

 ……もしかしたら、結構本気であるのかもしれない。


「そんなわけないだろ? 一緒にいてくれるなら、そっちのほうが嬉しいよ」

「じゃあ、良いでしょ? 健斗さんと一緒に過ごすって決めてたんだもん」

「よく飽きないよね」


 横から口を出されて、俺とシュカは顔を見合わせた。同じタイミングで首を傾げ合う。


「……分かった。飽きないのは分かったから、もう好きにしてなよ」


 昨日の忠告など上の空で、そのうえ一切譲らない俺たちの態度に結羽は心底呆れた顔をした。


「好きにしてるだろ」

「はいはい。可愛いシュカさんにデレデレしてろ」


 捨て台詞のように吐き出した結羽は、軽やかな足取りでコートへ入っていく。新しい試合に参加する腹積もりらしい。

 シュカの運動神経を褒めていたが、結羽だってスポーツは得意だし、好きなはずだ。意気揚々とゲームに参加している。

 隣にいたシュカが、そっと腕に触れてきた。見下ろすと、上目にこちらを見上げてくる。上目遣いは意図したものじゃないだろう。身長差が自然に生み出すものだ。それでも、この角度はズルいよなぁと毎度思う。


「デレデレしてたの?」

「……何を嬉しそうにしてんだよ」

「若宮さん相手に私のことデレデレしたのかな? と思って」

「それ、嬉しいか?」

「若宮さんと仲良さそうに話してたから、何話しているのかなって思ってた。私のことでデレてくれてたんなら嬉しい」

「……試合中によく見てたな」

「健斗さんのことだもん」


 俺だって、甘いことを言っているだろう。自分でも振り返ったときに身悶えたくなるようなこともあった。

 けれど、シュカのさりげない発言ほどの破壊力はないと思う。このさりげなさは、たまったものではなかった。心臓がいくつあっても足りない気がする。


「ウザい?」

「俺もずっと見てたし、気にしないよ」


 今に限らず、昨日もずっと見つめていたようなものだ。シュカよりも、こちらのほうがウザいだろう。

 だろうに、シュカはへらへらと笑って、


「そっかぁ」


 と相槌を打った。

 それも受け入れちゃうのか、と両手で顔を覆う。これがデレデレしていると言われる要因なのだろう。

 俺たちはそうして、浮ついた会話をしながら試合を見ることで、自由時間を過ごした。



 その日の夕食後は、ここ数日の中でももっとも落ち着かない時間だっただろう。

 あちこちで、誘いの言葉や断り文句。イチャイチャふわふわそわそわ、一部ではへこんでいるものもいた。とにかく、恋愛事が生徒間に蔓延している。そんな中にいる婚約者という存在は、殊更に注目を浴びるものだ。

 天文台への移動は、個人の自由だった。今日は解放される日だということだけが伝えられている。誰が最初に天文台へ向かうのか。そうした雰囲気も相俟って、異様な色合いが漂っていた。

 ここで第一人者になる勇敢さが自分にあるのか。それを試されているような気がする。誰も彼もが他人の様子を窺っていた。

 それは、シュカも同じだ。ちらちらとこっちを見ながらも、踏み出すことはない。男から行くべき、ということでもないだろうが、躊躇するのはよく分かる。俺だって、一息に動き出せる気はしない。

 ふぅーっと長い息を吐いて、昨日括った腹を思い出す。いつまでも躊躇しているってわけにもいかなかった。この中の第一人者になるのは想像もしていなかったが、ここまできて引く気もない。決めた覚悟を無駄にするつもりはなかった。

 シュカの行動を思い出せば、これ以上先延ばしにすることはできない。結羽への態度を見ても、節々で不安を覚えているのを感じる。今日のバスケットコートでの一幕もそうだろう。

 それがすべて、感情を伝えていないからというほど傲慢になるつもりはない。それだけで、解決するとも思っていなかった。

 けれど、その第一歩を踏み出さなければ、始まるものも始まらない。ハグ以降のものに踏み出すにも、何をするにしても、その負い目は消しておきたかった。

 決して、流されているだけではないのだ、と。それを伝えたいのは、紛れもなく俺の意志だった。

 だったら、足踏みなどしている場合ではない。そうして捏ねくり回している時間は、そう長くなかったはずだ。だが、その間は決定的なものだったらしい。

 シュカのそばには、他クラスの男子がやってきていた。背が高く颯爽とした黒縁眼鏡の男だ。

 俺たちの噂が他クラスにどれほど出回っているのかは定かではない。俺たちはギリギリ隣と呼べるような場所に突っ立っていただけだった。だから、シュカに特定の人間がいると確定できるものではなかっただろう。

 もちろん、俺がいると知っていたって、アプローチをしてはならないということはない。知っていてやるのであれば悪趣味ではあろうが、誘って告白しようという自主性すら防げるものではなかった。


「シュカさん、お話いいですか?」


 丁寧な態度からするに、悪趣味な思惑ではないのだろう。シュカは疑惑の目でその男を見上げていた。


「時間、ありますか?」

「えっと、」


 シュカにはこっちの行間を読み間違うことはある。しかし、まったく理解できないほどではない。

 男がどういう意図で声をかけてきているのか、それは分かっているはずだ。ただ、それに対する断り文句のストックがないのだろう。動転して、目を泳がせていた。

 その視線がこちらを捉えて、へにょんと眉尻が下がる。ただし、それは一瞬で、目を瞑ったかと思うときりっとした顔つきになった。

 その顔で、男へと向き直る。男はしつこく言い募ったりはせずに、シュカの言葉を待っていた。恐らく、本当に声をかけたい一心であるのだろう。俺への邪悪な対抗心などを持っている男には見えなかった。だからと言って、目こぼしはできないが。

 シュカは真っ直ぐに男を見上げて、口を開いた。


「ありません」


 周囲が静かに様子を見守っていたからか。俺が耳を澄ませていたからか。その声は残酷なほど明朗に響く。これが赤の他人の現場ならば、男に同情してしまいそうなほど、取り付く島もない一刀両断だった。


「少しも?」

「お約束がありますから」

「約束……」


 それだけで相手の男も察したのだろう。伸びていた背筋が丸まった。


「ごめんなさい」


 トドメではあるが、言わなければ言わないで角は立つ。はっきりと告げたシュカに、男は項垂れた。ただ、当初に抱いていたほど、引き際のいい男ではなかったらしい。


「どうしても?」

「あの」

「約束しているからって、相手はまだいないですよね? だったら、時間がないとは言わないんじゃないですか?」


 シュカとしては、断れたつもりだったのだろう。項垂れたまま、ぼそぼそという男はシュカを見ていない。シュカは心底困惑した顔で、男を見ていた。

 俺だって、シュカ以外との恋愛事なんて経験はない。シュカといることが当然で、他の経験なんて考える気もなかった。だからって、シュカにも経験がなかったとは思い込みはしない。だが、向こうで告白を断ることはあったのかもしれない。

 だが、こちらでの経験はゼロだ。これだけは、ずっと一緒にいたから断言できる。どうしたらいいのか。本当に分からないのだろう。

 俺は腹に力を入れて、足を踏み出した。

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