第18話
はぁと深く息を吐き出して俯いたのは、寸秒だった。シュカを視界から逃したのも、そのときだけだ。しかし、その一瞬のうちに、シュカのそばには二人組の男が現れていた。
その瞬間に入ったスイッチは、今までにないものだったかもしれない。
「一人?」
「荷物いっぱいで大変でしょ? よかったら、荷物持ちとかするけど?」
「ご飯買いに行くのも大変じゃない?」
続々と声をかけてくる男たちに、シュカは口を挟めずにいるようだ。いや、その無反応の意味を考える必要はない。
俺は無言でそこに近付いて、どんとたこ焼きをテーブルの上に置いた。三人の瞳がこちらを見上げてくる。
シュカのほうは一瞥もしなかった。視界には入っていたが、表情は確認できていない。だが、今ばかりはシュカの反応は横に置いた。今、一番大切なのは男たちを退けることだけだ。
ぎろりと射抜いた俺に、男二人はわずかに身を逸らした。それでも、それだけで逃げることはない。それは意地か度胸か。それだって、俺にはどうでもいいことだった。
目的はたったひとつで、それは一ナノメートルだろうと何だろうと譲りはしない。
「何か用ですか」
にこりと微笑んだのは、個人的には威嚇のつもりはなかった。しかし、あちらにしてみれば不気味だったようだ。効果的であれば、それに越したことはない。
「いや、彼女が一人だったみたいだから」
「それは失礼しました。お相手してくださって、ありがとうございます。もう大丈夫ですんで……平気か?」
そこで見下ろしたシュカが、こくんと顎を引く。もしかすると、状況が把握できていないのかもしれない。ただ、余計な口を開かないのは好都合だった。
「だ、そうなので、もう一緒にいてくださらなくて構わないですよ」
横暴な態度で追い返すほうが、助けにきたものとしては格好がつくのかもしれない。けれど、変な揉め事にしたくはなかった。シュカがやり玉に挙がるようなことは避けたい。
とにかく、シュカを自分の腕の中に取り戻すことだけに集中していた。
「はぁ」
いまいち響いていない相槌に目を細める。しつこく言い縋ってくる感じではないが、去ってくれるわけでもない。どういう了簡なのか。考えることはやっぱり後回しにした。
俺は置いたばかりのたこ焼きを再び手に取って、シュカの腕を取る。予告なしの動きになったことは申し訳なく思ったし、実際シュカも後れを取っていた。それでも、これ以上この空気に浸っていたいとは思えない。
「荷物持って」
「あ、うん」
「それでは、失礼します」
ご丁寧に言いつけて、その場を去った。
このフードコートは、外にもスペースを取っている。器もある食事だったら面倒だっただろうが、たこ焼きなら気にすることもない。俺は一直線にそちらへ移動する。後ろから追ってくる気配はなかったが、一刻も早く現場から離れたかった。
「健斗さん?」
名前を呼ばれただけだ。だが、上がった語尾で疑問なのは分かった。
「ああいうのは、相手しなくていい。気をつけてくれ」
「……あれ、何ですか? 誘拐?」
席につきながらの問いかけに、ああ、と思う。
向こうの概念だと、より物騒なのか。いや、よりかどうかは分からない。ナンパだってたちが悪ければ強引な手段として、物騒の範疇に入る。
どう説明すべきか、と一瞬迷ったが、シュカの外見を考えればきちんと教えておくべきだろう。自身の平穏のためにも。
「ナンパ」
「ナンパ……?」
向こうにそれが存在しないのか。別の言い回しになるのか。そのときは、冷静に判断することもできずに頷いた。
「女の子に声をかけて引っかけようってこと」
「ひっかける。私?」
自覚がないのか。向こうの美醜も、こちらと違いはなかったはずだ。だというのに、見目を惹く自覚がまるでない。あちらでは、声をかけるというと犯罪になるのだろうか。
俺は隣に座っているシュカの毛先を掬って唇を寄せた。
「わ、え、なに」
毛先に感覚なんてあるはずもない。それでも、ここまで敏感に反応されると、こちらまで呼応してしまいそうだ。
「シュカは可愛いんだから、気をつけるように」
「はい」
注意と心配が混在して、本気の声音になった。
その勢いに飲まれたのか。敬語で頷いたシュカはしおらしくって、ぐっとくる。自分でも恐ろしいほど耽溺していることを自覚して、眉間を揉んだ。
「健斗さん? 心配かけてごめんね? 私、軽率だったんだね? 健斗さん、怖い顔してたし、悪かったです。ごめんなさい」
自身の感情に苦難していただけだが、シュカは謝罪を寄越した。横側から俺のシャツを引いて、必死に見上げてくる。ちょっと縋り方が懸命過ぎて驚いた。そんなに怖い顔をしていたのだろうか。
「いや、悪い。大丈夫。シュカが悪いわけじゃないよ。あいつらが話しかけただけだからな。ただ、悪いことを考えて声をかけてくるやつもこっちにだっているから、気をつけて欲しいってこと。心配したんだよ」
「……うん。私も油断してたね。気をつける」
「ああ。分かってくれればいいよ。もっと早く伝えておくべきだったな。ほら、たこ焼き食べよう」
「そうだね。いただきます」
空気を入れ換えようとしているのを、無粋に壊そうとしないほどには、シュカは俺に慣れている。シュカだって、男に絡まれたことなど話し続けていたいことではないだろう。
そのまま、たこ焼きをはふはふ食べて、シュカは熱いと泣きそうになっていた。あちらでは熱を閉じ込めたような料理は膾炙していない。珍しい料理法は、シュカにダメージを与えたようだ。
ただ、美味しさには大満足だったようで、頬を膨らませてもぐもぐしていた。むくれていたときとよく似ていて、微笑ましく気持ちが弛んだ。
それをスマホに収めると、シュカは格段に膨れる。じゃれついてくるのを避けながら、写真はしっかりフォルダに残した。今までの初体験を収めているシュカだけのフォルダがあるのは内緒だ。
そうして、それ以降は問題なく、俺たちはショッピングを終えて自宅へと戻った。平和的に済んだと、俺は油断していたのだ。
家に帰って、リビングにがさりと荷物を置いた。そこまで大量に買ったつもりはなかったが、何だかんだいって店を巡っていれば袋は多い。
そのひとつの紙袋が倒れた。上部の開いた紙袋からざざっと中身がはみ出る。ごく自然に元に戻そうと荷物と袋に触れて固まった。
そういえば、一時別行動した。シュカが下着を買うから、と店舗に向かったことだ。彼氏によってはついていったりするものもいるんだろうが、俺にそんな度胸があるはずもない。
そんな免疫のないものが、下着を握り締めて即応できるわけもなかった。普段の洗濯はそうした面へ配慮して、シュカに任せている。一任というわけではなく、畳むころには下着を取り除いてもらって手伝ったりはしていた。
何にしても、デリカシーに直結する部分には、気を遣っている。自身の平静のためにも。それがこのざまだ。
硬直していたのは、どれくらいの秒数だったか分からない。本当に寸刻だっただろう。すぐにシュカが飛び込んできて、俺の手の中からすべてを攫っていったのだから、それだけは間違いない。
「わるい」
ようよう絞り出した俺を、潤んだエメラルドが貫いてくる。胸に抱えられた袋が激しく抱きしめられていた。
「見た?」
俺は喉を鳴らして、視線を逸らすことしかできなかった。
意図して見ようとしたわけじゃない。微に入り細に入り目に焼きつけようとしたわけでもなかった。けれど、黒いレースの際どい紐の細い下着は、べったりと網膜に焼きついている。
その視線移動は、俺の想像や思考を気取らせるには十分過ぎたようだ。ぱんと痛くもない勢いで、袋で二の腕辺りを引っ叩かれた。
暴力に訴えかけられて、苛立つところなのかもしれない。けれど、そうしてくるシュカの顔が真っ赤で、瞳をうるうる潤ませているものだから、苛立ちなど身体の底に眠っていた。
「忘れて!」
「そんなに慌てなくても」
「だって! だって、向こうじゃブ……こういう下着ってないんだもん。どんなのが正解なのか分かんないし、なんか恥ずかしいし!」
シュカは落ち着くどころか、おろおろして収拾がつかなくなっていく。
なるほど。あちらと何か感覚が違うらしい。だが、生憎、理解に努めようとしても掌握はできないし、女性の下着のことなんて、俺にはまったく感覚が掴めなかった。
ただただ、シュカが目の前で爆発するかのように照れていることだけが真実だ。
「分かった。分かったから、落ち着け!」
両肩を掴んでとんとんと叩くこっちも、内心慌てふためいている。
どれだけ消そうとしたって、脳内に張り付いた薄い布地が脳内にどんと鎮座していた。忘れるなんてことは、不可能に近い。
ともすると、それを身につけているシュカを想像してしまいそうになる脳を無理やりに引き止めて、理性の手綱を引いていた。それはどうしたって、無理やり過ぎて、現場を収める力もない。
だから、トンチキなことを言い放つことになるのだ。
「……多分、ちょっと派手だと思うけど、シュカが気に入っているなら、それでいいと思うぞ」
「っ、もう! 私が選んだんじゃないもん! こんなの、派手だって、やっぱり、そうでしょ? 分かるもん。私でも分かるもん!」
恐らく、店員に押し切られたのだろう。確かに、普段からオススメにやたらと引きずられている節はあった。ティッシュ配りには必ず捕まるし、スーパーでの試食にも捕まる。
「か、彼氏、がいるなら、それくらい、いいって!」
度を失ったままのシュカの口から零れ落ちた言葉が、頭蓋骨を揺らした。
つまり、あの色気たっぷりの下着は、俺のためだ。どかんと心臓から打ち出された血液が巡り過ぎて、全身の熱が急上昇した。
「こんなの痴女……」
「いや!? そこまでじゃないからな! そこまでセクシー下着ってわけじゃない」
「セクシー下着って何?」
完全に自滅して、視線を逸らす。現場は大パニックのままだ。収拾はとてもつきそうにない。
俺が視線を逸らしたことで、それが今のものよりも華美で際どい下着だと推測できたのだろう。想像はできずとも、手に持っているものよりも過激であることだけは通じたはずだ。
そろそろ血圧が上がり過ぎて倒れるのではないか。それほど真っ赤なシュカが、袋で叩いて俺を攻撃してくる。
胸元にげしげし当てていたかと思うと、そのうち我慢ができなくなったのか。頭を胸元に押し当てて、ぐりぐりと頭突きに似た何かをしでかしてくれた。痛くもないし、可愛いだけだったが。
挙げ句の果てに
「えっち」
などと、胸元で呟く。卒倒しそうになる意識をどうにか留めた。
「悪かったって。悪かったから、どうか落ち着いてくれ。大丈夫。ほら、もう準備しないと。明日、出発なんだから」
学生生活は忙しい。順調ではあったが、それでも異世界人がこちらで生活するのは大変だ。宿題だって一筋縄でもいかないし、復習は必須だった。そうしていると、土日もあっという間に過ぎていく。
ショッピングも、最優先事項から外すことになった。最悪、その辺りで揃えようと思えば揃えられるものだったからだ。確認もともにしたほうがいい。そうして調整をし、どうにか前日という話になった。
それを取り出すとシュカは顔を離して、無言で顎を引く。顔を手で扇ぎながら離れていくと、学校指定のスポーツバッグに荷物を詰め始めた。
こちらも同じように準備を始める。ぽつぽつと確認はし合うことはあったが、必要以上に言葉を交わせなかったのは、意識が外れていかないからだろう。それは準備している間だけではなく、食事中もだし、寝るまでずっとだった。
というよりも、寝る直前ほど問題が発生したと言える。
それもこれも、俺が悪い。圧倒的に悪い。風呂から出てきたシュカをまじまじと見てしまったのだから、失点と言わずして何というか。
そして、シュカもまた、意識を拭いきれていなかったのだろう。俺の視線に気がついた途端、ぱっと身体を腕で抱いた。おかげさまで、ぎくしゃくしたというか、甘酸っぱいというか。そうした空気は加速度的に濃くなった。
「着てないからね!」
ごっほと咳き込んでしまったのは仕方がないだろう。
確かに、俺の視線はそういう意味を含んで見えたはずだ。実際、かすかにそう思ってしまったのだから間違っていない。
しかし、馬鹿正直に中身の報告をしなくてもいい。
「明日は他の人と一緒なんだから、着る意味ないもん!」
「分かったから、それ以上墓穴を掘るのをやめろ!」
焦っていると、とんでもないことをしでかすのは、俺もシュカも似たもの同士なのかもしれない。
他の人と一緒じゃなきゃ……、俺だけならばあの際どい下着を着る意識があるってことだ。それに気がつくと、頭が締め付けられるように熱かった。
手のひらを立てた制止に、シュカはこくこくと首振り人形のように頷く。自身でも、馬鹿なことをしている自覚があるのだろう。
そんなものだから、お互いに羞恥に炙られてどうしようもない。自分たちだけで持ち直す力量はなかった。今まで、そういう雰囲気になることもなくやってきてしまった弊害だろう。
不適合なまま、
「も、もう寝るね!」
と、シュカが逃げの一手を打った。俺だって、それ以上の解決法などはない。
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい!」
わっと言い切ったシュカは、その勢いのまま布団に潜り込んでしまう。いつもよりもベッドの端にいるのは、ただの羞恥心であると信じたいところだ。避けられても仕方のない状態なので、信じることはちょっと難しかったが。
ぐしゃぐしゃと髪の毛を引っ掻き回してから、俺もベッドに入った。やはり距離を取ってしまったのは、自身の反省からだ。下手すると、ナンパしてきた男たちよりもたちが悪い。
シュカが照れて騒いでいる。ガチギレしているわけじゃないと分かるから、許されているだけだ。俺たちが婚約者であって、関係を深めたからだけに過ぎない。
改めなければ、という気持ちは十分にあった。しかし、どうしたってセンシティブなことだ。簡単に割り切ることはできない。
網膜に焼きついた下着と、シュカの姿が重なりそうになる。渾身の力で引き止めようとしても、脳内は悶々と艶やかな色に染まっていた。
そんな状態で眠りにつけるわけもない。ある程度いつものことといえど、いつもよりもずっと状況は悪かった。眠りに落ちたのは深夜もいいところで、ぐっすりと落ちた気もしない。
頭の中が飽和した気ぜわしい一夜を過ごした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます