第五章

第19話

 高校になって初めての宿泊行事だ。俺とシュカの雰囲気も落ち着きのないままだったが、周囲も同じようなものだった。

 ましてや、天文台の噂もある。噂は噂でしかないが、恋愛事は関心のある分野のようだ。そうした部分も含めて、落ち着きのないバス移動だった。

 俺とシュカは、何だかんだ言いながらも隣にいる。昨日の居たたまれなさも多少は希釈されていた。

 ただし、影響はある。それは主に、眠気という形で襲ってきた。うとうとしているだけならば、問題はなかっただろう。実際、途中までは特に問題もなかった。

 ただ、野外合宿の目的地は山岳地にある合宿所だ。到着時間になるころには、蛇腹道に突入する。眠気の気怠さを持ったままの重力による内臓の撹拌は、不快感を誘発した。


「健斗さん、大丈夫?」


 自分では、まぁ気持ち悪い。その程度でいたが、どうやら実感以上に消耗して見えていたようだ。

 尋ねたシュカへ目を向けると、ひどく心配そうな表情をしていた。大丈夫だと告げてやりたかったが、口を開くのも億劫だった。そこまでの症状に直面して、ようやく体調不良具合を実感する。感覚が鈍くなっているのも、消耗のひとつだっただろう。


「顔色が悪いよ。もうちょっとでつくらしいけど、頑張れそう?」

「……ああ」


 しかと返事したつもりだったが、声は掠れていた。

 シュカの顔がまます不安げになる。そんなに心配しないで欲しい。安心させてやりたかったが、気持ちの悪さは隠しきれなかった。

 シュカの手のひらが背を撫でてくれる。不調だからか、邪なことは考えなかった。それは、お互い様だったかもしれない。優しい体温が、胸に染みる。


「ごめん」

「無理しないでいいから、休んでて。ちゃんと起こすから」


 ゆっくりと撫でていた手のひらが移動して、肩を引き寄せられる。シュカの肩口に頭を寄せられて、苦笑いが浮かんだ。

 けれど、悪い気はしない。周囲にどう見られているのか。そんなことに気を遣う余裕もなく、俺はそのまま合宿所に到着するまでシュカに支えられていた。




 バスを降りたからといって、不調は一瞬で改善したりはしない。俺はロッジで休むことになってしまった。

 眠れたことで回復はしたが、暇になるのも早かった。かといって、みんながどこにいるのか分からないし、勝手に動くわけにもいかず、休憩に準じていることしかできない。はぁと深いため息が零れ落ちた。

 こんなことになったのは、昨夜の自分が原因だ。早急にどうこうできるものでもないが、率直に馬鹿な妄想の結果なのだからやりきれない。性懲りもなくまだその場に縫い付けられているのだから、始末に負えなかった。

 がしがしと髪の毛を掻き乱してみても、一度芽生えたものは消えていかない。それだけ感情が伴っていると言えば、進展でもあるのだろう。意識しつつも何もなかった日々を思えば、婚約者としては進歩したはずだ。

 だが、その進歩が心を乱しまくっている。調子は戻ったはずなのに、本調子を取り戻せた気がしない。

 下着の件はきっかけに過ぎないのだ。結局のところ、ずっとこのままってわけにはいかない。初日に確認しあったくせに、その後は知らん振りを続けている。

 必ずしも関係を進めなければならないわけじゃない。ただ、俺たちはそれを濁して後に回してしまっているだけだ。意思がないわけでも、感情がないわけでもない。お互いに、伴っているものは確かにある。だが、それでも決定打がないまま、ここまできてしまっていた。

 それは、今に始まったことじゃない。今となっては、すべてが伴っているとしても、始まりはなし崩しだ。そのことが、ずっと引っ掛かっている。

 シュカも同じかどうかは分からない。けれど、少なくとも俺はそのことが引っ掛かっていて、だからこそ、こんな些末なことで造作もなく揺らぐのだろう。そうして、シュカのことばかりに思考を占められていた。

 休んで取り残されている。もっと他にも気にする状況はあるだろうに、シュカはどうしているのか。それだけが気になっていた。

 離れていることに不安も感じる。昨日もそうだった。今は視界の中にもいない。正直に言えば、どうしていいか分からないぐらいの不安が胸に巣くっている。自分でもこの不安の正体を掴みきれていなかった。

 ただ、心当たりが絶無ではない。

 周囲に認められることで、婚約者としての自覚が芽生えた。今まで俺とシュカの間に他の人間が挟まる余地はなかったのだ。そこに、他者の目。それだけでなく、他者の介入もある。それは、シュカがこちらの人間を知るということだ。

 今までだって、知らなかったわけじゃない。俺の両親もいるし、街中で人を見ることもあった。でも、街中の人なんてのは赤の他人で、こんな人もいるという漠然としたサンプルでしかない。そう思えていたのだ。

 だが、今はクラスメイトとして付き合いがある。どういう性格をしていて、何が好きで、趣味が合う人もいるのかもしれない。シュカと一緒にいる時間は多いが、束縛しているわけではなかった。だから、俺の知らない友人関係もあるだろう。そうしてこちらでの世界が広がっていく。

 不安なのだ。

 どうしたって、なし崩しに始まった関係だということが根にある。

 シュカの感情を疑っているわけではなかった。いくら何でも、何とも思っていない間に、あんな発言をしてくれる子ではない。だから、憎からず想ってくれていることは分かっている。

 ただ、確定ではなかった。俺からだって伝えたこともなければ、シュカから伝えられたこともない。その確証のなさが不安に繋っている。

 だから、離れていると、シュカが本格的に離れていってしまうのではないかと考えずにはいられないのだ。

 これほど執着しておいて、曖昧にしたままだとは合理性に欠ける。長いため息が零れ落ちた。

 このままでは、何も解決しない。伝えるべくは伝えるべきだ。なし崩しだった。プロポーズだって偶然でしかない。始まりからズレている。ズレているのとは違うかもしれない。

 結局、自分がこだわっているだけだ。きちんとけじめをつけたい。男らしく。こんなものは見苦しい拘泥でしかないのかもしれない。それでも、と気持ちが膨らんでいく。

 このまま妄想に溺れて、二進も三進もいかないのは不本意だ。シュカとそばにいるためには段階を踏まなければ、自身の折り合いがつかない。

 拳を握り締める。ずっと、天文台のことが頭に引っ掛かっていた。伝えるなら、とどこかで計算しているところがあったのかもしれない。ここで心を決める理由が、下着の件だなんて下世話にもほどがある。とはいえ、それだって切実な問題だ。

 握り締めた拳を見下ろして、腹を据える。いい加減、折り合いをつけようと。そうして、意識を内へと引き込んでいたところに、ノック音が滑り込んできて飛び起きた。

 こんこんと鳴り続けるノックは、規則正しく激しくもない。


「健斗さん?」


 と声が続いて、意識が外側へと戻ってきた。


「シュカ?」

「入ってもいい? 大丈夫?」

「ああ。大丈夫だよ」


 ロッジは男女で分かれた班に与えられている自室だ。

 ベッドの上から答えると、そろそろと扉が開いた。ここは男子のロッジだ。及び腰にもなるだろう。

 しかし、俺の姿を見ると、シュカはいつも通りに俺のそばにやってきた。男の寝ているベッドに近付くにしては躊躇がないのは、相手が俺だからだ。その確証を抱けるのは、気持ちではなく毎日の同衾実績によるものだった。


「気分はよくなった?」

「うん。もうすっかりよくなって、暇になってた」

「良かった。今は多目的ホール? みたいな講堂に集まってるから、こっちに戻ってくる人は少ないとは思うけど、休憩時間だから、ゼロじゃないかも。次は夕飯の準備だから、大丈夫なら集合するようにって」

「連絡係引き受けたのか?」

「うん。ていうか、みんな私が行くのが普通って感じだったよ。慰めてやれよって」

「それ言ったの翔だろ」

「ふふっ」


 シュカだって、翔のからかいを受け流すほどには慣れている。笑って頷くほどの余裕があった。

 心配が勝っているのか。昨日から今朝まで引きずり続けていた空気が霧散していた。空間が変わったということもあるのかもしれない。


「みんな、優しいね」


 さらりと言われる。他愛ない感想に聴覚が尖っていた。

 こういう瞬間に、不安を覚えている。自信のなさの原因は、感情が分からないからだ。やっぱり、と覚悟が立ち上がってくる。


「応援してくれるのは嬉しい」

「からかわれるのは面倒だけど?」

「それはね。健斗さんも大変そうだから」

「シュカだって困ってるだろ?」

「ちょっとね。でも、背を押してくれることもあるから、あんまり気にしてないかな」

「背を押してくれる?」


 そんな効果はあっただろうか。翔でも結羽でも、アドバイス込みのからかいではない。結羽については、シュカに絡んでさえいる。あれを後押しと考えるには、お人好しが過ぎる気がした。


「もっと積極的に行けばいいとか。そういう話もするよ。若宮さん以外とも」

「……そうか」


 どれがアドバイスによる積極性だったのか。確かめてみたいような、確かめたくないような。

 思えば、シュカが発端を握っていたことも多いような気もした。振り回されてドギマギしてばかりだ。


「今回も、天文台に誘えばいいのにって言われちゃった」


 実質的に、誘われているわけじゃない。でも、それをここで口にされる意味を理解できないほどではなかった。そして、このチャンスを逃がすつもりもない。


「行こうか」


 格好をつけたいと、常から思っているわけではなかった。そんな見栄が自分の中に眠っていることに気がついたのも、シュカと接する時間が増えたからだ。

 その成果が口を開かせてチャンスを掴めるのだから、上々と言えるだろう。


「いいの?」

「躊躇うことなんかひとつだってないだろ?」

「そうかな?」

「そうだよ」


 シュカはどこか腑に落ちない顔をしていた。そこに疑問を抱かれるのか、と心が萎んだ。

 けれど、と思う。思えば、シュカは何かと俺に確認することが多かった。縋るように不安を見せることもあっただろう。

 俺は何も口にしていない。感謝や褒め言葉、大切だというようなことは言っている。だが、肝心なことは伝えられていなかった。

 俺がシュカの感情を確信できないように、シュカもまた俺の感情を確信できないのではないか。シュカは自分が好かれていると、何もなくても信じるような性格じゃなかった。だからこそ、伝えるべきだろうという腹が決まるものだ。


「じゃあ、明日の夜の自由時間、天文台に行くってことでいいのかな?」

「約束するよ」

「うん」


 相好を崩されて、こちらの表情も緩んだ。想像して腹を据えていたことへ踏み出せたことにほっとしていた。

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