第16話

 野外合宿所には、天文台があるらしい。

 そこで愛を誓えば一生幸せになれる、という噂はよくある都市伝説だ。それが生徒間に広まって、そわそわした空気が高まるのもよくあるものだろう。

 以前の俺なら、一寸の興味も持たなかったはずだ。婚約者がいたって、異世界人であるし、それとこれは別だと思っていた節がある。やはり、実感が薄かったのだ。

 だが、今となってはスルーしきることはできそうになかった。だからと言って、鵜呑みにしようというわけではないけれど。頭の片隅に噂が引っ掛かり続けていた。

 とはいえ、その時点では、考えているだけに過ぎなかったのだ。先々とは、読めないものである。


「健斗さん」

「どうした?」


 結羽と翔に呆れられたリビングでの時間に、シュカが声をかけてきた。手には薄い冊子になっている合宿のプリントを持っている。


「合宿ってお泊まりっていう認識で平気?」

「ああ。大丈夫だよ。何か分かんないことがあったか?」


 会話をしながら、ナチュラルに隣に腰を掛けてくる。その距離感には、慣れ始めていた。

 ハグが日常行為になれば、他の部分での距離感も変わってくる。セックス後にやけに距離が近いカップルがいる理由を薄らと体感し始めていた。


「えっと、自由時間がいっぱいあるけど、何したらいいの?」

「河原があるし釣りとかできるって聞いたよ。後は、公園とかスポーツ施設もあるみたいだな」

「健斗さんはどうするか決めてる?」

「うーん。今はまだ決めてないけど、シュカは決めておきたい派か?」

「不確定要素は怖いもん」


 シュカは地球へ好奇心を持っているし、学習意欲も高い。だから、怖いとまで思っているとは知らなかった。安心するという言葉は、俺が思うよりも切実だったのかもしれない。


「でも、野外合宿所は自然が多い山岳地帯らしいから、異世界に雰囲気が近いんじゃないかな? シュカにとって怖い環境じゃないぞ」

「うーーん?」


 恐らく、人工的な建物が多く映っている施設の写真が印刷されたプリントからは、異世界と同じようなものというのが納得いかないのだろう。

 ふくろうのようにぐいーっと首を傾げていた。


「泊まるのはログハウスだぞ? これな」


 シュカが開いている冊子に手を伸ばして、木造のログハウスを指差す。


「向こうの家とそんなに変わったものじゃないよ」

「うちはこんな立派な建て付けじゃないよ?」

「まぁ、日本は地震も多いし、建築技術は高いだろうけど……室内はそこまで変わらないと思うぞ」

「家電製品だって家具だって、地球のほうが豪華じゃん」

「あー、もう。何がそんなに不安だ? 全部言って」


 面倒だと投げ出したくなったりはしないが、面倒くさい感情はあった。

 荒っぽい問いかけになったが、シュカはそうした態度を捻れて受け取ったりはしない。素直だ。そこに甘えているところはあるかもしれない。


「一番は、男女別だから、健斗さんがいないところでみんなと一緒に生活しなきゃいけないってことかな? 学校にいるときは、授業を受けてるだけでしょ? でも、生活になったらまだ分からないことが多いし、野外合宿じゃ普段とは違う生活をすることになるよね? 分かんないことが多くて、迷惑をかけそうで怖い。留学生って外国の子だってみんな分かってくれてるって分かってるけど、それでも変な子だって思われるのは嫌だし。それに、異世界人みたいに異質な行動して疑われたら、健斗さんにも迷惑かけるし、それも嫌」


 概ね、想像できる不安であるから、納得できた。

 そこに加えて、俺への迷惑ばかりを考えている健気さが発揮される。そうなれば、俺には打つ手がない。自分でも並外れて甘くなっている自覚があった。翔が呆れるのも仕方がないのかもしれない。


「じゃあ、日程を確認して、行くまでに色々話しておこう。自由時間も一緒に過ごせばいいだろ? 俺と一緒なら不確定でも気にならないんじゃないか?」

「いいの? 健斗さんだって、自分の時間欲しくない?」


 今まで、そうした主張をしたことがなかった。どうやら、結羽たちの指摘を気にしていたらしい。


「なんで? 合宿とか旅行みたいなもんじゃん。せっかくシュカと行けるのに、なんで別行動しなきゃいけないの?」


 まずいことを言ったとは思えない。しかし、シュカはむぎゅっと唇を引き締めてしまった。何か悪かったかと焦って、次の言葉を探そうとするよりも先に、シュカの顔が肩に押し付けられてくる。


「しゅ、か?」


 横から腕が伸びてきて、腹部辺りで抱きしめられた。

 いくらハグが習慣に組み込まれ始めたといえど、こんな不意打ちに対処できるような胆力はない。ばっくんと心臓が宙返りを決めた。


「健斗さんって、そういうとこだよね」

「は、え?」

「優し過ぎるもん」

「何。何が?」


 突然、甘えられて褒められる。心当たりがなくて、心臓がどごどご血流を速くするばかりだ。


「自分がどれだけ私にとって嬉しいことを言っているか分からないんでしょ?」

「え、いや、どれ?」

「私と一緒にいたいって思ってくれてるんでしょ?」

「……そりゃ、そうだろ」


 頷いたところで、やっと自分の発言に気がついた。

 際どいことを言っている。いや、婚約者の観点でみれば、そこまで異例なことではない。ただ、俺たちは今までそういうのを詳らかにしてこなかったし、そうでなくても何もかも打ち明けるかどうかは性格によるものだろう。

 そして、意外性を指摘されることもやむを得ないほどに、俺は内心や気恥ずかしい台詞を放言するほうではなかったはずだ。それに気がついてぶっきらぼうになってしまった俺に、シュカが顔を上げてくすりと笑った。


「こんなに一緒にいるの初めてでしょ? 今まで会ってた時間はもう越えちゃった」

「そうだな」

「だから、嫌になってないかな? って、ちょっと思ってた。今日、断言してくれたのも嬉しかったよ」

「それはシュカも同じだろ。俺も嬉しかったよ」


 横から抱きつかれているので、抱き返すのは難しい。代わりに髪の毛に触れて指を通した。スキンシップと言葉が連動するようになったのは、成長かもしれない。


「合宿も一緒に楽しもう」

「……うん、ありがとう。健斗さんが一緒にいてくれるなら、安心」

「シュカだって、かなりこっちに慣れてきてるから、そこまで心配しなくても大丈夫だよ」

「でも、この間だって、危うく電子レンジ爆発させかけたもん……」

「まぁ、やらかしてたな」


 ぎょっとしたことに違いはない。

 否定したって仕方がないので頷いたが、シュカはめっきりへこんだ。こういうところまで、言葉通りに素直だった。その俯いた頭をぽんぽんと撫でる。


「危ないから気をつけてくれればそれでいいんだよ。しょうがないだろ。向こうとこっちじゃ食材だって違うんだから」

「だからって、さすがに爆発未遂はへこむもん」


 言いながら、ぐりぐりと鎖骨辺りに額を擦りつけてくる。シャンプーの香りが広がって、鼻腔をくすぐった。

 俺はシャンプーにもこだわりがないから、女性ものなんて分からない。だから、シュカが使っているのは、お袋が準備してくれていたものだ。

 フローラルな香りは、シュカによく似合っていた。異世界の自然の中で笑っているシュカを思い出す。思わず、すんと匂いを吸い込んでしまったのは変態じみていたかもしれない。


「怪我がなかったからいいんだよ。それに、色々やろうとしてくれるから、失敗もするんだろ? シュカは弁当もだし、朝食も夕食もやってくれるじゃん」

「お手伝いでしょ? 健斗さんも一緒にやってるんだから」

「それでも修行してくれてるんでしょ。嬉しいからいいの」

「……健斗さん、甘いよ」

「知ってる」


 自分でも分かっている。

 分が悪過ぎたので、開き直って不貞腐れると、シュカがクスクスと笑いを零した。釈然としない気持ちもあるが、シュカがへこまずにいられるのならばそれでいい。

 一通り笑ったシュカは、ちらりとこちらを見上げてきた。上目遣いの猛威は、永久に消えないような気がする。毎度愚直に心臓が削られていた。


「ねぇ、甘い健斗さん。お願いをしてもいい?」


 これが他の誰かだったら、あざといと断じていたのかもしれない。

 だが、シュカがお願いをするなんて、滅多にあることじゃなかった。迷惑をかけそうな行動は控えているように思う。我が儘を言うかも、という宣言が実行されたことはなかった。

 だからこそ、撥ね除ける気はない。頷くと、シュカがふっと息を吸い込む唇の動きがよく見えた。


「……色々と準備しなくちゃいけないでしょ? お買い物、一緒に行ってくれる?」


 わざわざ前置きをしてくるほどであるから、よっぽどのお願いがくるのではないか、と身構えていたのだ。それが、蓋を開けてみれば、なんてことはない。


「ダメかな?」


 追撃されて、笑みが零れた。


「いいよ。俺も買うものがあるし、一緒に行こう。ショッピングモールにでも出かけようか」

「うん。ありがとう」

「どういたしまして」


 シュカはふにゃりと笑って、肩に懐いてくる。ハグも終わる気配がない。

 またぞろ、大息を吐きたくなるのは、ダメージを食らうからだ。それでも離れがたくて仕方がないので、俺も頭を倒してシュカの頭に顔を埋めた。

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