第15話

「秘密だろ?」


 唇を押さえ続けているわけにはいかなくて、手を離しながら人差し指を立てる。

 シュカも色々なやり取りを思い出したのか。そして、そのときの照れくささも思い出したのか。照れくさそうにこっくんと頷いた。口を開けない様子が、じくじくと心臓を蝕む。

 可愛いな、この子。

 と最近、とみに思うことを、繰り返し感じていた。


「ひぇ~見せつけかよ」

「牽制?」

「そういうのこそ、二人の時間でしろよ」

「うっせぇわ。ほっとけ」


 俺の発言を引用したような翔のニヤけ顔に、失言を理解する。本心である以上、失しているとは思いたくないが。


「健斗って時々、口悪くなるよねぇ」

「お前らが茶化すからだろ」

「シュカちゃん相手にもそんな口きいてんのか?」

「ときどーき」

「シュカが先にしでかすからだろ」

「健斗さんでしょ」


 むぅと膨れるシュカに片眉を引き上げる。

 バチバチ、とまではいかないが、こうした喧嘩とも口論とも言えない些末な言い合いをすることも増えた。来訪だけのときとは、距離感が遥かに変わっている。周囲にバレたことも、変化に関係しているだろうが。


「夫婦喧嘩は犬も食わないぞ」

「残念ながら、まだ夫婦じゃない」

「残念なんだ?」


 ぐぅと喉を鳴らして視線を逸らした。シュカは


「喧嘩を犬が食うって何??」


 と首を傾げている。頭上にクエスチョンマークが浮かんでいるのが見えた。


「ことわざだよ」

「どういう意味?」

「すぐに仲直りするから、他人が心配するほどじゃない、みたいな」

「夫婦喧嘩が?」

「そうだよ。一緒に住むんだから、些細なことやつまらないこと、一時的な喧嘩をすることもあるだろうって感じだな」

「喧嘩してるかな?」

「してないな。擦り合わせることは多いけど」

「文化の違いだから、しょうがないものだもんね」

「ちょっと待て」


 知らない言葉へ対する会話は、いつもこんなものだ。

 俺たちにとっては日常だったが、翔にとっては引っ掛かる部分があったらしい。口を出すことはなかったが、結羽も翔と同じ気持ちであるようだった。こちらを見てくる疑問だらけの顔には、こちらのほうが疑問だ。


「喧嘩してるしてないはいいんだけど、今、一緒に住んでるってことになってなかったか?」


 あ、とシュカと視線を合わせた。

 意図して黙っていたわけでもない。クラスで夕飯の相談だってしている。ただ、初手でスーパーからの部屋連れ込みが噂になっていた。その流れだと疑われることもなく、流されていたらしい。

 俺たちの反応に、二人は驚愕している。


「ちょっと待て。え? いや、え? 高校生で同棲してんの?」

「シュカを一人暮らしさせるのは不安だろ」

「健斗の実家なら部屋もあるし、シュカさん一人くらい居候させてあげることはできるんじゃないの? ホームステイになるのかもしれないけど」

「二人で生活できるようにって、両親の意向なんだよ」

「はぁ」


 それだけではない。いや、この生活を開始するときには、それだけだと思っていた。流されていたのは間違いない。

 だが、本気で不快であれば、拒絶することだってできたのだ。だから、それだけではないのだろう。今更、それを理解していたりする。

 だが、それを暴露する必要もない。口にするにしても、シュカだけに伝えればいいことだ。

 その事情をしれっと伝えたつもりだったが、翔からこの世の終わりかと思うような大きな息を吐き出した。


「お前、それで本当に何でもないとか言ってんの? マジで言ってる??」

「嘘ついてどうすんだよ」


 何をそんなに念を押されているのか。さっぱり分からなくて、怪訝だらけになる。首を傾げると、隣でシュカも不思議そうに首を傾げていた。生活が近付いてくると、仕草も近付くものだろうか。


「健斗、いいか。シュカちゃんがどれだけ可愛い子か分かってるよな? 可愛く見えてないなんて言わないだろ?」

「当たり前だろ」


 照れくささは未だに胸に巣くっている。だが、翔が言った通り、ここで否定していいことなんてひとつだってない。


「だったら、同棲してて何もないってことはないだろ。枯れてんのか?」

「……なんで、そうなるんだよ」

「いや、だって、嘘じゃん」

「嘘じゃないっての」

「じゃあ、やっぱり、枯れてんじゃん?」

「枯れてない」

「枯れるって何?」


 こういう会話は地球でしかないものだろうか。咄嗟に考えを巡らせたが、中身を答えると自分の首を絞めることに気がついて思考が止まった。


「性欲ないのかってことだよ」


 俺の心地悪さなどお構いなしに、直球で答える翔に頭を抱えそうになる。

 シュカは一、二度大きく瞳を瞬いてから、じわじわと顔色を赤くしていった。シュカが泳がせた瞳には、多彩な感情が泳いでいた。

 周りからすればただの動揺だろうが、俺だけは分かる。ハグやら爆弾発言やら、そうした物事を思い出しているはずだ。具体的なものがある。そのそわそわ感だと感じ取ることができた。

 何しろ、あれから俺たちは時々ハグをしている。一度に至っては、ベッドの上でそうした。お互いに緊張感に耐えきれずにすぐにいつもの姿勢に戻ったが、そうした日々を過ごしている。

 シュカにとって、性欲のあるなしは世迷い言でも何でもない。リアルな実生活だ。それを思い出してしまっていることが鮮明に感じ取れた。

 しかし、翔はそうではなかったらしい。とにかく右往左往している初心な態度を、そのまま純度として受け取ってくれたようだ。都合がいいことこの上ない。

 不憫な子を見るような目でこちらの肩を叩いてくる動作がついてこなければ、言うことはなかったが。それで話が切れるのなら、それに越したことはない。

 そして、その流れに追従するかのように、結羽が会話を繋てくれた。


「それはいいけどさ、一緒に過ごしてて大変じゃないの?」

「なんで? 気楽だけど」

「だって、シュカさんこっちの文化に慣れてないでしょ? 勉強だって大変だろうし、健斗のほうが負担大きいんじゃない?」

「一緒にやってるから、困ることはないけど」

「本当?」


 真偽を尋ねてきたのは結羽ではなくて、俺は慌てて隣を向いた。

 シュカの頬にはまだ照れの残滓があったが、瞳には不安の色がチラついている。それを取り零さないほどには、距離を縮められていた。


「困ってなんかないよ。今日の弁当だって、シュカのじゃん」

「でも、卵焼きはちょっと焦げたし」

「これくらい許容範囲だろ。食えないわけじゃないし、美味しいよ」

「健斗さんが、美味しく感じられるならいいけど」

「じゃあ、問題ないな」

「それ、擦り合わせられてる? 健斗が一方的に譲ってるんじゃないの?」

「大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」

「……納得してんなら、いいけど。普通、もうちょっとぶつかるもんじゃないの? 我慢してないわけ?」

「まったく」


 本当なら、揉めたり我慢したりしていたのかもしれない。だが、異世界人として分からないことがシュカの前提だ。だから、分からないことがあっても、話が噛み合っていなくても、何もおかしくはない。苛立つほうが理不尽だ。

 それに、シュカは分からなかったことを学ぶ姿勢がある。二度・三度と同じことで多大な失敗を犯すことはそうない。小さなミスを繰り返すことはあるが、それを言うなら自分でもやるような小さなものだ。あるあるの失敗で揉める気などなかった。

 そうした前提条件がある以上、俺たちの間に派手な揉め事はない。

 断言した俺に、翔と結羽が呆れた顔になった。その目がシュカへと向く。それは恐らく、本当にそうなのか。そこまで平和なのか。そうした疑義であったのだろうが、シュカは


「私もないよ」


 と俺と同じようにけろっと答えてくれた。

 意思疎通が図れていると分かると安堵する。だからって、油断してあぐらを掻いていいわけではないけれど、現状不満はなさそうでほっとした。


「はぁー……」


 もう何度目になるか分からない深いため息が翔の口から零れ落ちる。そんな態度をされる謂れがない。俺とシュカはアイコンタクトを交わして首を傾げた。


「もういいわ。糖尿病になりそう」

「健康には気をつけろよ」

「お前らのせいじゃ」


 飽き飽きと零されても、俺たちに何の落ち度があるのか。難癖をつけられているだけのような気がして眉を顰める。


「健斗が彼女にそんな感じになるなんて知らなかった。甘々じゃん。聞いてて腹立たしいレベルなんだけど」

「別にそういうわけじゃねぇけど……まぁ、婚約者だし、こっから先も一緒なんだから、お互い尊重するだろ」


 友人に何を宣誓しているのか。そうした感情は大いにある。だが、他の誰相手でも、言葉を惜しんでシュカに不安を抱かせるのは不本意だ。


「ふ~ん。結婚かぁ」


 しみじみ零されると、こっちもしみじみと思う。

 婚約者という名前は身に馴染んだ。それは、現実が迫るよりも前から、口馴染みのあるものだった。それが少しずつ形を成して、現実にも馴染み始めている。

 そこに投げられた将来に、青写真が描けた。シュカと過ごす日々。それは現状からステップアップしたようなものだろう。簡単に想像できるそれは、今や現実だ。感じ入ってしまうのも仕方がないだろう。


「すげぇよなぁ。まだまだ全然想像できないわ。学生同棲も忙しそうでめちゃくちゃ疲れそう。野外合宿とかもあるし、学校も忙しいじゃん。一人になりたいとか、そういうのないの?」

「それは実家にいるのとそう変わんないだろ。自室はあるし」

「なんだよ。自室に引っ込んで過ごすこともあんのか」

「……まぁ、それなりに」


 あまり利用していない。勉強もリビングで揃ってやっている。シュカに教えるのにも都合がいいし、お互いに過干渉ではないから、同じ空間にいたって邪魔だと感じることはない。シュカとの空間は居心地が良かった。


「その口振りは、ずっと一緒にいるんだろ。シュカちゃんも、せっかく一人暮らしってか、親元を離れて生活するようになったんだから、もうちょっと一人で自由を謳歌したいとかそういうのはないわけ?」

「うーん? あんまりないかな。健斗さんがいるほうが安心するから」

「そんな不安なことあるの?」


 その疑問は一般的であるのかもしれない。異国の地といえど、日常生活の軽微な部分にまで不安がはびこっているという発想にはならないだろう。

 しかし、シュカにとっては異国どころか異世界だ。普通に過ごすにしたって、不明なことばかりになる。こちらに慣れ始めていると言っても、万全とは言い難い。シュカは不安の内容を話せないと判断したのか。へにょりと眉を下げて笑った。


「親元を離れてるっていうけど、国まで離れてるんだから、不安でもおかしくないだろ。俺だってシュカを一人にさせておくのは不安だし、ちょうどいいよ」

「やっぱ、糖尿病になるな」

「突っ込むこっちが割を食うね。馬鹿みたい」

「からかわなきゃいいだけだろ」

「反応は面白いからつい」

「おい」


 低く突っ込むも、翔はあっけらかんと快活に笑う。隣の結羽も微苦笑ではあるが、笑っていた。

 はぁと吐いた大きなため息が、話の終幕となる。割を食うなどと嘯いているが、何だかんだと疲れているのはこちらだった。

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