第13話
「シュカのためになっているなら、よかった」
詰まったものを吐き出すように、どうにかこうにか呻き零した。疲弊度とは違うが、なんかもう迫力がすごい。
「うん、だから、やっぱりお礼をさせて欲しい。健斗さんが望むことなら、何でも頑張るから」
「何でもって……」
ただでさえ感情が過多になって、シュカを意識していたのだ。そんなときに言われる「何でも」には不埒さが混ざり込むこともやむを得ない、だろう。そういうことにしておきたい。いくら俺でも、平常時にそんな発想をしないと信じたいところだ。
とにかく、今はもう不埒な妄想が突っ走りそうになって、言葉を飲み込む。
俺が目に余る反応をしたからか。それとも、異世界民として、こちらの異世界ものと呼ばれる物語に興味を抱いてラノベに手を出していたからか。所謂、定番とも呼べる馬鹿な発想に、シュカも辿り着いてしまったようだ。
再び頭を抱えそうになる俺の先手を打つかのように、シャツを引かれた。近頃よくされるようになった気の引き方は、ドキドキするのでやめて欲しい。
シュカは茹で蛸のように耳まで赤くして、薄く唇を開いた。ドキドキは加速するばかりだ。
「なんでも、いいから」
「いや、おま……君、それ」
「ダメ?」
「ダメって、ダメじゃないって……そうじゃなくて! そうじゃねぇだろうが。安売りするなよ」
「してないよ。健斗さんだから」
「ぁう」
完全に逃げ場を立たれた。
これがよく分かっていないまま、茶化しているだけなら強気に出られたのかもしれない。だが、シュカは分かっている。俺が妄想してしまっている内容に気がついたうえで、それを容認しているのだ。
逃げられないのは、妄想に期待がないわけでもないからなのかもしれない。ぎゅっとシャツを握り締めてくる力が強くなる。心まで掴み取られたようだった。
「疲れてるんだから、マッサージとか? あ、お風呂? 一緒に入る?」
シュカだって、羞恥心がないわけじゃないのだろう。赤ら顔ではあった。行間に含まれている程度がどの程度かは分からないが、そこに婚約者……恋人としての性的接触が微量でも含まれていることは確かだ。
「……あのな、」
「嫌?」
「卑怯だぞ! そういう聞き方をするなよ。嫌じゃないから困るんだろ」
「だったら」
「一歩がでか過ぎるんだよ。もっと、他にやることあるだろ」
「他って?」
まったくの初心ってことではない。けれど、進展の具体性が見えているわけでもないのだろう。顔の赤さは引かないが、それでも首を傾げてきた。
完璧に墓穴を掘った。シュカはここでも律儀さを発揮して、俺の回答を待っている。
「……抱擁とか。キス、とか」
思わず口を覆った。もごもごと呟くと、シュカはシャツを引く手にますます力を込める。シュカだっていっぱいいっぱいなのだろう。お互いに、こういうことに耐性がないことは明白だ。
「それで、健斗さんは癒やされる? 労いだよ? お風呂で背中流すとか、そういうほうがいいかなぁって思ったんだけど」
自分がかなり先走った妄想をしていたことを、そのときになって気がついた。
背中を流すだけなら、お互いに全裸であることが必須ってわけじゃない。混浴ってわけじゃないのか。いや、どっちにしろこっちは全裸なので、ハードルはボロクソに高い。反応しない自信がなかった。
「……抱擁は、オキシトシンが出て、幸せを感じて、ストレス軽減がされるらしいけど」
「そうなの? 地球の研究ってすごいよね」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、しよ?」
ひどくナチュラルに言うものだから、唾が器官に入り込んで咳き込んでしまった。げほごほとむせかえる背中が、心配そうに擦られる。至極まともに心配されると、自分の下品さが際立って居たたまれない。
シャツを引かれながら、それもまさにそうした接触の話をしている中で飛び出してくる、しよ? の破壊力と言ったら段違いだった。頭が爆発してしまいそうだ。ショートしていただろう。
硬直した俺に、シュカが腕を広げて見せてきた。
「いや?」
上目に見上げられて、沈没する。
額を抑えて俯くと、その視界にシュカの腕が落ちてくるのが見えた。その虚脱したような動きから、シュカが何を思っているのかが分かる。自分の感覚が覚醒したのか。今だけ鋭敏になっているのか。それとも、ただの都合の良い勘違いか。
何にせよ、へこませているなと察せたことは正解だったようだ。
落ちてきたシュカの腕を取って、そのまま引き寄せる。ソファに隣り合ったまま、身体を捻ってシュカを抱きしめた。細くて温かい。ばくばくと心臓の音がしているのは、シュカのものか、俺のものか。
「嫌じゃないから困るって言っただろ。あんまり、煽るなよ」
抱きしめた距離で顔を見る勇気は欠片もない。おかげで耳元に囁きかけていたことには、気がついていなかった。
「平気だよ」
シュカはするりとこちらの胸元に擦り寄ってくる。口から心臓が飛び出しそうだ。
「平気じゃねぇの」
自分の理性が信用ならない。そのせいで、つい強い口調になる。
それに対抗しているのか何なのか。シュカの腕が背中に回ってきた。背中のシャツが引かれている。抱き合っている実感に、心拍数は上昇した。
「だって、婚約者でしょ?」
「だからって段階があるだろ。俺のことを信頼してくれるのは嬉しいけど、俺だって男だし、性欲あるんだぞ」
「分かってるよ。でも、婚約者だもん」
やけに繰り返すことが引っ掛かる。何か、あるんじゃないのか。シュカが意図せず我慢しがちな性格であることは、もう察している。そうと分かれば、停止しがちだった思考が巡り始めた。
「……誰かに何か言われたのか? 結羽?」
「……若宮さんは悪いことは言わないけど、健斗さんのことを話すことはあるよ。そういうところがあるよね、って。ズルい」
胸元にぽつりぽつりと落とされる。すべてを言って欲しいと言ったのは俺だ。鬱陶しいとは思わない。それどころか、話してくれることが嬉しかった。
「だから、若宮さんが知らない健斗さんが知りたい。私だけが知ってることってないもん」
そんなことはない。俺が家でどう過ごしているのかとか、異世界での振る舞いだとか。そういうのはシュカしか知らない。
けれど、こっちにやってきているのだ。俺の友人に囲まれて、俺のことを話されれば、視野も狭まるだろう。不安になる理由も分かった。それに勘づいたところで、面倒には思えない。愛しさが募るだけだ。
顔が見ていられないなんて言ってられなくなって、少し身体を離して顔を覗き込む。不安げに揺れている翡翠を見据えた。
「こうやって触れるのはシュカだけだよ。他の誰も知らない」
「だからね、もっと」
「シュカ」
その呼びかけが、制止を求めるものだとは通じたのだろう。シュカの顔がぐしゃりと歪んだ。
自分の身を差し出したがる。嬉しくないわけじゃない。だが、せっかくの進展をこんな形で叶えたくはなかった。理想があるわけじゃない。でも、もう少し適切な時期があるはずだ。
「もっと二人で色々しよう。二人でいるときは、お互いだけのものだろ? こうしているのは誰も知らない。俺たちが同棲しているってのも、結羽だって翔だって知らないだろ。異世界のこともな。俺たちだけのことだ。焦らなくても、いずれ手を出すつもりだから」
あ、と口にした瞬間に気がついて、ごほんと咳を払った。
「最後のは忘れてくれ」
一拍を置いて、省みる。何を言っているんだ、と冷や汗が出てきた。
自分でも自分にそんなつもりがあるなんて知らない。馬鹿か。勢い尽くしの言葉であるようで、心の底にある欲望であるようで、甚だしく狼狽した。
シュカは首筋まで真っ赤になっている。匂わせるにもひどい言い方だ。セクハラだとか変態だとか。そうした罵倒が飛び出してきてもおかしくはない。
しかし、シュカは表情を緩める。蕩けるような顔つきに、心臓が止まった。その顔で抱きついてくる。胸元に埋められた顔から漏れる呼気が肌をなぶった。止まった心臓が、一気に暴れて血圧が上がる。
「よかった」
「よくは、ないだろ」
自分で言うことではないが、肯定していいものでもないだろう。
唸るように答えた俺に、シュカが緩く首を振った。髪の毛が首筋を撫でてくすぐったい。更にぎゅっとくっついてこられて、胸元でシュカの胸が潰れている感覚が脳髄を痺れさせる。
ひゅっと吸い込んでしまいそうな息を無理やりにゆっくりと飲み下すと、喉が鳴った。生々しい情欲の音だっただろうが、シュカは気にせずに俺の胸に懐いている。眩暈がしそうだった。
「健斗さんは、そんな気ないのかと思ってたんだもん」
「なんで? 初日に、聞いただろ?」
「でも、いつも簡単に引いていくから。友好的な思いで触れることに嫌悪はないけど、性欲があるのか、分からなかったから。だから、よかった」
「気をつけてるだけだよ」
「私にちゃんとその気になる?」
上目に見上げられて、ぎゅんと何かが持ち上がる。どうにもならない感情の行き場を失って、手刀を繰り出してしまった。
「煽るなって言っただろうが」
いくらシュカの発言も大概だとしても、手が出ればこちらの粗相だ。
怒られるかもしれない、とすぐに省みたが、シュカはふっと笑みを零した。感情の筋道が分からずに混乱する。ただでさえ、心が乱されているのだから、胸中は混沌としていた。
「砕けてくれて嬉しい」
くふくふと喜色を見せるものだから、お手上げだ。肺胞の酸素すら取り出すほどに大息を吐いて、天井を仰ぐ。
「あ、私、気持ち悪い?」
ため息のたびに、等しく悪感情を探られる。不思議なことではない。俺だって、シュカにため息ばかりをつかれたら、自分のことを省みるだろう。
だから、おかしくはないのだが、やられっぱなしでため息にする以外に自分の精神を落ち着けるすべを持ち得ていないのだ。天井を仰いだまま、ぶんぶんと首を振った。俺はシュカに抱きついたまま、肩に額を押し付けて擦り寄る。
後々、甘えたような仕草だったと身悶えそうになったが、そのときはそんな俯瞰した視点などあるはずもなかった。
「可愛くてどうにかなりそう」
「あ、え?」
俺のことをかっこいいだの優しいだの。さも当然のように澄ました顔で言ってのけていた。以前にこちらから言ったときでも顔を赤くしていたが、今回は何か殊更に琴線に触ったようだ。
聞いたことのないように上擦った声が頭上に落ちてくる。ちらりと見上げると、やっぱり真っ赤になっていて、ほのかに熱さを感じるほどだった。ただ、これは自分から発散されているものもあっただろう。
「雑にして喜んでくれるとか、嬉しいし、可愛いと思うに決まってるだろ。結羽のこと気にしてるのもな」
「もう、いいから」
「よくねぇわ。我慢も限界だから、ほどほどにしてくれ」
「も、もう! 匂わせがひどい」
「シュカがよかったって言ったんだろ?」
肩口に擦り寄ったまま見上げて目が合うと、シュカの瞳は潤んでいた。今にも泣きそうになっていて、やってしまったかと急激に気持ちが揺さぶられる。
どうしてこういうことができているのか。
ここまで変に入っていたテンションが徐々に落ち着いてきてしまった。狼狽えていると思っていたが、それでもまだテンションで乗り越えられていた自覚が顔を覗かせる。
そうなると、抱擁状態で感じる相手の情報が一気に引き上げられた。体温。肌触り。香り。柔らかさ。そうしたものがじわじわと身体の隅々に行き渡っていき、許容量がブチ壊れる。
「ごめん。悪かったよ。気をつける」
泣きそうだから、というよりは、自分の感情を落ち着けるためにも、場面を動かそうという意識だった。
「ドキドキするから、そうして」
「だから、そういうこと言うな! シュカも気をつけろよ」
自分でも意外なほど、雑な対応が取れるようになっている。
別段、避けようとしていたわけじゃない。ただ、やはり長年友人関係を築いていた人間とは差があった。それを取っ払えたことは、婚約者としての進歩だろう。
「うん。分かった。でも、これからも、こうして二人だけで過ごしてね?」
「当たり前だろ。一緒に住んでるんだから」
「学校でも離れない?」
「そんなつもりないよ。シュカ、大変だろ?」
「うん。やっぱり、健斗さんがいないと不安」
「大丈夫。一緒にいるよ」
「ぎゅってしてくれる?」
それに、ぎゅっと心臓と喉が引き締められた。
じっと睨んでやると、シュカは誤魔化すように笑う。その誤魔化しは、俺がダメージを受けることが分かっているのか。それとも、大胆なことを言ったことをうやむやにしてしまおうというものか。
気をつけてもこれだと、この先も覚悟をしておかなければならないだろう。それを切々と感じて、今ここで腹を括った。
何より、俺だってその欲求がないわけじゃないのだ。動揺してどうしようもなくなるから控えて欲しいというだけで、どうにかしていいのであれば。どうにかする覚悟が持てるのであれば、どうにでもなるような気がした。
それは半分以上、やけくそでもあっただろう。
「それ以上でもいいよ」
「もう!」
緩く胸元を小突かれた。遠慮の壁がもうひとつ取っ払われたようで、くすりと笑いが零れる。それが皮切りになったように、クスクスと笑いが充満し始めた。
「そっちが先だからな」
「だからって、やり返すことないでしょ。健斗さん意地悪するんだ」
「どーだか」
笑って抱き合いながら、軽やかに会話を続けていく。胸の高鳴りがなくなったわけでもないし、これは今のテンションだから保っていることなのかもしれない。
それでも、縮まった婚約者としての距離は確かなものだった。
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