第11話
シュカの腕から弁当を奪い、自由の利くようになったであろう手を取って進んだ。
シュカは昨日と同じように俺に引かれている。昨日の今日だ。周囲からの視線も比べものにならないけれど、それを無視して進んでいく。こうして動くことで、自分が思うより図太い精神をしていることに気がつかされた。
そのまま中庭に突入する。ベンチがいくつか置かれているだけの中庭は、人が少ない。話をするにはちょうどいいだろう。
俺自身、どれくらい踏み込む気があるのか判然としていない。そもそも、違和感があるということだけしかないのだ。
腰を落ち着けようとすると、同時に勢いで動いた精神も落ち着いてくる。違和感だけで何をやっているんだ、と弱気が顔を出してきた。俺に振り回されてついてきたシュカは、大人しくベンチに腰を下ろしている。そうするしかないのだろう。こっちが怯んでいる場合ではない。
さわりと風が髪を掬っていく。静けさがまとわりついていた。シュカがゆっくりとこちらを向く。
「健斗さん?」
思えば、シュカはいつも俺の名を呼ぶ。会話しようというのだから、おかしなことじゃない。けれど、こうして何度も呼んでくれる響きが耳に馴染んでいる。他の誰も名前にさん呼びなんてしない。特別だ。
「……結羽が、どうかしたか?」
口内はからからに渇いていた。口にした後に、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。自ら深刻性を強めてしまって、自分の首を絞めているような気がした。
「お友達なんでしょ?」
「何か変か?」
「とっても仲がいいんだね」
ぽそぽそと零された意図を取り零すほど愚鈍ではない。……と、思う。
わずかに伏せた瞳に、睫毛の影が落ちていた。金色の睫毛が光を弾いて美しい。ああ、可愛いな。と、ごく自然にその頬に触れていた。自分の理性が弛んでいる自覚はまるでなかった。
「健斗さん?」
「ただの友達だよ」
「でも、私にあんな砕けてくれないよ? 健斗さん、我慢してる?」
「してない」
「じゃあ、若宮さんは特別?」
「シュカが特別」
シュカの瞳がぐにゃっと歪む。心臓がどくどくとうるさく鳴っていた。
柄にもないことを言っている自覚はあったが、止めようなどという理性は働いていない。触れた指先を滑らせて、目元を撫でていた。
「すごくナチュラルだったよ? 砕けてるの羨ましい」
「結羽は幼馴染みっていうか、男友達みたいなもんだから……シュカとは違うよ。ナチュラルっていうか雑なだけだ」
「私にだって雑にしてくれていいんだよ? そんなに気を遣わなくていい」
「使うよ」
「どうして?」
膨れようとしたのだろう。頬に空気が溜まる感覚が、手のひらに伝わってきた。
「婚約者だろ?」
特別と婚約者を結ぶのは、真っ正直に気恥ずかしい。
囁くようになったのは、意図したことではなかった。シュカの目元に緩く朱色が滲むものだから、余計に羞恥心が煽られる。
手のひらを重ねられて、頬擦りするように懐かれた。吐息が肌にぶつかって、背筋が震える。
「だから、ずっと一緒にいるんでしょ? 気を遣って欲しくなんかないよ。若宮さんになら平気でも、私には無理?」
振り絞るように話す姿に、大息が零れそうになった。心臓が握り潰されるかのようだ。
「無理じゃないけど、シュカにはシュカにするようにしかいられないよ。シュカには優しくしたいし、みっともないところはあんまり見られたくない」
「優しいよ。砕けてるからって、面倒くさがられてるなんて思わないし、幻滅もしない。健斗さんはかっこいいもん」
平板に言うものだから真剣さを感じてしまって、頭に火をくべられたようだった。
マジか、こいつ。
本気でクラクラしてくる。ほだされている、というには無理があった。もうとうの昔にほだされていたのだから、これは何だと言うのか。
もう一方の手のも伸ばして、シュカの両頬を包み込む。こつんと額を合わせられたのは、火事場の馬鹿力ばりにスイッチが入っていたからだろう。
「それを言うなら、シュカは俺がうるせぇなんて言うようなことしないだろ? シュカが良い子だから、俺はそれに倣ってるだけだよ。かっこいいって思ってくれてるなら、かっこつけさせて」
「私だって、我が儘言うことあるかもしれないよ? 健斗さんは普通にしててもかっこいいから大丈夫」
「シュカだって気を遣ってるんじゃないか。我が儘言っていいよ。そう何度も言ってくれなくていい」
「いいの?」
「何? なんかあるの?」
「お弁当、健斗さんの作ったのが食べてみたい」
「いいよ。今日は作ってくれたし……一週間ごとの当番制にしようか? 俺もシュカの弁当なくなるのは嫌だし」
「うん。嬉しい。私、健斗さんのお料理好き」
好き、という音に頭蓋骨が揺らされる。固まってしまった俺に、シュカは不思議そうな顔をしていた。
「健斗さん?」
やっぱり、シュカはよく俺の名前を呼ぶ。そんなことを考えている猶予はなかったが、そんなときほどよく分からないことを考えるものらしい。
「好きなら、嬉しい」
どうにか捻り出した答えに、今度はシュカが固まった。自分の発言を省みたのだろう。相手がパニクっていると、冷静さが戻ってくるものだ。
「俺もシュカの料理好きだから、嬉しいよ。これはお互い様だな。他に我が儘はないのか?」
「他……? えっと、もうちょっと砕けて欲しい」
「そんなに結羽が気になるか?」
こだわっているのは、シュカへの態度云々ではないのだろう。それくらいの心当たりはあって、それがぽろりと零れ落ちた。
シュカは小さく目を逸らして、俺のシャツを掴んでくる。きゅっと握り締めてくる非力な細指に、力強く引き寄せられていた。
額を合わせたまま頬を包んでいた手を離して、こちらを掴んでくる指先を掴まえる。不思議なものだ。もう、指を絡めることに違和感も躊躇いもなくなっていた。初日にそうしたときには、緊張し過ぎてなすすべもなくなっていたと言うのに。
「俺の婚約者はシュカだけだろ?」
「そうかもしれないけど」
「結羽とは何もないよ。どうすれば信じてくれる?」
シュカの前で気軽に言葉を交わしていたことは取り消せない。俺に疚しいことは何もなかった。それでも不安になるというなら、対処法を聞くしかない。ある種、情けないことなのかもしれなかった。
けれど、できないことを身勝手に決められるほど、俺はこの立場に自信がない。
「信じてないわけじゃないよ?」
「でも、不安なんだろ? 解消させてくれよ」
「い、いい」
「は?」
突然、突き放すような言いざまをされて、心臓が縮こまる。低い声が出たのは嫌悪感からではない。どちらかといえば、絶望感から漏れたものだった。
けれど、そんな細かなニュアンスが感嘆だけで届くわけもない。俺とシュカの間は、関係性の名前よりもずっと手前にしかないのだから、尚のことだ。
「だって! 友達なんでしょ? こんなふうに言ってくれるし、してくれるから、もういいの。十分! 本当に」
慌てて言い立てられて、こちらも慌てて息を整える。それがまた、ため息だけを届けさせてしまい、シュカは項垂れてしまった。
「違う。呆れてるわけじゃない。本当に我慢してないか?」
「うん……私より付き合いの長い友人なんだもん。しょうがないでしょ?」
さも当然のように言ってくるそれは、我慢ではないのか。判断がちっともつかない。
俺の女性経験はシュカだけで、そのシュカとだって半透明なまま進んでいる。だから、その間合いは読めなくて、眉を顰めてしまった。
シュカは我が儘を言う気はないのではないか。自分はそれほど頼りないのか。
「……シュカのほうが大事だよ。シュカじゃなきゃ、こうしてない。しょうがないなんて言わなくてもいい。結羽は結羽で、それだけだ。だから、嫌だってときは言ってくれ。寂しいとか、そういうの」
妬いたとか、と付け加えることはできなかった。
惰弱っぷりは忌ま忌ましかったが、シュカは頬を染めて唖然としている。シュカと結羽を割り切っていることが十分に伝わっていることが分かって、ほっとした。
結羽とのことを探られていることに、少しの嫌気もない。面倒だとも思わなかった。口にしていることは、すべて本心だ。これから先、逐一突っかかられても、面倒に思う気がしない。
シュカはぱくぱくと金魚のように口を開閉していた。顔が真っ赤なので、本当に金魚のようだ。
「シュカと結羽は違うよ」
「……ほんと?」
蚊の鳴くような声が鼓膜をくすぐる。
普段から鈴のように爽やかで可愛らしい響きをしているが、吐息が混ざり込んだ声は、こうも神経を直撃してくるものか。理性の箍は外れかけていたようだった。
「当たり前だろ」
「、わたし、私、あの、私のほうが……」
最後まで言い切ることができない。人が人なら、主張が薄くて鬱陶しいのかもしれない。けれど、切羽詰まった表情で喉を詰めるシュカが鬱陶しいだなんて一瞬たりとも思わなかった。
「大切だ」
口にすれば、形が明確になる。遅いような気もするが、それでも、いつまでも無自覚でいないだけマシだ。
シュカは無言ではあったが、唇を蠢かしてこくりと顎を引いた。額を合わせたままなので、その距離は近い。するりと撫でた指先が跳ねる。
漏れた吐息が混ざり合って、近さが身に迫った。その距離で、視線が絡み合う。澄み切ったエメラルドに吸い寄せられる。頬に伸ばした手のひらに力が入った。
シュカの瞼が下りていくのがスローモーションで焼きつく。はっと吸った息は鋭く尖っていた。それを緩く吐き出して、顔を傾ける。
「っ」
その瞬間、ばたばたと滑り込んできた足音に、互いに相手を手放して距離を取った。すぐに中庭を男子生徒数名が過ぎ去っていく。中庭であることを忘れ去っていた。
何をしようとしていたのか。咄嗟に口を押さえた視界の端で、シュカが両頬を挟んで顔を覆っていた。
「べ、弁当、食おう」
「そうだね! うん!」
お互いに視線を合わせることなく、声を上げる。わざとらしいのなんて百も承知だ。空気を散らそうとばかりに、じたばたと弁当箱を開けていく。
がむしゃらに食らいついた卵焼きは甘かった。
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