第三章

第9話

 家に帰るころには、すっかり疲れ果てていた。これは俺ばかりではなく、シュカも同じようだ。

 むしろ、大胆にも牽制するような真似をしたシュカは、俺への感情を確かめられていたらしい。さすがに、それに答えている場面をのうのうと見ている勇気はなかった。

 こちらは、とにかくシュカの可愛さをからかわれることが多い。外見の可愛さを訴えて茶化されたが、そんなもので動揺することはなかった。

 シュカが可愛いことなんて、誰に言われるまでもなく分かっている。それに、クラスメイトが言う外見の可愛さなんて、せいぜい知れていた。

 仕草や言葉、性格。そうしたさまざまなものが俺の中には積み重なっている。昨日今日知り合った連中と同じなわけもないし、言われるまでもない。かといって、自分だけが知っているシュカの可愛い部分を解説してやるつもりも毛頭なかった。

 ただそんな守りだけで、からかいから逃れるわけでもない。ただの恋人ではなく婚約者なのだ。なかなか聞かない存在であるのだから、余計にだろう。

 そうして一日中絡まれた疲労で、その日は図書室にも図書館にも行きそびれてしまった。それに気がついたのは、夕食を終えてリビングで一息をついているときだ。

 昨日と同じようにシュカがスマホを触っているのを見て思い出して、


「あ」


 と声が出た。突然声を上げたものだから、シュカが驚いたように顔を上げて瞬きを繰り返す。


「どうしたの?」

「いや、図書室行き忘れたなと思ってな」

「あ、そっか。そうだったね」


 シュカのほうも失念していたようで、苦笑いになった。忘れていた理由には、思うところがあるのだろう。

 難しい顔になってそばへ寄ってきた。話があるのだろうことは分かるが、ごく自然に隣へやってきてくれることは嬉しい。存外思われているらしい、と思えるのは学校でのことがあったからだろう。


「今日はごめんね。大変だったでしょ?」

「まぁ……いいよ。疲れたけど」


 こればっかりは、取り繕ってもしょうがない。というよりも、疲弊は目に見えていた。口で否定したって、説得力はないだろう。だらりとソファの背もたれに体重をかけながら、緩く肯定した。

 シュカは眉を下げてこちらを見る。……正々堂々としていたし、いくら茶化されていても撤回してはいなかった。何なら、牽制すらも撤回に近しい言葉を口にしていない。

 俺はその点でベタ惚れされていると茶化されたものだ。むず痒くって、上手く回答もできないのが、誤解を増幅させていたような気がする。

 シュカに知り合いを独占する感情があるのは確実だが、それがベタ惚れと等号とは言い切れない。まったくもって信じていないわけじゃなかった。多少なりとも好意はあるだろう。そこに恋愛感情があるかどうかが不明なだけで。


「ごめんね、健斗さん」

「そんなに気にしなくていいよ。俺だって、ずっと黙っていられるとは思ってなかったし」

「でも、あんなに騒がれることだと思わなかったの。こっちじゃ、婚約者って珍しいの?」

「なくもないけど、一般的じゃないな。自由恋愛のほうが圧倒的に多い」

「……健斗さんも、本当はそっちのほうがいい?」


 隣に座った顔が俯いていて、表情が読めない。表情が読めていても、内心は読めないので無意味かもしれないが。だが、表情が見えないというのは、途端に不安が増すものだ。


「……なんで?」

「なんでって……私が、受けちゃったから、契約になっちゃったし」


 確かに、俺の偶発的なプロポーズは一方的では成立していない。それが確定したのは、シュカが頷いたからだ。

 あのとき、シュカが何を思って頷いたのか。それは二の次になっている。それよりも、契約が成立したという事実に衝撃を受けていて、返事の段階はすっ飛ばしてしまっていた。そして、一度すっ飛ばしたものに立ち返るタイミングは逸したままになっている。こだわっても仕方がないことだと既決してしまっていた。

 だが、学校でのことも考えれば、シュカはどこかに引っ掛かっていたのだろう。……俺だって、まったく引っ掛かっていないわけではない。それはシュカの気持ちへ繋るひとつとして、気になってしまうことだ。

 だからこそ、突き詰めることも躊躇ってきたのであるけれど。


「そもそも、プロポーズしたのは俺だろ」

「知らなかったことでしょ?」

「それでも、しちゃったものはしちゃったんだから、仕方ないだろ?」

「そうやって、仕方ないって思ってるってことは、仕方なくなかったら普通に恋愛してたんじゃないの?」


 珍しくこだわる、というのは言っては可哀想なことだろう。話してこなかったのだから、珍しくて当然だ。


「……そればっかりは、分からないだろ」


 あのときのことがなかった未来を思い描くことは難しかった。もうその道に来てしまったし、後戻りなんてできない。しようという気もないものだから、シュカ以外を考えることなどできそうにもなかった。

 正直に零すと、シュカの膝の上に行儀良く乗っていた手のひらが強く握り込まれる。


「やっぱり」


 喉元に声が引っ込んだのが分かった。しくった、と思ったのは本日二度目だ。

 俺は成長しないらしい。こと、婚約者として振る舞うことに慣れていない。今までだって分かっていたはずだが、周囲と付き合うことでそれが露呈していく。

 握り込まれた手のひらを上から重ねるように触れると、肩を揺らしたシュカが顔を上げた。ようやく顔が見えたことにほっとはしたが、強ばっているのはひとつもいいことではない。


「……他の誰かにこんなに触れたりはしないし、そういう許可を確認するようなこともしない。よろしくって、話しただろう? あんなこと、勢いとかそういうので言えるほど、器用じゃないけど」

「それは知ってるけど」

「何が気になってる?」

「だって、普通じゃないんでしょ?」


 異世界の常識に怯むところがあるようだ。その気持ちは分かる。

 向こう側の常識がどれほどの常識なのかは計りづらかった。ちょっと常識外れなのか。大幅にズレているのか。異常者扱いレベルになってしまうのか。そのすべてが常識が違うという一言に集約されてしまう。だからこそ手探り感は否めず、不安もあった。

 そして、これは恋愛事、ひいては将来に密接に関わっていることだ。臆病になっても仕方がない。


「普通じゃないっていっても珍しいだけで、そんなに非常識なことじゃない。それに、俺は嫌だなんて思ったことは一度だってないよ」

「……本当?」


 俺が重ねていた手のひらの下で、シュカの手のひらが返されて指先が絡まる。それを捉えるように握り返した。

 事実を告げているだけで、説得力があるのか。その自信のなさをスキンシップで誤魔化しているような後ろ暗さがあった。

 だが、嘘を言ってるわけじゃない。シュカ以外を想像できないことは本気だ。他の誰ともシュカのように触れ合うことも、生活をすることもできない。


「当たり前だろ。じゃなきゃ、同棲なんてしないよ」

「……うん」

「結婚、するんだから」

 口にする瞬間から、口内が干上がっていく。顔は見ていられなくて、視界に収める程度にそっと視線を外した。不甲斐なさに呆れることしかできない。それでも、シュカが小さく顎を引く様子が見えた。


「そうだよね」

「そうだよ」


 そこに気持ちがあるからどうか、という部分に触れていないことは、お互いに分かっていただろう。それでも、今はこれだけでいっぱいいっぱいだった。

 シュカだって、それ以上食い下がってこない。これないようで、そのまま手を繋いで少しの時間を共有した。

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