第二章
第5話
開いた視界に飛び込んできた穏やかな寝顔に心臓が飛び出しそうになった。
始まった同棲生活は、ひとまず難なく進んでいる。問題もあるにはあるが、他人同士が過ごすのだから妥当な範疇だ。
ましてや、俺たちは異世界人同士。擦り合わせることはたくさんあって、苦労はしている。だが、それは折り込み済みのことで、打ちのめされるほどのことではない。お互い様だろう。
一番の問題も折り込み済みのことだった。最初に擦り合わせたことだ。
それでも、同衾の緊張感は拭えない。眠りに落ちるまでに、時間がかかることもある。だが、もっとも恐ろしいのは目覚めの瞬間だ。
寝るときは、ベッドの中央を割らずに離れた状態で背を向けている。意図したわけではないが、自然にそうした姿勢を取るようになっていた。
しかし、そのままってわけにはいけない。目覚めると顔を見合わせていることは序の口で、肌が触れ合っていることもある。そりゃ、微動だにせずに眠るなんてできるわけもないから、それくらい想像できなかったわけじゃない。
だから、入眠に時間がかかるくらいには緊張していた。折り込み済みであったのだ。それでも、心臓に悪過ぎてちっとも慣れなくて、大問題になっている。
婚約者としては、間違ってもないのだろう。相手をちゃんと異性と意識しているのだから。だが、如何せんそんな簡単に気持ちを処理できない。
毎朝、ドギマギしながらベッドを抜け出していた。元より寝起きは悪くなかったが、近頃めっきり早起きが身についている。忍ぶようにベッドを下りるのも上手くなった。
まぁ、これはシュカの眠りが深いというところもある。どうやら、朝は苦手なようだ。本人曰く、地球の寝具があまりにも気持ちが良いということだが。毎朝のようにフラフラ寝ぼけた様子でリビングに出てくるのを見れば、苦手なほうだろうとうがっている。
いつも綺麗にセットされている金髪のゆるふわが、ひょこひょこ跳ねている抜け感は可愛い。寝顔だって、睫毛が長いのがよく分かるし、脱力した表情が可愛い。寝ぼけて起きてくるちょっと滑舌の甘い口調も。乱れたパジャマで萌え袖になっているのも。
一緒に過ごすってことや、同衾について、俺は甘く見ていた。第一に性差を意識していたにもかかわらず、始まってしまうとこのざまだ。
入学式の今日までおよそ二週間。シュカがただ生活していることに、台風のように翻弄されている。
シュカだって、気にしていないわけではないのだろう。妙なタイミングで視線を外されることが度々あった。それで何を感じているのか。追及する勇気はない。
その視線には気がついていない振りをしていた。気が弱いことこの上ないが、シュカだって俺の不自然な行動についてスルーし尽くしている。お互い様だろうと開き直っていた。
食事の用意を含め、家事の多くは俺が担っている。これは何も、シュカにやる気がないわけじゃない。むしろ、やる気満々だった。
だが、家電を使った家事の使い方やこっちの食材の調理法が分からない。少しずつ慣れるしかなくて、そのためには時間がかかる。その間は、俺が主軸でこなすようにしていた。
共通しているようなことや、できるようになったことには能動的に動いてくれるので、憂いはない。何より、事あるごとに感謝してくれるシュカの世話をするのは悪くなかった。
一人だったら、もっと早くに手を抜きまくって、だらけた暮らしになっていたかもしれない。シュカがいることで、どうにかさまになっていた。
朝食だって、きちんと食べていたのかも怪しい。朝から料理するのは、一人だけなら面倒くさくてやっていられなかったはずだ。シュカが待っていなければ、即刻みすぼらしいものになっていただろう。
シュカはこちらの料理を美味しいと喜んでいた。あちらは食材をそのまま焼いたり煮たり、そうしたシンプルな調理方法しかない。調味料だって、そう手に入らないと聞いている。
そんな素朴な料理を食べてきた異世界人にとって、地球の料理は桁違いの美味しさらしい。だから、元々こちらの食事にはいつだってニコニコしていた。
それを、俺の料理にも反映してくれる。俺は料理が得意なほうではない。食べられないものを生み出すほどではないが、やっていることは果てしなく簡単なことばかりだ。
惣菜も使うし、抜ける手は散々抜いている。それでも、シュカはいつも美味しいとニコニコ食べてくれていた。そんなものだから、料理にだって精が出るというものだ。腕を上げようと言う気持ちさえ煽られる。何ともチョロいことだろう。
ただ、自分の食べるものへモチベを持てているとも言える。その言い訳を胸中で組み立てて、チョロさを見て見ぬ振りをしていた。
朝食はパンにしている。異世界の食事は洋食寄りだ。少なくとも、パンが主食なので、そちらに合わせていた。
シュカは日本食だって喜んで食べるし、そこまで気を遣わなくてもいいのだろう。恐らく、何を出しても喜んでくれるはずだ。けれど、多少は歩み寄りたい。
純粋な気持ちで、俺はさくりと朝食の準備を進めた。パンを焼くなら作るのも楽だという点がないとも言えないけれど。目玉焼きとウィンナーを焼いて、牛乳を取り出す。
どれもこれも、あっちにもある食材だ。それでも、クオリティの差は歴然らしい。俺も何度かあちらの食事をしたことがあるが、シュカがそうして地球の食事を贔屓するのもよく分かった。
決して、マズいわけではない。だが、全体的に味が単調で飽きる。毎食となれば、義務感が生じそうなものだった。それと比べれば、地球の食事は抜群に美味い。そうした理由を元にした喜びだと、体感として分かっている。
しかし、今日もまた寝ぼけ眼で起きてきて、俺の用意した朝食をもぐもぐと頬張っているシュカは微笑ましい。満たされるものがあった。
「シュカ、制服は問題なかったか?」
入学の手続きは両親たちだけでも可能だ。だが、採寸は本人がいないとどうにもならない。
そのため、制服ができあがってきたのは入学式ギリギリになっていた。昨日受け取りに行ったばかりのそれを尋ねると、シュカはこくんと小さく頷く。寝起きはいつもこんなものなので気にしないが、幼い仕草は不安になった。
「大丈夫だったよ。可愛いね、制服」
「そうか」
「うん。制服を着られるとは思えなかった」
「あっちじゃ大変なんだっけ?」
「こっちでも、大変なんでしょ? 健斗さんも受験勉強で忙しそうだったから」
「まぁ、それは」
「私、いいのかな?」
「留学生枠ってことだろ? シュカだって面接を受けたんだし、学校だってその枠を埋めたかったんだろうし……俺の親父がやらかしたんだしな。今更取り消すほうが大変だろうから」
所謂、推薦試験のようなものを一応シュカは受けている。親父のコネであっても、何もしてないわけでもない。反感はあまりなかった。
「だよね。緊張するなぁ」
ふぅと息を吐くシュカが緩く眉を下げる。弱々しい態度を取られると、守ってやらねばと庇護欲が突かれた。
俺だって、新しい学校へ通うことにはそれなりの緊張がある。それが異世界へ飛び込むことと同時と思えば、緊張感を想像することは容易い。シュカはよく決意したものだな、と改めて思う。
「同じクラスってのは決まってるし、大丈夫だよ」
「そりゃ、健斗さんがいるのはとっても安心できるよ。何かあっても助けてくれるって分かってるし、でもやっぱり緊張はするもん」
「俺にだって、できることの限界はあるからな」
信頼されていることは嬉しい。俺の何がそれほどシュカの信頼を得ているのか、多少不明ではあるが、それでも嬉しいものは嬉しかった。
けれど、期待の重さはある。助ける気はあるし、見捨てるなんてことは寸毫だって考えやしない。だからって、どうしたって限度はある。よっぽどの失態の場合、自分が万能に対応できるとは思えない。
苦笑いになってしまった俺に、シュカは首を傾げる。まさか万能超人だと思っているとは思っていないはずだ。だが、お互いの世界ではお互いを頼りにしてしまう。今まで、そうやって対応してきた。その基礎があるからこその疑問でもあるのかもしれない。
「健斗さんなら、大丈夫だよ?」
「今までよりずっと不測の事態があると考えておいてくれよ。学校は大変だぞ」
「……励ましてくれていたのに、手のひら返ししないでよ」
「悪かったよ。ほら、準備するぞ」
「もう!」
遠慮なんてものは薄れている。ないわけではない。そこには常識の違いもあれば、婚約者という契約に縛られていることもあるだろう。
ただ、素を一切合切隠しているということもない。数えるほどではないとはいえ、三年の交流は嘘ではなかった。それは、俺もシュカも他人を騙すほど器用でなかったこともあるだろう。
素直な良い子だった。不満っぽい言葉を漏らしながらも、シュカはさくっと食器を片していく。調理を俺が担う代わりに、シュカは後片付けをしてくれていた。この分担はシュカの自主性に任せている。やる気満々なのだから、仕事を取るつもりもない。
シュカを置いて、通学の準備を開始した。この時間差は、着替えの時間としてもちょうどいい。クローゼットは自室になる書斎についている。
基本的にはそちらで着替えるが、入りきれない衣服は寝室のクローゼットにしまわれていた。取り出したり何なりする際にも、衣服を注視せずに済むのは助かる。そこまで細かく気にするつもりはない。だが、目に入ってしまえば、少しも気に留まらないかどうかは定かではなかった。
それを回避することに安堵しながら、書斎で着替える。真新しい制服は、きっちりとのりが利いていた。成長期だから、と作られたブレザーは少し大きい。そのうちに、身の丈に合うようになるのだろうか。
不思議な気持ちになりながら、着替えを終えてリビングへと戻る。シュカの姿はなくなっていた。入れ違いに着替えに行ったのだろう。
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