破
二人が声の方に首を向けると、峠の頂上に小柄な女の子が一人でやってきた。
カーキ色のウィンドブレーカーに厚手のデニム。軍手と登山靴は土塗れで、背には大きな背負い籠。カンカン帽の下の短髪を二つ結びにして幼い感じがするが、年の頃は二人と同じぐらいだ。なにしろ彼らはその顔に見覚えがあった。
「あ! 君は、お昼の」
「え、ウチ?」
女の子はしばらく丸茂君の顔を見てから、コテンと首を傾げる。
「知り合いやっけ?」
「ううん、全然。ただ、その……」
彼女はお昼に三年峠のことを言っていた生徒なのだが、丸茂君は本来女子と話すのは苦手な方だ。特に盗み聞きしていたことを言い出すのが後ろめたくて、言葉を濁してしまう。
待ちきれずに女の子が喋り出す。
「そのブレザーはウチの高校やね。君らも三年峠に用があるん?」
「あ、そ、そう! そうなんだけど、君は何をしに?」
「へ、へ、へ」
助け舟にすかさず乗っかると、相手は顔を綻ばせ、傍の大石に座り込んだ。
「これや。これ!」
と、背負い籠を脱いでスルリと前に回し、中身を二人に見せつける。
「わあ凄い!」
「うわあっ」
浦越さんは丸茂君から手を放し、跳ねるように籠の前に殺到した。その負荷を一手に受け、丸茂君は倒れかけたが、近くの木の幹にもたれて何とか事無きを得る。
彼女が釘付けになったのは、籠の縁まで満杯に詰め込まれた山葡萄と筍だった。どれも一つ一つが大きく、とれたてで瑞々しい香気を放っている。
少しして顔を上げた浦越さんは、表情を喜色から深刻なものに変えていた。
「よくニュースになる農作物の大量窃盗って貴方みたいな普通の子でもやってるのね。やっぱりSNSで集められた闇バイトなの?」
相手は血相変えて首を振る。
「ちゃうよお。全部この先に自生しとるやつや!」
「本当かなあ?」
「マジやって! どうせ君も見ることになるんやから疑いはすぐ晴れるはずや」
「き、君はこれを採りに来たの?」
ようやく籠の元に来た丸茂君が問うと、女の子は一も二もなく頷いた。
「そうそう! 何てたって今日一日だけのチャンスやもん」
「今日だけって、どういうこと?」
その質問に、相手はキョトンとした表情をしてから答える。
「三年に一日だけ来られる峠やから三年峠って言うんやんか」
「え……」
丸茂君と浦越さんは顔を見合わせて、しばらくしてから丸茂君が代表して質問した。
「あの、じゃあ、ここで転んでも三年きりしか生きられなくなったりは……しない?」
相手は当然のように頷く。
「そうやね。怪我はするかもしれんけど、転んだからどうということは無いやね」
「でも、でも教科書では!」
「いや、あれは教科書やんか。お話やんけ、ここ諏訪やんけ」
「そんな……」
必死に食い下がろうとした浦越さんは一瞬で心が折れ、その場にガックリと膝を落とした。
「おっと、もう時間や」
彼女と対照に、女の子は空を見るなり立ち上がって、籠を背負い直す。丸茂君達が来た方に向かって峠を下り始めて、途中で思い出したように彼らに振り向いた。
「でも二人とも気を付けてえな。三の後には、
それきり、黄昏の暗闇に身を浸して見えなくなる。
二人が気付くと、太陽はもう沈む寸前。天上はほとんど群青色に染められ、無数の針で突いた如く星々が鋭く光っている。
急に冷たい風が吹いた。
「それで、どうするの?」
「……帰りたくない」
「でも、君は、あのー、暗いのが、苦手だったと思うけど」
ぎこちなく切り出されたその言葉に、浦越さんの顔がサッと曇る。しかし、すぐに引き締め直してその辺の大石に置いてあった自分の鞄を持つと、来た方へ歩き出した。
「帰るの?」
無視されるまま丸茂君は付いていくが、ほんの少し峠を降りたところで彼女は立ち止まる。
「帰らないの?」
浦越さんは平板な調子で答えた。
「足がこれ以上動かない」
「ふざけてる?」
「別に。一人で帰ったら?」
そうすげなく告げると、彼女は峠の頂上に戻り、大石の上に座り込む。
呆れた奴、丸茂君は髪の毛をグシャグシャに掻き回すと自分も踵を返して、彼女の隣にドカッと座った。一体何を考えているのか、口を開こうとすると彼女が先に耳元で囁く。
「下の方、何か、居る」
「さっきの子?」
小声で返すと、浦越さんはわずかに首を振った。
「わかんないけど、一人、いや一匹かも、じゃない」
そう言われて、彼は木々や茂みの間にそっと目を凝らす。段々闇に目が慣れていくうち、確かにコソコソと蠢く何かが複数見て取れた。そして、その何か達もまた二人の様子を窺っていることも。
「『気を付けて』って、こういうこと?」
浦越さんは肩をすくめる。
「わかんない。それならあの子が平然と降りてった理由が無い気がする」
「どうしたもんかなあ……」
丸茂君は腕組みして少し思案。浦越さんも口を噤んで、沈黙が訪れる。
沈黙ではあるが静寂ではない。蛙や名の知れぬ鳥がやかましい程鳴き、風や暗がりに潜む何かによる葉擦れが合わさって、二人の心を乱した。特に浦越さんの方を。
少年が気付くと、少女は自分の肩を掴んで震えていた。
彼は大石に両手を突き、そっくり返って、明るさを装う。
「こうして二人で夜まで居るのって、あの時ぶりだね」
押し黙る彼女に彼は思い出話を続けた。
「ほら、松本の、小児科病棟で。肝試しをしたじゃない、病室を抜け出して」
浦越さんにも感じるものがあったのだろう、丸茂君の方を見る。
「僕は嫌だったけど、君が来ないと死刑と言ったから仕方なく。看護師さん達の目を掻い潜って、一階を目指して。結局、死ぬほど怒られたけど」
彼女は不満げに唇を尖らせた。
「貴方がドジだったからバレたんじゃない」
「いいや君がメソメソ泣いてたからだよ。本当に怖がりなんだから」
彼にとっては細やかな揶揄いだったが、浦越さんは真剣な表情で首を振った。
「あの夜の病棟は、こことは大違いだった」
ハーフアップの結び目に少し手を遣って、すぐに力なく膝元に置き直す。
「静かだった。ナースコールが鳴らなくて、クロックスを脱いで足音を立てないようにしていると、何の音もしなくて。あの頃、夜に急変して亡くなった子がいたでしょ、二人。だからそのうち、今日は私の番なんじゃないかって、私が音を立てるのを待ってるんじゃないかと、そう思えてきたの。そう思うと、怖くて、耐えられなくて……」
「誰が待っていると思ったの?」
聞きながら芯を食わない質問をしたな、と丸茂君は思った。案の定答えは無く、彼女は暗い表情のまま俯いてしまう。
これではいけない。彼は立ち上がって決死の口上を振るおうとする。
「でも、僕達には朝が来たじゃないか! そりゃあ何人ともお別れしてきたけど、僕らはちゃんと生きている。明けない夜は無いって言うだろう、これからも一緒だよ! 君だって中二の頃、最後の退院の時はあんなに喜んでたじゃないか。それなのに――どうしたの?」
ハッと顔を上げた浦越さんは、とても励まされたような様子では無かった。
「いや、別に、何でも」
「……?」
意味深だが、とにかく彼女が浮かない様子なのは変わらない。
またも沈黙がやってきたので、丸茂君は一計を案じることにした。
「浦越さん、諏高祭サボるんならさ、今二人で、お、踊らない!?」
と、その場でグルグル回って場違いにはしゃいで見せる。
「いや踊らないけど」
当たり前のように断られた。
「……えーと……」
丸茂君は少し悩んでから、今度は急に顔を手で隠した。
「だるまさん! だるまさん! にらめっこしましょ! あっぷっぷ!」
そう大声で叫ぶが、顔は未だに両手に覆われている。
「……?」
やがて浦越さんも不審に思い、彼の顔を覗き込んだ。のみならず、立ち上がって彼の手を力尽くで引き剥がす。
丸茂君は全くの真顔で、彼女は唇をへの字に引き結んだ。
「貴方、何がしたいの?」
「いや、
「それ何?」
浦越さんは目をパチクリさせながら首を傾げる。
「知らないの? 女神様が引き籠って困ったから、面白そうなことして興味を惹いて外に出させるっていう、日本の神話だよ」
調子を取り戻したように見えた彼女に丸茂君は続けた。
「ネガティブなこと考えてるとどんどんネガティブになっちゃうからさ。にらめっこでもしてやり過ごさない?」
「変顔を見られたくないし、貴方が一生こっちを見ないのならいいけど」
冷たい返事も慣れたもので彼は笑い飛ばす。
「残念、イザナミだった」
「その名前は……聞き覚えがある気がするけど、それも神話?」
「そうそう。イザナミは偉い女神様だったんだけど、死んじゃって。旦那の神様が帰ってきてもらう為に死者の国まで行くんだけど、『自分はもうあの世の物を食べちゃったから戻れない。でもせっかくだし死者の国の神様と交渉してみるけど、私のことは決して見ないでくださいね』って」
浦越さんは眉根を寄せた。
「……その後どうなるの?」
「旦那は結局見ちゃうんだ。そしたら女神はグズグズに腐ってて、旦那はビビって逃げ出しちゃう。怒った女神は部下の
「よもつひらさか」
「――に辿り着く、んだ、け、ど……知ってたの?」
「思い出したの、それに、わかっちゃった」
その思い詰めた顔を見て、丸茂君はとても良くない予感がした。
「やっぱり帰ろう。危ないかもしれないけど、ここにいる方がもっとマズい気がする」
「無理だよ、足が動かないから」
「ふざけてる場合じゃないって!」
浦越さんは冷静に首を振る。
「本当なの、さっき峠を下ろうとして、まるで壁があるみたいに進めなかった。丸茂君、私、わかっちゃった」
彼女はスッと右手を上げ、峠のもう一方、日の沈んだ方を指差した。
「三年峠の先は、よもつひらさかだよ」
「何を言っているの?」
「さっきの子の籠の中身を見たでしょ? 山葡萄も筍もイザナギが黄泉醜女に投げた物、きっとその時の食べ残しが芽吹いたんだ。それからあの子、三年峠は『三年に一日だけ来られる峠』だと言っていた」
「それが?」
「覚えてないの? 今日は私が最後に退院してからちょうど三年目。ここは私の三年峠。二には戻れないし三の後には
ザワザワ。
風も無いのに大きく葉や衣が擦れる音。
潜んでいる者達が自分達の傍に近付いているのだ、と丸茂君は思った。
「バカバカしい、全部いつもの思い込みとこじつけだ!」
「違う。私が正しい」
いつも通りの頑なな態度が無性に彼の気に障ってカッとなる。
「君はいつもそうだ! バカみたいなことだけ信じて、僕の声はまるで聞こうとしない! 再発したからってこれまでの治療が間違ってたわけじゃないだろう!? それを意固地になって、あんな変なゼリーや三年峠で癌が消えるわけないのに! 先生にも余命半年だなんて匙を投げられて、挙句の果てに『この先は四泉比良坂』!? 妄想もいい加減にしてくれ!」
「貴方こそ私の声を聞いたことがあった!?」
彼女もまた激昂した。
「私は怖くて仕方がないの! 夜中に病室の誰かが運び出されて帰ってこない度、酷い発作が一日中続いて先生達に『今夜が峠かもしれない』なんて囁かれる度、私がどれほど恐ろしかったかわかる!? この恐怖は病院や薬じゃ癒されない……それは退院しても変わらなかった。嬉しかったのは最初だけ。夜が来る度次は私の番なんじゃないかとベッドで震え続ける日々、その果てに再発……。いい? 私は明けない夜が怖いんじゃないの、明日も明後日も、何度でもまた夜が来るのが怖いの! 私はもう一晩だって耐えられない!」
その叫びに丸茂君は気圧され、思わずそのまま無理解の態度を示してしまう。
「そんなの、我慢するしか、ないじゃないか……」
浦越さんの長い溜め息。
「ほらやっぱり。貴方は私の言葉なんて聞く気が無いんだ。私のことはバカだと思って、上から目線で正しい理屈を垂れていれば従うと考えている」
「い、いや」
「結局、貴方はヨメモクなんだよ。私が好きなんじゃなくて、境遇の似ている私と自分を同一視しているだけ。死を恐れているだけなの」
「ち、違う……」
「自己愛の押し付けにはもううんざりです」
と言って、彼女は自分のブレザーのポケットに手を突っ込み、ゼリー入りのパウチを取り出した。確かトコヨダケとか言う新種のキノコのエキスを抽出したもので、聞いたこともない大学の教授が癌に効果があるとお墨付きを与えたもの。病院に行かない替わりに彼女が両親にせがんで買わせたものだ。
「な、何する気?」
「死者の国の住人になるには死者の国で食べ物を食べる必要がある……
「ま、待っ――」
丸茂君は彼女に近付こうとして、躊躇う。
ザワ、ザワ。
峠に潜む者達がもう自分達のすぐ傍まで来ていたのだ。まだ茂みに隠れているが飛び掛かってきたら捕まる、それ程の距離。それでようやくその姿が見えてくる。
見窄らしい襤褸を身に纏ったそれらは、一様に青白い肌でギラギラした眼の女達。十数名、銘々がその手に編んだ蔓や青竹の棒を握っている。
「浦越さん、ヤバいよこれ……!」
「ヤバくない、私にとっては」
そう言ってのける彼女の横顔は、周りの女達とそう変わらないような気がして丸茂君は空恐ろしくなった。
「まあ貴方にはヤバいのかも。死ぬのが怖いんなら早く逃げれば?」
浦越さんはそれきり彼から視線を外し、パウチの蓋に手を遣る。
「ダメだ!」
丸茂君は、それを見るや否や彼女に掴み掛かった。
「何をするの!」
再度の揉み合いが始まったが、ほぼ一瞬で終わる。丸茂君の狙いはゼリーのパウチで上手いこともぎ取ったが、浦越さんに思いっきり体を突き飛ばされた。彼は頭から勢いよく倒れ、峻険な峠の地べたに思いっきり体を打ち付ける。
「ぐあ」
と、彼は喉を潰したような声を上げた。
浦越さんが彼の傍に跪いて良く視ると、丸茂君のこめかみ辺りからドクドクと血が流れている。その傍の鋭い石が赤く染まっているのもすぐにわかった。
「大丈夫!?」
そう声を掛けられると、彼はムクリと上体を起こす。何か答える前に、右手のゼリーの蓋を開けて、一気に中身を飲み干した。その後、パウチを投げ捨て、頭を抑えてもう一度その場に倒れる。
「ああ、イッテえ……」
「何してるの貴方!?」
戸惑う浦越さんに、丸茂君は逆に思いやるように見やった。
「確かに死ぬのは怖いけど、君が死ぬ方が怖いよ……」
苦しそうに唾を呑んで、何とか言葉を続ける。
「三の後に来るのは
「何バカなこと言ってるの!」
浦越さんはその一言で一蹴すると、彼を無理矢理起こして肩に手を回した。
「早く病院に行かなきゃ!」
そうして二人はヨタヨタと峠を下り始める。
少しして彼女はギョッとした。
「足が動く」
丸茂君が呻きながら口を開く。
「きっと僕が黄泉戸喫したから……」
「違う! 貴方は黙ってて!」
そう言われた丸茂君が口を閉じると、峠に沈黙が戻ってきた。
ザワザワ、ギャアギャア。
襤褸の女達や得体の知れぬ獣や虫達が二人を追いかけてくるのが聞こえる。
空は雲が出てきてのっぺり黒くて道はほとんど見えず、浦越さんは震え上がった。
自分は今どこを歩いているのか。本当に麓へ向かっているのだろうか。四泉比良坂に繋がっているのではないか……。
彼女がしばらく足を竦ませていたが、丸茂君の華奢な身体がどんどん冷えていくのを感じると、深く息を吸って大声を上げる。
「えいやら えいやら えいやらや
一ぺんころべば 三ねんで
十ぺんころべば 三十ねん
百ぺんころべば 三百ねん
こけて ころんで ひざついて
しりもちついて でんぐりがえり
ながいきするとは こりゃ めでたい※」
その晩、彼女の声は何度も何度も峠に木霊した。
※『さんねん峠』(李錦玉・作、朴民宜・絵、岩崎書店、一九八一年)20頁より引用
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