余命半年の浦越さんが三年峠で転びかけている。

しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる




「アワーッ、浦越さんの余命がマイナス二年半になっちゃう!」




 三年峠の頂上付近で、丸茂君は叫んだ。


 その目の先に居るのは一人の女子高校生。余命半年で有名な彼のクラスメイトで、彼の想い人でもある浦越さん。そんな彼女が、三年峠のてっぺんでつんのめっていた。

 二人の距離は十数メートル、彼には大声を出すしかできない。

 しかし悲壮な丸茂君を余所に、浦越さんは粘り強い足腰で立ち止まり彼の方を振り向く。


「違うでしょ」


「え?」


 まん丸な二つの目がキツく細まり彼を見下ろしていた。


「貴方ちゃんと小学校で国語の授業受けたの?」


「え、い、いや」


 たじろぐ丸茂君を手で制し、彼女はまた口を開く。


「三年峠は転ぶと三年きりしか生きられなくなる峠。だから私の余命は半年から三年に延びる。そしてお爺さんのように転びまくることで更に寿命の延長が可能。つまり私は今日――」


 肉厚な両腕を組み、白い頬を紅く染め、浦越さんは高らかに宣言した。


「――永遠になる」



 カア、カア。

 夕暮れ時、針葉樹林の木立、それから二人の頭上を烏の一群が横切っていく。



「それは、違う……」


「どこが?」


 問われた丸茂君は生白い首を振り、口を開いた。


「まず峠の理屈に従うとして、事実は『転ぶと三年きりしか生きられない』ことだけでしょ? 寿命の限度を示しているだけで、別に三年満期生きられるなんて一言も言ってない。まして寿命が加算されるなんて誤読も甚だしいよ。君が転んでもドスン、『痛い!』、ターンエンド、終わり」


「くっ、なら次は私のタ」


「終わったのは君のターンね。僕のはまだ。では、実際に三年峠で転んだ人に起きている処理はなんだろうか。唯一の例であるお爺さんは、転んだ後医者でも治せない難病になってしまった。そう、三年峠の正体は転ぶと三年以内に死ぬような病気に感染する峠。元々健康だったジジイは変なガキの変な助言で気を持ち直して自然治癒したけど、君は既に余命半年だからね。転んだ瞬間ライフはマイナス二年半。以上、ゲームセット。オッケー?」


 ヒョロガリから意外としっかりした理屈が返ってきたので、浦越さんは思わず歯噛みする。


「そ、それはどうかしら! この世に転んだら病気になる峠なんて存在しないでしょ!?」


 いきなり作品のリアリティに手を突っ込む反論がきたが、丸茂君はクシャクシャの髪を揺らして頷いた。


「確かに。一理ある」


「う、うん」


「だから動物で実験しよう」


 丸茂君の茶色っぽい瞳がキラリと光る。


「できれば人に近いのが良いんだけど、犬とか鼠でもいいから、放り投げて転がしてみるんだ」


 と言って、彼は浦越さんに駆け寄り、その手を掴んで麓の方へと引っ張った。


「ここだけの話、ウチの近所のおじさんがキツネザル飼っててさ。おじさんは無職で一日中猿と散歩してるから『可愛いですねぇ』とか近寄って、不意打ちで僕の姉貴の眠剤食わしておじさんを捕まえて来ようよ!」


「貴方ちゃんと小学校で道徳の授業受けたの!?」


 浦越さんは目を剥いて叫んだ。


「失礼だな。今のは動物実験に従事してきた全ての科学者への侮辱だよ」


「貴方は科学者じゃないし、しかも途中から人体実験になってるじゃない! ていうか……」


 彼女は丸茂君のか細い手を引き剥がして、立ち止まる。


「そうやって私から峠を遠ざけようとしてる、違う?」


 彼は無言で自分のおでこを打った。


「貴方っていつもそう」


 長い溜め息が、夏前のジメジメした西日を冷ましていく。


「執拗に私を追い回して、理屈をベラベラ喋って、勢いで自分の考えを押し通そうとするだけ」


 そこで彼に背を向けダダダーっと峠の頂上に駆け戻ると、浦越さんは仁王立ち。


「私のことは私が決めます!」


 と、思いっきりアッカンベー。

 これは梃子でも動きそうにない。


 丸茂君は首の後ろを掻きながら彼女を見上げた。


「冷静になろうよ……。落ち着いて考えれば君が三年峠で転ぶメリットなんてないってわかるし、もっと重要なことに気付くはず」


「重要?」


 首を傾げる浦越さんに、彼は息を一つ吐いてから指摘し始める。


「三年峠は朝鮮の昔話だから朝鮮が舞台だけど――ここ長野県で、ウチの高校の近くじゃん」


「うっ」


 彼女の顔がさっと歪むが、気丈に言い返す。


「でも私は確かに聞いたの!  お昼の時間、貴方がうるさく騒ぐ横でご飯を食べていたら……」


「それなら僕も聞いた。通りすがりの女子が『ウチ今日は校舎裏の三年峠行くねんな!』って友達に言ってたやつでしょ。でもその後の言葉は聞いてた?」


「え、何か言ってた?」


「『あそこの峠は特別や。教科書とはちゃうで。気を付けなあかん、あそこは――』」


「――あそこは?」


 浦越さんは腕組みして聞き入った。


「そこから先は聞こえなかった」


「役立たず!」


 彼女はプリプリ怒るが、その隙をついて丸茂君はまた彼女に接近を果たしている。


「ね、というわけでもう遅いし、今日のところは帰って駅のファミマのイートインでお茶してさ、後日その子に事情を聞きに行こう!」


「その手は食わない!」


 ぬるりと差し出した彼の手は哀れ弾き返された。


「また私を峠から引き剥がそうとしているし、ファミマでお茶したら学校のみんなに見られる!」


「じゃあ人目につかないところでなら……!?」


 少年の草食系な顔がニタリと歪んで、浦越さんは以前牧場の餌やり体験中に指を噛もうとしてきた牡山羊を想起した。


「何を想像しているの!? もう最悪、男の人ってだから嫌なの!」


「い、いやいや下心なんて無いから!」


「嘘吐き! わかります、どうせ貴方も――私の余命が目的なんでしょ!」


「ん、 え?」


「どうせ『鬱屈して冴えない毎日を送るボクが、余命僅かな私との儚く美しい交流を通し、命の大切さとか生きる意味を見出して再起する』的な経験を求めてるんでしょ! 私の命を消費して自分のイケてない人生をグレードアップする気なんでしょ! なんて汚らわしい!」


 と、彼女は自分の両肩を抱いて身震い。

 丸茂君はしばらく呆気に取られていたが、どうにか首を振って口を開く。


「僕はそんな吸血鬼のキモい版みたいな妖怪じゃないよ。後、君には不快かもしれないけど、そういう体験や物語も、残された人とか人生に悩む人には必要なんじゃないかな。それに、君は――」


「止めて! 私の死から深い教訓を得るかのように私の言葉から別の解釈を提示しないで!」


「ええ……」


 わかってはいたが、説得は無理だ。もう引き摺ってでも帰らなければ、と彼はそろそろ覚悟を決める。


「とにかく、もう、帰ろう」


 と言って、右手で彼女の右腕をむんずと掴んだ。

 浦越さんは抵抗する。


「いや! 触らないで!」


 思いっきり手を振り解こうとするが、丸茂君も頑張って握っているので離れない。しかし、二本の腕は思いの外振り上がり、浦越さんの上体も無理に捩られる。


「うわっ」


「あっ」


 その動きに釣られた丸茂君はたたらを踏んで、ふらりと前方に倒れ込みかけた。その先には浦越さんがいるわけで、自然彼女は避けようとするが、あろうことか彼の左手は彼女のブレザーの左裾を掴んで自分の体を支える。変に力の掛かった浦越さんも堪らず身体を屈し、丸茂君のベルトを握って耐えた。


「な、な、な……」


「わ、わ、わ……」


 それから二人は更にもがいたが一向に体勢が定まらない。三年峠がゴロゴロとした岩や石の荒い山道のせいもあった。

 二人の内少しでも努力を怠ればその場に崩れ落ちてしまうような、どうしようもない均衡。


「も、もう一度手を放して、た、倒れればよくない?」


「待って。それって、三年峠で転ぶってことだよ」


 そう言われると浦越さんは一気に大地に向けて体重を掛けたので、丸茂君が必死に防いだ。


「邪魔しないでよ!」


「もう忘れたの!? ここで転ぶのは危険だと言ったばかりじゃないか!」


「私は貴方よりトルトリの言うことを信じる!」


「どうして!? 僕の方があいつよりずっと論理的なのに!」


 彼女は分厚い胸を反らして答える。


「貴方の言葉は勢い任せのデタラメ。でもトルトリの言説は文科省による教科書検定を通過しているんだから正しいに決まってるでしょ!」


「教科書には事実しか書いてないと思ってる人!?」


「その問いはそれはそれで思想の強い人みたい、ね!」


 ツッコミに丸茂君の意識が割かれた隙を突いて、浦越さんは大きく体勢を崩した。


「ぐっ……と、とと!」


 対して丸茂君は精一杯身体を起こして、強制的に浦越さんも引き上げる。


「チェッ、失敗したか」


「冗談じゃないよ。僕まで余命三年になっちゃう」


 その頃になってようやくやや安定してきて、二人の足場も落ち着いてきた。しかし手を放せる程では無く、がっぷり組み合ったまま向かい合う。

 丸茂君が場違いに微笑んだ。


「こ、こうしてるとさ、アレみたいだね」


「何?」


「諏高祭のフィナーレみたい」


 浦越さんは憤然と眉根を寄せる。


「冗談止めてよ。誰が貴方となんて」


 二人の高校では文化祭の夕方、大きな焚き火を作ってその周りで生徒達がフォークダンスを踊ることになっていた。学年・クラス関係無く並んで輪になって、男女のペアを代わる代わる組んでは踊る。祭りの高揚感や異性との触れ合い、沈む夕日にゴウゴウ燃える焚き火の灯りでまあまあエモいイベントだ。


「もう週末だね。去年は君と踊れなかったら、今年は楽しみだな」


「ああそうなんだ。私行かないから」


「え、何で!?」


 浦越さんはフーンと鼻を鳴らして言う。


「人生最後の文化祭だよ? みんなと楽しむより、サボってゲーセンで紅茶の匂いがする煙草フカしてる方が芸術点高いでしょ」


「自分が一番余命半年ブランドを意識してない……?」


「うるさいな、どうせ貴方もヨメモクのくせに!」


「だから違うって!」


 それからまた二人で柔道の如く揉み合っていたが、非力な丸茂君と女子の浦越さんではお互い決め手に欠いた。


 そのうち二人とも力尽きて荒く息を吐いていると、どこかから、グウ、という音。

 少女が赤面する。


「……お腹空いた」


「僕も。だからもう帰――」


「右のポッケに入ってるから」


 そう言う彼女の視線の先、自らのブレザーの右ポケットは確かに膨らんでいて、彼もその中身は良く知っていた。


「私、手放したら倒れるから。貴方が出して。私に食べさせて」


「……嫌だよ」


「一時休戦。勝手に転んだりしないから」


「そういうことじゃなくて」


 ハア、と再び長い溜め息。


「もう。貴方ってどうしてそうなっちゃったの。初めて会った頃はもっと物分かりが良かったのに」


 丸茂君は顔をグッと顰める。その頃の彼は彼女の子分みたいな存在で、思い出すと情けなくなるのだ。


「君だって小学生の時からバカだったけど、ここまで頑固じゃなかったよ!」


 思わずキツく言い返してしまう。

 返事は無く、二人は暫時無言の睨み合い。

 日もとっぷり暮れてきたのにこのまま膠着状態に陥るか、と思われた時だった。



「わっ、君ら何してるん!?」



  と、エセ関西弁のバカデカい声が転がり込んでくる。



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