第11話
ブランとシルヴァーはエンバーとホワリィとともに、なわばりの外れまで移動した。
道中は皆押し黙ったまま歩いていた。エンバーは反省の色を見せている。
ブランは自分の表情がこどもたちにわからないように、前を向いて歩いた。
こどもたちが迷子となった引き金に、この前の事件がおこった。
今回の出来事は一長一短だ。奇跡が重なり、ロウラと共闘したのだ。
それだけでもロウラを相手にできる、かなりの自信がついた。
マロンのことを信じてよかった。
だから、ここまで発展したんだ。
案の定、マロンはこどもたちを連れて待っていた。
「あたしの命がけのお礼よ」
マロンのはじめてみるまぶしい笑顔だ。ブランは誇らしくなった。
「ありがとう」
「また会えたね」
エンバーがロウラとマロンのこどもたちと鼻面をふれあわせている。
「でも、もう帰らなくちゃ。ロウラも、きっとこの行動には許してくれると思う。彼はそこまで馬鹿じゃないでしょう__」
マロンはそこで言葉をきり、不安げに視線をはしらせた。
「__ロウラが来るわ」
マロンの推測通りだ。ロウラが不満げにこの場にいるオオカミをにらみつけている。
「何事だ?」
マロンは静かに頭をあげた。その態度は、ブランたちと過ごしたあの時期にみたものと同じだ。
「ブランにお礼を言ったの。こどもたちを命がけで彼は助けたから」
「お前も頭がにぶったな」
マロンは反抗しようとむくむく身体をふくらませた。
「こどもたちが助かったことを、まずは喜ばないの?」
「来年にもなれば、また子はつくれるだろう」
それよりも、ブランに助けてもらった事実が許せないのだろう。顔にそうかいてある。
どこまでこのオオカミはプライドが高いのだろう。ここにたどりつくまでに、何も学ばなかったのか?
きっと、こいつはアリから学ぶことで得られる術も知らないだろう。
「あたしのこどもを、なんだと思っているの?」
マロンがすすり泣きはじめた。
「黙れ、泣き虫が」
ロウラが吐き捨てるように言った。
「どいつもこいつもお前のせいだぞ」
ロウラが激しい口調で、ブランに対してまくしたてた。
ブランは動じることもなくロウラを無言のままにらみつけた。
「汚い顔をしやがって」
ロウラが黄ばんだ歯をみせながら威圧的に威嚇した。
乱暴にマロンをひっぱって群れのなわばりへともどってしまった。
「ひどいわ。連れに対してあんな威圧的だなんて、考えられない」
シルヴァーが怒った声をあげた。
「マロンとそのこどもたちは、なんとしてでも助けるわ」
シルヴァーの心の変化に、ブランはおどろいて顔をあげた。
あれほどマロンを毛嫌いしていたのに。お互いこどもをもつことで、気持ちが動いたのだろうか。
「一晩では答えがでないとは思うけれど、どうにかしてマロンとこどもたちを助けよう」
プラズマ虫が身体のなかをかけめぐっているのかと思うと、ぞっと吐き気がする。
いつ物怖じしない性格になるか。
それでも気にしないように努めた。
ぼくは自分に負けない。これまでも、これからも。
「ねえ、ブラン。わたし、マロンを助けようって、心の底から思えたこと、とてもうれしく思うの」
帰り際、こどもたちを連れ歩きながら、シルヴァーがブランに身をよせた。
「弱い者を助けられるオオカミであることがわたしの取柄だった。でも、今は違う。本気でマロンを幸せにしたいって思う。__とても、誇らしいわ」
最後の言葉は、ほとんど涙ぐんでいた。
「あなたは凄いのね。弱者の気持ちにも寄りそえてしまうもの。だから、普通ではありえない発想もする。そこが、わたしがあなたを愛する理由よ」
ブランは言葉にならないほど胸がいっぱいになった。
「助けているオオカミを、弱者だなんて思ったことは一度もないよ。ただ困っているから助ける。それだけのことだ」
「お母さん、お腹へった!」
「そうね。もうすぐなわばりにつくから。そうしたらお魚が食べられるわよ」
「ねえ、クマみたいな大きな生き物も、食べられる?」
決死の戦いをみても、エンバーは無邪気なままだ。
「クマは難しいにしても、ムースならいけるぞ」
「それは、いつ?」
「湖の上が冬の寒さで凍ったときだ。その時が来たら、きみたちにムースの味を教えよう」
エンバーとホワティは、その言葉をきいて顔を輝かせた。
小さな命たちが行動をおこした引き金で、奇跡は重なり、今にいたる。
不思議な心地だ。
ブランはそう思いながら、遠くの空をながめた。
魚をしとめ、顔をあげた。ロウラの群れのなわばりの西の空が、黒い煙でたちこめている。
ここまでどす黒い煙ははじめてだ。ブランは危機感をおぼえ、つばをのみこんだ。
東の池のなわばりの空まで、黒い煙がひろがるのも、時間の問題かもしれない。
シルヴァーがスプリングリーフとおだやかに笑い合っていた。
スプリングリーフは、ぎこちなく口角をあげている。この前相談したことが、まだ心にひっかかっているに違いない。
「きゃっ。ちょっと、ウィンターリーフ!」
スプリングリーフの戸惑った声がした。
息絶えた魚を足元におき、ウィンターリーフの方へ視線を向けた。
彼の美しい白い口元が、血でこびりついている。険しい表情だ。
魚狩りをするときに、思い切り噛みついたのだろう。
「すまない……」
ウィンターリーフは何かにとりつかれていた。頭をはっきりさせるかのように、顔を横にふった。
「この前の戦いが忘れられなくて。苦しいんだ。なんであいつらと共闘したんだって。敵なのに」
綺麗な寒色の瞳は、影を落としている。深くため息をついていた。
「俺はずっとオータムリーフを憎んでいる。それを隠すつもりはさらさらない。あの戦いで、どさくさに紛れて殺してやりたかったよ」
黒い煙が風に流されてこちらの空まで近づいてきた。
気重な空気が流れる。
シルヴァーが怯えた表情になった。
「あなたのことが怖いわ」
「どうしても、胸のざわめきが消えない……」
ウィンターリーフは苦しまぎれに言った。
「__わたしは……わたしも、マロンのことはずっと敵視していたの。でも、前回の共闘で、意識が変わった。あなたも、そうなれない?」
「父親を血の繋がった兄弟に殺されるのと、それとでは訳が違う。話にきいたところによると、胸毛をごっそり抜かれただけじゃないか」
「まあまあ、落ち着いて」
ブランは本格的な喧嘩になるまえに、ふたりのあいだに割って入った。
「殺す以外の方法で、何か復讐できるてだ手はないのかい?」
「なぜおまえは平和にこだわるんだ?」
ウィンターリーフがもどかしげに短くうなった。
「誰でも殺されたら、悲しむオオカミはいるだろう? いざこざに無関係な者をまきこみたくはないんだ」
仲間がどんな理由であれ殺される瞬間の惨さは、一番理解できる感情だ。
ウィンターリーフだって、ぼくとおなじくらいに理解できるはずなのに……。
「じゃあ、その殺す以外の復讐はなんだよ? 綺麗事ぬきで考えてくれ。おれがオータムリーフを殺すまえに」
ブランは耳を寝かせた。リーダーとしてあるまじき行為だが、そうせずにはいられなかった。
「頭を使ってくれるんだな?」
ウィンターリーフがブランの弱みをにぎった、と言わんばかりに、不気味な笑みをみせた。
ブランの背筋は思わず凍った。そこまで頭はまわらない。
けれど、絶対にロウラも、オータムリーフも殺したりはしない。
それだけは、絶対だ。
プラズマ虫が身体のなかをむしばんでいく感覚がある。動悸がしてきた。
サマーリーフも、こんな感じだったのだろうか。
ブランは意識をたもとうと集中した。心の中にある、小さな光が強くひかっている気がする。
自分のこれまでしてきた行いはただしい。
その信念で、心の中の光は強くなった。
ブランはこどもたちの遊び相手をしていた。こどもたちの身体が大きくなってきている。
「この調子でいくと、春の終わりごろに狩りに参加できそうだ」
エンバーとホワティがとっくみあいをやめて、目を輝かせた。
「ほんとう? ムース狩りに行く? それとも、湖を泳ぐ?」
「あんなにひどい目にあったばかりなのに、まだ懲りてないのかい?」
エンバーの性格は、誰に似たのだろう。__なんとなく、こども時代のロウラを思い出した。
「うん! だって、大きい湖を泳いでみたいんだもん! 父さんも、そうやってこの島に来たんでしょう? この湖をわたったら、知らない世界があるんだよ!」
エンバーの興奮気味な声に、ブランははっとした。
この子たちの全ては、この湖の島だけだ。外の世界を知らない。人間という存在を、まだこの子たちは知らない。
「そっか。わかった。力がついてきたら、湖を泳ごう」
「あたしはやめておくわ」
ホワティが自信なさげに言った。
「あんなに大きな湖を、泳ぎきれる自信はないの」
「今はそう思っていても、いつかは湖が小さな池に見えるときが来るのかもしれないよ」
ブランは優しくホワティの頬をなめた。
「どういうこと? 湖の水がぬけて……小さくなっちゃうの……?」
「違うよ。ただホワティと湖を重ね合わせた比喩さ」
ホワティは、ますます困惑している。その様子を、ブランは微笑ましく思った。
プラズマ虫がもそもそ動いている。前足をふりはらっても、プラズマ虫は脚にへばりつこうとした。茂みと灌木の影から、たくさんのプラズマ虫がでてきた。
ブランの肉球は汗ばんだ。
大きなプラズマ虫が尋常なはやさで襲いかかった。
ブランは恐怖を感じながらも、牙をむいて対抗した。
「大丈夫?」
夢の世界から光がさしたかのように、シルヴァーのやさしい声がした。
額に汗をかいて、視線を左右にせわしなく動かした。
まだ心臓がバクバクする。前足がふるえて、力がでない。
「よかった……。夢だったんだ……」
プラズマ虫が身体にはいりこんだことは、群れのみんなには話してあった。
シルヴァーはそれを知ってから、いつにも増して心配した顔で接してくる。
ブランは群れの仲間には、いつも通り接してほしかった。
故郷にいたときのロストアイの心境を思い出して、気分が悪い。
群れの仲間たちに悪気がないことはわかっている。それでも、リーダーとしての尊厳が失ってしまった気がした。
「川まで一緒に行くわ。悪夢をみて、喉が乾いたでしょう?」
「ひとりで行くよ。シルヴァーはスプリングリーフとこどもたちを見守る約束だろう?」
「……わかったわ」
ブランの心持ちを察したかのように、シルヴァーはゆっくりうなずいた。
「何かあったら、遠吠えでしらせて」
「了解」
ブランはまばたきをして、感謝の気持ちをおくった。
この心境は、はじめてシルヴァーに助けられた、冬の時期のころに似ている。
洞穴から外にでると、人工的な黒煙がなわばりの空をおおっていた。
「嫌だわ。この煙に害がないといいのだけれど」
ブランにつづいて、シルヴァーが顔をだした。
「じゃあ、気をつけていってらっしゃい」
「いってきます」
ブランは愛おしいシルヴァーの鼻面にふれた。
草むらをかきわけて川へむかった。小鳥のさえずりと風の音にまじって、川のせせらぎがきこえる。
この前の夢にでてきた景色だ。茂みと灌木のまざった場所だった。
それでもブランは気にとめることなく前へ進んだ。
喉の渇きをいやそうと、水面に顔を近づけた。
顔に傷跡ができたあの日が、ずいぶん前の出来事な気がした。
今は、自分の顔をみても、みにくいとは思わない。
みにくいどころか、自信にあふれた表情をしているように思う。
誇らしかった。これまで自分のしてきた行いは、間違ってはいない。
ブランは確信した。
誰かが草をかきわける颯爽とした足音がした。
群れの仲間たちは、ロウラのなわばり方面にはきていないはずだ。
ブランは顎に水をしたたらせながら、顔をあげた。警告をこめた威嚇をした。
敵は完全にこちらのなわばりへ侵入している。姿はまだ見えない。
ブランは動きまわって相手を確認した。
黒煙が空で悪目立ちしているせいで、鼻がにぶっている。
勢いよく茂みからロウラがとびだしてきた。
一言かわす間もなく、ロウラは力任せにブランに噛みつこうとした。
ロウラの攻撃を間一髪のところでかわした。
「くさいな。もしかしてプラズマ虫でも飼っているのか?」
小馬鹿にした口調で、ロウラがあざけた。
ブランは歯をくいしばった。
「だからなんだっていうんだい?」
「これなら楽勝だな。俺がブランを殺せば、俺の群れの仲間は喜ぶだろう」
ブランはロウラを観察した。身体がやつれている。毛並みも悪い。
頭と今あるたくわえを発揮すれば、簡単には倒せそうだ。
ブランは威厳のあるうなり声をだそうとした。
うなり声のかわりに、息のきれた声がでた。
ロウラはその様子をみて、少し拍子抜けた顔をした。
「群れのリーダーのくせに、なんだそのざまは! 貫禄がないな!」
ロウラがとびかかった。
ブランは急に息が苦しくなった。このままでは、ロウラにされるがままになる。
ブランは精一杯抵抗した。どんどん頭が働かなくなる。プラズマ虫は身体の中で何をしているんだ?
ブランは、心の中で感じていた強い光を思い出そうとした。
その光にあがいた。どうにか地面にたたきつけられることを回避できた。
しばらく攻防がつづいた。どちらも息をきらしている。
「狂気の目だ」
ブランとロウラは視線があった。ロウラが怖気づいたのがわかった。
ブランは息がきれながらも、威嚇した。
遠くで、クマの雄たけびがきこえる。不気味な声があわさった。
ロウラは青ざめた表情になり、尻尾を巻いて逃げ去った。
激しく身体を動かした衝撃で、口からプラズマ虫をはきだした。
その場でしばらく寝込んでいると、意識もはっきりしてきた。
プラズマ虫に身体をむしばまれたとき、相手の声がはっきりと聞こえた。感情も、はっきりと動いた。サマーリーフも、きっと動揺しながらも、あがいていたに違いない。
戦いの最中、クマの雄たけびが聞こえたはずだ。たとえ遠くにいたとしても、ひとりでは危険だ。
喉を癒そうと川に来たのに、逆にのどがかわいてしまった。
つんざくような悲鳴がロウラの群れのほうから聞こえた。クマの荒々しい声も聞こえた。
ブランの背筋は凍った。ロウラの可愛らしいこどもたちの顔が思いうかんだ。
よそのオオカミのこどもとはいえ、放ってはおけない。
ブランは意を決して仲間を遠吠えであつめた。
シルヴァー、スプリングリーフがすぐに駆けつけた。
「何があったの?」
シルヴァーは、ぼくが不利な状況でロウラとやりあったことをしらない。
「ロウラのなわばりの方から悲鳴が聞こえた」
「こどもたちが心配だわ。助けないと」
小さな命の影響力は偉大だ。シルヴァーはなんの躊躇もなく、ロウラの群れを助ける意志をしめした。
ロウラのなわばりに来たのは、はじめてこの島に訪れたとき以来だ。
木々や草花が枯れて、川もにごっている。なわばりの奥へはいっていくたびに、
異臭がする。
ブランは自然が破壊されかけている光景をみて、いたたまれない気持ちになった。
苦しげに誰かが吠えた。クマが勢いよく大地を蹴る振動が伝わった。
戦いの衝撃で、枝がきしむ。戦況がわからないので、影に隠れながらしのび歩きをした。
シルヴァーもスプリングリーフも、沈黙をまもっている。
唯一生きのびた元気なイバラの茂みで、ブランは息をつめて状況を見極めた。
焦げ茶色のオオカミが、クマにやられて息絶えた。息絶えるまぎわに、白目をむいた。
誰も助けてくれない焦りの色が、ひとみににじんでいる。
ブランは父親や、故郷の群れの仲間たちが、アリのようにつぶされて死んでいく光景を思い出した。
オオカミの遺体の横に、子熊が頭から大量の血がながれていた。
「かなり不利な状況だ。母熊は子熊に手を出したことを怒っているんだ」
「こどもを失った悲しみは、憎悪に変えられるわ」
「行くぞ!」
こちらの戦力がくわわったところで、どうにかなるとは思えない。
それでも、この群れを助けたい思いが、ブランの勇気をかりたてた。
ロウラが葉のない木のほうまでクマに投げつけられていた。
ブランはシルヴァーと力をあわせて、標的をこちらに変えようと試みた。
母熊は、子熊を殺したロウラにしか目がないようだ。
悲し気にうるむ瞳が、淡い光で反射した。
オータムリーフが颯爽と現れ、ロウラをカバーしようとした。
ブランは急いで太陽の位置を確認した。目くらまし作戦は、黒煙のせいで効きそうにもない。
「川まで誘導させるんだ! 濁った川に頭を沈めさせるんだ!」
ブランは仲間に合図をおくった。
「わたしも標的にされているの! だから、わたしがやるわ!」
マロンがブランの命令にしたがった。
いつものたどたどしいマロンとは違う。死の崖ふちに立たされているからだろうか。
眼光が鋭く光っている。決意のあらわれだ。
マロンが母熊に近づこうとした。だが、足をくじいた。表情はみえなかったが、苦し気に身体が不自由に動きはじめた。
血のにおいに反応した母熊は、ロウラにとって間一髪のところで動きをとめた。
からくりを理解したブランは、鋭い石をわざと踏んづけた。
このくらいの痛みはどうということはない。これで仲間たちを救えるのなら__。
母熊は狙いさだめに時間をかけている。ブランは重症を負ったふりをした。
ようやく狙いさだめが終わったようだ。
こちらに向けて駆けてくる。
ブランは必至に立ち上がって濁った川まで誘導した。
ロウラの群れの川は、毒々しい。ブランは毒殺の可能性にかけた。
仲間たちが後につづいた。ブランは筋肉に力がみなぎった。
母熊の後ろ足を強く噛んだ。ひきちぎるくらいに。
母熊の身体が傾いた。あとにつづいた仲間が、母熊に自分の体重の重みをかけた。
母熊はどうにかあがいた。一匹のロウラの群れのオオカミが、ふりおとされた。
それでも母熊は大量のオオカミの力にはかなわず、濁った川で毒殺させた。
あれだけすさまじい戦いだったにもかかわらず、一瞬で静かになった。
黒煙が太陽からそれ、ブランの地面に陽だまりができた。
ブランは肩で息をきらした。その場で茫然と立ちつくす。
「……ブラン……」
弱々しい鳴き声が後ろからきこえた。ロウラだ。
オータムリーフがずっとロウラのそばにいる。
彼はロウラに忠誠心を誓った裏切者だ。それでも、この状況をみると、彼らを憎めない。
ロウラがおぼろげに口をひらきかけた。
「恩に着る。……こどもたちにつづいて、今度は俺か……」
ブランはスプリングリーフを見上げた。
「水をしみこませたコケを調達してほしい。彼はショックを受けているから、余計に傷が痛んでいるだけだ」
スプリングリーフがコケをとりにでかけた。
オータムリーフが地面に横たわっているオオカミたちを順番に確認した。
彼は恐怖で青ざめている。
「みんな死んでしまった。俺とロウラ、マロン、そのこどもたちだけだ」
「かならずこの群れは僕が立て直すよ。約束する」
「なんだって?」
オータムリーフの言葉を待たずに、間に入ったオオカミがいた。
「ウィンターリーフ! どうしてここに?」
ブランは驚いてあけた口がふさがらなかった。
「俺はこいつらを殺しにきた。どいつもこいつも、漠然としているんだろう? だったら、今しかない」
「殺したかったら殺すがいい。それで死ねるなら、本望だ」
ロウラがかすれた声で、だが、吐き捨てるように力強く言葉を発した。
「……なあ、ウィンターリーフ。本当に、彼らを殺しても……後悔しないのかい?」
ブランの懇願する口調に、ウィンターリーフが戸惑いをみせた。
「後悔はしない。ずっとこいつらを憎んで生きてきたのだから」
ウィンターリーフは戸惑いをふりきった。
「それなら、僕は__僕らはロウラたちを守る」
「馬鹿な野郎だ」
ウィンターリーフが筋肉に力をこめはじめた。
「こどもたちがいないわ!」
「こどもたちがいなくなった!」
マロンの困惑した声にかぶさるように、ロストアイの遠吠えがきこえた。
ウィンターリーフが舌打ちをしたあと、ブランの方へ引き下がった。
「その判断をしてくれた君に、僕は感謝するよ」
ウィンターリーフは少しふてくされた顔になったが、素直にうなずいた。
今は身内でもめごとをおこしている暇はない。
「何匹いないんだい?」
「唯一の生き残りの子がいないの……」
「こっちはエンバーがいなくなった!」
マロンの声と、ロストアイの遠吠えが重なる。
ブランは疲れをどうにかふきとばした。父親として、リーダーとして、威厳をみせなければ。
「シルヴァー、スプリングリーフが帰ってきたら、ロウラとマロン、オータムリーフを守ってくれ。僕はウィンターリーフとともに行くよ」
「いいや。俺も参加する」
ロウラが苦しまぎれに発言した。
「水分を補給しないことには、無茶だわ」
シルヴァーがやんわりと指摘した。
「最後の生き残りなんだ。老いたオオカミの心配は後だ」
ブランはロウラの心情の変化を目の当たりにした。
「わかった。三匹で探そう」
ウィンターリーフがロウラをうさんくさそうにみたが、うなずいてくれた。
遠吠えでエンバーとロウラとマロンのこども、リリィを探した。
エンバーとリリィの返事がかえってきた。
ブランは安堵のため息をついた。
「遠吠えが聞こえたなら、こっちのものだ」
茂みをかきわけて、声のするほうへ進んだ。
黒煙につつまれた空はいつの間にか暗くなった。夜風が頬をなでる。
ブランはすぐにこどもたちを見つけた。キツネの洞穴の中にはいっている。
ブランは胃がキリキリしだした。洞穴で悲鳴があがった。血のにおいがする。
ロウラが真っ先に洞穴めがけてとびかかった。
ふさふさの赤毛の尻尾を引きずりだした。キツネは苦痛な声をもらした。
キツネをロウラが執拗に追いかけまわした。キツネは降参した鳴き声をあげ、逃げ去った。
ブランはロウラにむかって感謝をこめてまばたきを送った。
「勘違いするな。俺のこどものためだ」
口では強気で言っているが、口角が少しあがっている。
こどもたちの身体にあざができていたが、命に別状はなかった。
「なぜロストアイのところで待っていなかったんだい?」
リリィを叱る役目はロウラに任せた。
エンバーが反抗的ににらんだが、無意味なことに気がつき、目をふせた。
「だって、ウィンターリーフが戦いに行くから、行っていいのかと思った」
「もう少し大人びた判断をしろ」
ブランは鋭く注意した。
「ごめんなさい……」
「で、でも、リリィとは仲良くなれたんだよ!」
エンバーがリリィをちらりと見た。リリィがそれに応え、やわらかい笑みをうかべた。
ブランはこれ以上は叱る気にはなれなかった。
「自分勝手な行動をおこせば、まわりに迷惑がかかるんだ。大切なリリィだって、どうなっていたかわからないぞ」
「気をつけます」
反省の色をみせたエンバーに、リリィが近づいた。
「わたし、ずっとひとりで、さみしかったの。だから……あなたともう一度会えて、嬉しかった」
ロウラが仕方がない、といった調子で表情をゆるめた。
ウィンターリーフがロウラに視線をおくった。目元がやわらいでいる。そのことにブランは安堵した。
ウィンターリーフも、この一連をみて、何か思うことがあったのかもしれない。
満月が黒煙をおしのけてまで輝いている。
こどもたちが無事だとわかると、わけへだてなく誰もが喜びの遠吠えをした。
ブランの胸があつくなった。プラズマ虫が去っても、自分の心の中に強い光が見える気がする。
「ロウラ、もし魚とりに困っているなら、こちらのなわばりの川で捕りに来たらいいよ」
「……ありがとう」
ロウラが少しくすぐったそうにそう言った。
「__帰るぞ」
ロウラから、ブランの鼻面を触れ合わせてきた。ブランは目頭が熱くなった。
盛大に喉を鳴らすと、ロウラは目をそらした。
マロンに肩をかしてもらいながら、自分たちのなわばりへと帰って行った。
「僕たちも、帰ろう」
シルヴァーがブランに面白おかしくじゃれてきた。
ブランは仲間たちにもみくちゃにされながらも、自分の住処へとむかっていった。
「ここの魚も腐っているじゃないか」
ロウラの声に、ブランは頭をあげた。ロウラがブランに近づき、魚を足元に落とした。
ほんとうだ。魚が腐って骨の部分がうきあがっている。
「魚は食べないほうがいい」
「じゃあ、何を狩れっていうんだよ?」
ロウラの目には、焦りがにじんでいる。
「わからない。冬になれば、ムース狩りにいける」
「それまでこの島がもつと思うか?」
ブランとロウラは途方に暮れた。
「ルックとサーバルが、オータムリーフに言ったあの言葉、覚えている?」
シルヴァーが不安げに目を見開いた。
「なんとなく。でも、まさかここまで被害がひろがるだなんて」
「このままだと生きられないわ」
魚とりを中断したマロンが、こちらまで駆けて来た。
「湖の水はまだ面積が少ない。だから、泳いで渡って狩りをして……」
「狩りにどれだけ時間をかけられる?」
ブランは厳しい現実に直面し、頭が混乱した。
皆、ブランの好ましい回答を待っている。
ブランは深呼吸をして、頭をはっきりさせた。頭の中にモヤがかかっていたが、それが晴れてひとつの答えを導きだした。
「この島から離れよう」
今度はロウラが動揺する番だった。
「どうかしている」
「ウィンターリーフたちが何と言うかはわからないけれど、それしか方法はないよ」
「湖はまだ汚染されていないわ。とっても大きいから」
シルヴァーがブランの肩をもった。
「でも、こどもたちはどうするんだ? 泳げるのか?」
「もうそのくらいの体力はついている。エンバーなんか、特に喜ぶんじゃないかい?」
ロウラが深いため息をついた。
「しかたがない。この島から離れるしかなさそうだ」
「でも、新しい住処がどこにあるのか、まだ検討がつかないわ」
ブランは遠くの景色を見まわした。西の方角は人工的な黒煙ですべて汚染されている。
「東の山の方角へ行くしかない」
黒煙の空とあいまって、気重な空気が流れた。
「僕たちは、何度でもあらがって来たじゃないか。人間の脅威にだって、立ち向かうんだ」
ブランは仲間をふるいたたせるために言った。だが、その言葉は虚しく響いただけだった。
朝日の光が重なる木の枝からさしこんだ。いつもより弱くて頼りない。
ブランは目覚めが悪いまま身体をおこした。となりにはシルヴァーがいる。難しい顔をしていた。夢を見ているようだ。
エンバーとホワティがシルヴァーの近くで、寝息をたてている。
朝日の光が弱いせいか、いつもより起きるのが遅い。
ブランは三匹をやさしく起こした。
「出発の時間だよ」
「……もう? おれの故郷はここなのに。ムース狩りができるって、言ってたのに」
「すまない」
ブランは昔の自分自身の姿と重ね合わせ、ちくりと胸が痛んだ。
住み慣れた場所から離れる辛さは痛いほどよくわかる。
母熊に殺されたこどもたちは、この島の空でとりのこされるのかもしれない。
家族がほんとうの意味で離れ離れになるのかも。
「人間の力と、大自然の力の前ではどうすることもできないんだ。でも、僕たちも生きている。生きたいと思い続けるかぎりは、あらがおうって決めたんだ」
ブランは瞳に影をおとすエンバーの顔をじっと見つめた。
「これは父親というより、群れのリーダーとしての判断だ」
「そうよね。こきょうの景色を忘れちゃうのはさみしいけれど、わたし自身のことをみんなが忘れてしまうなんて、もっといやだわ。だから、わたしもお父さんと一緒に立ち向かうわ」
ホワティに、シルヴァーの面影がでてきた。ブランの心はじんわりとあたたまった。
「みんなもそろそろ集合しているんじゃないか? 急ごう」
はじめてこの島に訪れたときは、この群れのリーダーになって、ここに住みつくとは思わなかった。今となっては、それがあたりまえだ。__そのあたりまえも、もうすぐおわってしまう。
ブランは見慣れた顔ぶれの仲間たちの顔を順番に確認した。
ロウラとマロン、オータムリーフもあれからこの群れに居ついている。
的確な指示をもとめるかのように、みんなブランの顔を見かえした。ロウラでさえも。
「黒煙がひろがっていない、東の方角へむかって行こう」
ブランはなるべく断言した口調を心がけた。
「こどもたちは、大人のオオカミのすぐ横を泳ぐこと。焦らず、ふざけず、真剣に泳いでほしい」
こどもたちの顔つきがいつもより凛々しく感じられた。
「まずは、この島に別れの挨拶をしよう」
これを提案したのは、スプリングリーフだった。彼女たちが本来、ここを住処にしていたのだから。島を離れるのは心苦しいだろう。
ブランが先頭にたち、遠吠えをおこなった。いざこざのあったメンバーだったが、遠吠えの波長がぴったりと合った。気分がいい。
ブランは頭を上にあげたおかげで、ふさいだ気持ちが晴れてきた。
久しぶりに自然と尻尾もあがる。このときばかりは、誰もが尻尾をあげていた。
この島に、希望か絶望かもわからない未来にむけて、遠吠えをおこなった。
湖が目前にせまると、ゆるんだ気持ちをひきしめた。黒煙は背後の空にあって、この島もいずれ過去の思い出となる。その瞬間が、刻一刻とせまっている。
最初にブランとロウラが湖に前足をつっこんだ。
ブランは泳ぎ慣れていたおかげで、すぐに感覚をとりもどすことができた。
ロウラは少しぎこちない。苦戦していることを顔にだしていなかった。
ブランはこどもたちの心配をしていた。ホワティはシルヴァーのとなりで泳ぎ、エンバーはブランのよこで必死に足を動かしつづけていた。
誰も応援のかけ声もなく、黙々と泳ぎつづけた。
水かきの足の音が乱れてきた。
「ホワティ……!」
シルヴァーの悲痛な声があがった。
「しっかりして……!」
「ダメだ、シルヴァー! 君の身体がもたないよ!」
ロストアイがシルヴァーにかすれた声をかけた。
「僕も手伝う。ホワティ、しっかり!」
ブランはホワティをサポートしようとした。
ホワティは沈みかけている。
「ごめんなさい……。わたしのことは___」
ホワティはそれだけ力なくつぶやくと、湖の底へと沈んでいった。
「ホワティ!」
シルヴァーのなげきがひびいた。
ブランの心が押しつぶされそうになり、一瞬めまいがした。
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