第10話
北の大地に凛とした花が咲き、雪が小川に落ちる音がした。
冬眠から目覚めるクマに警戒しながらも、ブランたちは魚狩りをした。
「シルヴァーのこどものためのような川だ」
ウィンターリーフが満足気に目を細めた。
ブランは初春にうまれたこどもたちの顔を思いうかべた。
少しにごったこども特有の青い目をしていて、顔もぷくぷくだ。
その姿が愛おしくて、いつもより寛大になれた気がした。
プラズマ虫の感染から治ったサマーリーフが、一気に三匹もの魚を口にくわえてやってきた。
「はやめに切りあげよう。調子にのっていたら、腹を空かせたクマに遭遇してしまう」
ブランは仲間たちのところへ急ごうとした。
ふと、こどものクマの聞きなれない声がした。魚のあぶらのにおいに鼻がやられていたので、
すぐそこに子熊がいることに、気がつかなかった。
「まだこどもだ。大人になるまえに殺そう」
ウィンターリーフが肩の筋肉を盛り上がらせた。
ブランは一瞬判断に迷った。子熊はそのうちこの群れにとって脅威になることは、わかっている。だが、今殺してしまうと、母熊は我が子を失った悲しみで、怒り狂うかもしれない。
ブランはそんな思いをふりはらった。ここで子熊を退治しなければ、後悔する気がした。
ぼくらも、我が子を失いたくはない。オオカミの貴重な命だ。
「一度獲物は足元において。子熊を追跡しよう」
ブランの命令で、張りつめた空気がただよった。ブランも緊張してつばを飲んだ。
身をかがめて子熊を追跡しはじめた。鼻が鈍っているが、それでもかまわない。
子熊をはやく殺さなければ、きっと後悔する。シルヴァーを安心させたい。
「ルックやサーブルが生きていたときの戦術を使おう。子熊なら、簡単だ」
サマーリーフが声をひそめながらも、陽気にそう言った。
ブランはそうは思えなかった。この戦術は何度も使っている。クマを侮ってはいけない。
クマのかぎ爪が顔にあたったときは、火傷しているかのような痛みがはしった。
その強靭な威力は、子熊と対して変わらないのではないだろうか。
それに、子熊が近くにいるということは、大人のクマもどこかにいるはずだ。
クマの恐ろしさは、このぼくが一番知っている。
近くを一周したが、子熊の痕跡は見当たらなかった。
ブランは寒気がした。少し胸騒ぎがする。
ブランは独自の判断で遠吠えを行った。シルヴァーにメッセージを送ると、かすれた声の返事がかえってきた。
「どうしたんだろう?」
ウィンターリーフの不安に満ちた声に、ブランの足がふるえた。
胸騒ぎをおぼえながら、きびすを返す。
先ほど狩りをした場所で、陸にあがった魚が、クマによって食い荒らされている。
足跡からすると、子熊だ。
ブランの胃がむかむかしはじめた。
なわばりの拠点から、スプリングリーフやロストアイの悲鳴があがった。
「急げ! 子熊がなわばりに侵入した!」
ブランは一瞬怖気づいたが、声を荒げて仲間たちに合図を送った。
小枝で遊んでいたこどもの一匹が、空き地で横たわっていた。
途方に暮れるほどの大量の血を流している。頭をもぎりとられていた。
ブランは父親の死や、サーブルの死と重なって、ショックで動けなかった。
シルヴァーの激しく泣き叫ぶ悲痛な声が聞こえた。
サマーリーフが愕然とブランのこどもの遺体をみつめていた。
「クマはほんのこどもなのに、こんなに力があるなんて」
子熊は満足したのか、どこにもいない。こどもの血や子熊と、獲物のにおいが混ざり合った。
ブランはショックを受けた。その場に座りこんで泣き叫びたい気分だ。
それでもぐっとこらえて、仲間に指示をだした。
「穴にこどもを埋めたら、通夜をする。シルヴァーも、手伝ってほしい」
スプリングリーフになぐさめられていたシルヴァーが、顔をあげた。
目に涙がたまっている。それを見ると、ブランの胃がしめつけられた。
身体が汚れるまで穴を掘ったころには、日が暮れようとしていた。
カラスが、哀愁ある鳴き声で飛んでいる。
オレンジがかった光が、土の盛られたところで陽だまりをつくった。
先ほどまで遊んでいた小枝をその上においた。
「絶対に敵をうつから。絶対だ」
ブランは腹をくくった。シルヴァーも、殺意で眼光を鋭くひからせている。
巣穴で避難していた残りの四匹のこどもたちが姿をあらわした。
ここにいるクマは、オオカミのこどもの肉の味を覚えてしまった。
木の実のようにまるい目をしているこどもたちをじっとみつめた。
シルヴァーが愛情をしめすかのように、順番に鼻面をふれあわせていった。
「これ以上あなたたちを失わせたりはしないわ」
心なしか、ブルームを思わせる風格がシルヴァーにただよっている気がした。
幼いこどもたちは、この事態を理解していない。お腹が空いたと声をあげている。
「不思議ね。こどもたちに助けられている気がするの。あなたの、小さな命の視線で物事を考える行動に、納得してしまうわ」
シルヴァーが目をとじた。
「オオカミにも、クマにも、これだけ小さな命なのに、力があっただなんて」
ブランは自分の考えがようやく認められた気がした。こどもを失った悲しみでかすれた声しかだせなかった。それでも愛情を伝えるために、精一杯喉を鳴らした。
しばらく悲しそうな表情で遠くを見つめた。
こどもたちが足元にまとわりつきはじめた。空腹なことを、うったえている。
「ずっと落ち込んではいられないわ。こういうときこそ、狩りをしなければ」
ブランは、今は亡きブルームの姿をみているようだった。
あのころの光景は、父の死に対する怒りの靄をふりはらったときに、消えたはずなのに。
「無理はよくない。群れの仲間たちがいるから。ウィンターリーフたちに頼もう」
シルヴァーが頑固な顔でこちらを見た。
「やらなくてはいけないことをしたら、気持ちが紛れるの。マロンが群れにいたとき、そうであったように」
シルヴァーはなんのためらいもなく、マロンの名前を言った。その変化は嬉しいことだ。
ただ、どうすれば今は休憩どきかを、わかってもらえるだろうか?
「父を亡くしたブルームも、__ぼくの母親も__そんな状態だった」
ブランはシルヴァーを思って頬を優しくなめた。
「けれど、無理をしているようにみえたんだ。シルヴァーが強いオオカミだっていうのはわかる。でも、強いオオカミでもたまには足をとめないと」
心身ともに疲れ果て、それでも動いたさきに待っているものは、絶望感だ。
ブルームが人間に殺されたのは、判断力がにぶって、ロストアイのように逃げなかったのが原因だ。今となってふりかえると、ブランはそう思った。
オレンジ色の光がシルヴァーの目を反射して、不思議な色合いの瞳になった。
なんともいえないグラデーションに目をうばわれた。
オレンジ色の光が、ますます目に影を落としてやつれた表情にみえる。
「きみが無理に動けば、こどもたちも心配する」
「そこまで言うなら……」
シルヴァーは深いため息をついた。
「ごめんなさい、こどもたち。ウィンターリーフが魚とりに出かけるから、それまで待っていてほしいの」
シルヴァーは疲れを隠して優しくほほ笑んでいた。
甘えるような鳴き声が少しおさまった。こどもたちは兄弟が死んだ状況を理解できていない。
じゃれ合うようにとっくみあっている。洞穴へ向かった。
「ぼくからウィンターリーフに伝えておくから。すぐにきみのもとへ駆けつけるから、少しだけ待っていて」
シルヴァーは信用した面持ちでうなずいた。
ブランはそれを見て胸の中であたたかいものがじんわりとこみあげてきた。
シルヴァーは、マロンに対する敵対心もなくなった。「愛している」と言わなくても、絆は強く結ばれている。
今まで以上に春の陽気のような空気がこの群れのあいだに流れていた。
きっと、小さな命たちの力のおかげだろう。ブランは心の中で強く思った。
土砂降りの雨が降りだした。ブランたちははやめに魚とりの狩りを切りあげた。
何匹か銀色の魚を口にくわえた。慌てて駆け出したはずみで、途中で口から魚をすべらした。
その魚は雨に打たれてぴちゃぴちゃ跳ねている。川に帰れず、迷子の状態だ。
ブランは獲物を無駄にしたことを後悔した。それでも急いで拠点へもどった。
雨のせいで、気重な空気が流れている。シルヴァーの深いため息と、スプリングリーフのなぐさめる声が聞こえてきた。
「そんなんじゃ、こどもたちに悪影響をあたえてしまうわ。お母さんは、笑顔でいなくちゃ」
スプリングリーフは湖の島で子育ての経験がある。プラズマ虫でこどもは死んでしまった。
洞穴の様子をのぞこうとした。スプリングリーフが僻んだ表情で出てきた。
まさかブランがそこにいるとは思わず、短い悲鳴があがった。
「何かあったのか?」
母親になったばかりのシルヴァーだ。毎日ぼくらは胃の中がキリキリしてしまう。
群れのリーダーに、子育て。やりがいは感じていたが、大変な時期だ。
シルヴァーの心情はわからない。強気にふるまっているが、たまに沈んだ顔をする。
それが気がかりだ。こどもがひとり亡くなったことが、そうとうショックに違いない。
「こどもたちを外で遊ばせているときは、いつも不安な顔をしているの」
スプリングリーフが少し苛立ったようすで鼻を鳴らした。
「あれでは、母親失格よ」
「彼女は子育てをはじめて経験しているんだよ」
ブランはやんわりと指摘した。
スプリングリーフも沈んだ顔をしはじめた。口角が下がっている。
「私だって、あんなに素敵な時期があったはずなのに」
「僻んでいるのかい?」
ブランは思い切ってたずねた。
「いいえ。幼子の顔を、思い出してしまっただけよ。彼女はよく頑張っている。それはわかるの」
「連れ合いはどうしたんだい?」
今まで疑問にも思わなかった。スプリングリーフにこどもがいたことを知ったのも、つい最近だ。
「プラズマ虫にこどもがかかってから、群れを出て行ってしまったの。ひどい話よね」
スプリングリーフが足元にまでつきそうなほどのため息をついた。
ブランはその状況を想像した。自分はそうはならない。一縷の希望がみえるまで、シルヴァーとそのこどもに寄りそう。
「過去のことを思い出して、辛い話かもしれない。もし彼女との時間が苦痛なら、ロストアイにその役を交代させることもできるよ」
「いいえ」頭がはっきりとしたみたいに、スプリングリーフの目は力強く光った。
「子育て経験のある私が全うすることだわ。それだけは確かよ」
ブランはまだ気がかりだったが、うなずいてみせた。
にぎやかなこどもたちが洞穴に帰ってきた。
風に吹かれて地面に落ちた葉を、こどもたちがパリパリ踏んだ。
「ウィンターリーフとサマーリーフにあそんでもらったんだよ!」
「サマーリーフは、とってもあそびじょうずだった!」
「良かったじゃないか」
ブランは嬉しくなった。
「よし、母さんに会いにいって。話をしてあげてくれ。そしたら、たくさん喜ぶぞ」
こどもたちは、ムースやオジロジカの味を知らないんだ。
そのうち教えてあげることができたらいい。
一年後には、成犬になっている。その冬の時期に、湖の氷を渡って狩りの仕方を教えよう。
ひとりのこどもは洞穴には行かずに、遠くを見つめた。
「どうしたんだい? 湖なんて見つめて」
青い水面を見つめるこどもを、ブランは不思議そうにながめた。
「湖って、どういったものなんだろうって、思っただけ」
「大きくなったら、見に行けるよ。自分で泳ぐこともできるし、湖の氷の上を歩くこともできる」
ぼくらより大きな、オジロジカやムースを見ることだってできる。
ブランはその思いは口にしなかった。本当に湖を越えたときの、お楽しみだ。
「今じゃダメなの?」
「もちろん。身体がまだ小さいから。湖は渡ったらいけない。これは父さんとの約束だ」
ブランはかがんでこどもの鼻面をふれあわせた。
こどもは肩をくすめたあと、母親や兄弟のいる洞穴へと向かっていった。
今はウサギやネズミがちっぽけに見えて、自分たちオオカミが一番強いとでも思っているに違いない。
春の日差しが顔にあたった。こどもたちのなごやかな空気のおかげで、緊張感が解けた。
亡くなったひとりのこどもに対して、やり場のない感情があった。
それはシルヴァーもおなじだったが、それでもブランたちの目元は和らいだ。
こどもたちの名前が正式についた。灰色の毛のエンバー、白い毛のホワリィだ。
ぼくたちに似ていることが、ちょっとくすぐったい気持ちになる。
ブランは舌をたらしてこどもたちを見守った。
じゃれて遊ぶその様子は、なんとも微笑ましい。
ばしゃんと音をたてて、エンバーが浅瀬のほうで遊びはじめた。
「急に深くなる場所があるから、はやくもどっておいで」
強い口調でエンバーに注意を呼びかけた。
ホワリィは怖がってシルヴァーの足元につきまとっていた。
「いい子よ、ホワリィ」
そう言いながらも、シルヴァーの視線はエンバーになげかけている。
「近くまでサポートに行くよ」
なかなかこちらまで戻ってこないエンバーに、ブランは嫌な予感がした。
「あなたも、気をつけて」
ブランはまばたきをシルヴァーに送ると、浅瀬へ急いだ。
木漏れ日が背中にあたった。あたたかい熱と、冷たい水が身体をなでて、変な感触だ。
エンバーは深いところまで泳いでしまった。エンバーの慌てた声だ。
湖を泳いだ経験があったおかげか、ブランは悠々と泳いだ。
エンバーを必死に支えながら、水際までもどった。
エンバーはじれったい顔をした。地面に足がつくと、身体をふるわせて水をとばした。
「水は穏やかにみえてとても恐ろしいものなんだよ。だから、浅瀬で遊ぶときは、気をつけないと」
注意されたエンバーは不満げにふてくされていた。少しにごった琥珀色の目に、影が落ちている。
「冒険したかっただけだ。だって、ここにはちっぽけな生き物しかいないじゃないか」
挑戦的な態度に、ブランは驚かされた。小さなころのロウラに少し似ている気がする。
そのことに気がついたブランは、少し胃がキリキリした。
ホワティは何に対しても臆病で、そんなところがぼくに似ている。
「だからって、わざわざ自分よりも大きなものを相手に挑む理由もない」
エンバーが身をかがめて腰をふり、わざとらしくブランの胸筋に頭突きをくらわした。
ブランは厳しい目つきであえて反応はしなかった。ただの遊びなら、じゃれ返したかもしれない。
動じないブランにエンバーはそっぽを向いた。
「もう、あまりお父さんを困らせないの」
シルヴァーの言葉に、エンバーが少し反省の色をみせた。
「お兄ちゃん、川が怖くないの?」
「こんなの、へっちゃらだ。湖だって、泳げるぞ」
ブランはエンバーに呆れてものが言えなかった。
遠くの未来を見透かせないか、ブランは夜空をながめた。
こうしてひとりきりになれたのは、久しぶりのことだ。この前みたいに、ウィンターリーフがとやかく文句を言ってくることもなかった。
流れ星が山のふもとに落ちた。銀色の一筋に、はじめて出会ったシルヴァーとの思い出がよみがえった。
足元の葉がかすかにふるえている。風も吹いていないのに。
不審に思いながら注意深くながめた。
こうして小さな命に目を向ける癖は、なかなかぬけない。
葉の裏から身体の先っぽがみえたブランは、ぎょっと後ろにとびのいた。
プラズマ虫だ。サマーリーフの身体を蝕んだ虫だ。
ネコ科動物の糞にまぎれていることが多いのに。
ブランは苦労しながら急いで大きめの石をもってきた。
小さな身体がはじける音がした。黄色い半透明色の生き物は、そのまま液体状になった。
その光景に、ブランの毛は逆立った。
近くにネコ科動物の糞があるはずだ。
ロウラたちのなわばりの境界線に気をつけながら、ブランは糞を探した。
鋭い嗅覚で場所を探った。砂を思い切り後ろ足で何度も蹴りつけた。
プラズマ虫は生き埋め状態になっているはずだ。十分な厚みをもたせたところで、
ブランは足をとめた。
シルヴァーの誰かを探す遠吠えが長くひびいた。
ぞわぞわするような光景を見たあとで、すぐに頭がまわらなかった。
エンバーとホワティがいなくなったことを理解した。
ブランはシルヴァーに返事をかえした。ぼくとはすれ違ってはいない、と。
シルヴァーとロストアイ、サマーリーフがすぐにかけつけた。
スプリングリーフとウィンターリーフには、なわばりの拠点を守ってもらうことにした。
「あの子たち、おりこうさんだったのに、どこに行ったんだろう?」
サマーリーフが不安げな声で言ったあと、ブランに視線を送った。
検討もつかなかった。この遠吠えを聞いているのなら、こどもたちから返事がかえってくるはずだ。
「またこどもたちを失いたくはないわ」
シルヴァーの声はかすれている。ひとみが潤んでいた。
その目を見たブランは、気持ちをひきしめた。
「この辺にプラズマ虫もいた。糞に砂をかけたばかりだから大丈夫だとは思うけれど、一応注意するように」
サマーリーフがブランの言葉をきいて、一度だけぶるっと身体をふるわせた。
ブランたちは必至になってこどもたちを探した。
大きな葉っぱの茂みをのぞき、灌木の多い場所まで偵察した。
四方八方探してみたが、見当たらない。
シルヴァーは焦りを感じている。
「言いたくないのだけれど、仔クマのかぎ爪の跡が残っていたの」
今にも泣き出しそうな声だ。
ブランはシルヴァーに身体をふれた。
「ロウラの群れにも協力してもらおうか」
「まさか!」
サマーリーフが嫌悪感を露わにして目を見張った。
ブランはサマーリーフの反応に、肩をすくめた。
もちろん、ロウラ経由で直接応援を頼むのは最終手段にすぎない。
ふと、ロウラの荒々しい遠吠えがきこえてきた。
ブランたちは動きをとめ、じっと内容を聞き分けた。
「___向こうの群れのこどもたちも、迷子になっているみたいだ」
たくさんの声色を変えたなかに、マロンの失望感のある声がまじっている。
ブランは今夜限り結託しようと誘いにでた。今はこどもたちのことで必死だった。
いつもならロウラを毛嫌いするシルヴァーも、賛同した。
「マロンが可哀そうだわ。きっと、わたしと同じで酷くとりみだしているはずよ」
敵対心をむき出しにしていたシルヴァーのことを思えば、なんと心強い発言だろう。
ブランは力強くシルヴァーにうなずいてみせた。
「ロウラも今夜限りは協力してくれるそうだよ。湖の島を一団となって探そう」
ブランはそう言いながら、思い当たることがあった。こどもたちはまだ身体つきも幼く、体力も少ない。そう遠くへはいけないはずだ。
『どうしたんだい? 湖なんて見つめて』
青い水面を見つめるこどもを、ブランは不思議そうにながめた。
『湖って、どういったものなんだろうって、思っただけ』
『大きくなったら、見に行けるよ。自分で泳ぐこともできるし、湖の氷の上を歩くこともできる』
ぼくらより大きな、オジロジカやムースを見ることだってできる。
ブランはその思いは口にしなかった。本当に湖を越えたときの、お楽しみだ。
『今じゃダメなの?』
『もちろん。身体がまだ小さいから。湖は渡ったらいけない。これは父さんとの約束だ』
「湖にいるかもしれない……」
「えっ?」
ブランのか細い発言に、誰もがふりかえった。
「急ごう。遠吠えに対して返事がなかったから、溺れているのかも」
最悪の事態を想像した。自分で発言したことに、怖くなって身をふるわせた。
「ウィンターリーフ、きみはロウラの群れに湖にいるかもしれないことを、報告してほしい」
「僕が?」
ウィンターリーフがうさんくさそうな表情をしたが、すぐに遠吠えを行った。
「湖へ急いで!」
シルヴァーが子熊のかぎ爪の跡を見つけた場所を通り抜けようとした。
視界のはしで、子熊の鋭い眼光を目にしたブランは、寒気がした。
「子熊だ! 気をつけて!」
「ブラン、あなただけでもこどもたちを探してあげて!」
シルヴァーの切羽詰まった声に、ブランは力任せにとびだした。
湖の水面が目にとびこんだ。がむしゃらに駆け抜けた先に、ホワティの小さな姿が目に映った。
ホワティの周りに、ロウラのこどもたちもいる。興奮した甲高い鳴き声をあげていた。
荒れ模様の空を背景に、ホワティが茫然とたたずんでいる。
「エンバー! ホワティ!」
ブランは勢いよく叫んだ。ホワティの近くで足をとめ、息をととのえた。
「お兄ちゃんが湖を泳ごうとしているの」
「いいだろう?」
エンバーが反抗的に睨んだ。
「大馬鹿者!」
ブランはこれまでにない怒りをエンバーにぶつけた。怒りで自然とわなないた。
「ぼくたち__ロウラも__散々おまえたちを探したんだぞ!」
らしくない、いつもより荒い口調で、こどもたちをしかりつけた。
「ぼくらのこどもがひとり息絶えたことを覚えていないのかい? きみは、あの恐怖を自ら味わおうとしていたんだぞ!」
ブランの言葉に、エンバーが驚いた声をだした。
「おれたちに、兄弟がいたのか?」
ブランの様子に、ホワティが怖気づいた。
「ごめんなさい。勝手になわばりからでてしまって。ごめんなさい」
ホワティは罪悪感で押しつぶされている顔になり、泣き出してしまった。
ブランはなぐさめもしなかった。それにはおかまいなしに、エンバーの反応をみた。
「悪かった、ホワティ。おまえが泣く必要なんてないんだ」
エンバーが息をはいた。
「悪いのは、ぜんぶおれだ」
「おい! 俺の息子たちは!?」
ロウラの声に、誰もが後ろをふりかえった。ロウラの後にマロンや群れの仲間たちもつづいた。
相変わらず身体はやせ細っていて、走ってきたせいもあるが、毛並みは乱れている。
ロウラの荒い呼吸に、ブランは目を見張った。ロウラも、こどもたちに対して必死だ。
「借りができてしまった」
ロウラは少し苛立ったようすだったが、ブランの方をまっすぐと見つめた。
「何故こいつらがお前らの群れのガキと遊んでいるのかはしらない。だが、とにかく助かった……」
ここまで焦心しているロウラを見たのははじめてだ。
ブランはそんな彼を見て、冷静さをとりもどした。
「よかったよ。お互い怪我がなくて」
ブランはそう言ったあと、ちらりとマロンを盗み見た。
マロンの顔はやつれていた。それでも、安堵の表情をうかべている。こどもたちのにおいを懸命に嗅いだあと、毛並みを整えてやっていた。
「助けて! 母熊がでてきたの!」
スプリングリーフの金切り声に、ブランの身体はかたまった。
「クマだと?」ロウラが青ざめている。
こどもを守ろうとしている親ほど恐ろしいものはない。
自分がその立場になった今回で、身をもって経験した。
ブランは息をつめた。
「マロン、こどもたちを集めて避難させてほしい」
マロンがそそくさとブランの命令に反応した。
オータムリーフの近くで、ロウラが悔やしそうに歯ぎしりしているのには目も触れなかった。
ブランは緊張感が高まり、筋肉に力をこめた。
母熊の雄たけびが聞こえてくる。頭が割れてしまいそうな声だ。
「母熊を湖に誘導させ、不利な状況をつくろう」
ブランは息を巻いた。
目の前のことに夢中になっていたブランは、ネコ科の糞を踏んづけたことに気がつかなかった。
母熊の怒り狂った声が聞こえる。もし母熊が死んだら、仔熊はこれからどうやって生きていくんだ? わからない。
こどもたちの命がかかっている。今回は容赦しない。例えアリの列を踏みつぶさないマイルールがあっても。
近くにいたロウラに視線で合図を送った。母熊は闇雲に大きな前足を動かしている。
背中には仔熊がいて、ふたりそろって威嚇していた。
ブランは親子を引きはがそうとこころみた。母熊が仔熊を守る姿勢でいる。
地面に強く足をつけ、四つん這いになってブランをにらみつけた。
父親のストームがいとも簡単に殺された光景がよみがえった。
焦りを感じたブランは、母熊の攻撃をかわし、後ろにとびのいた。
ロウラがぐるぐると悔しそうにうなりながらも、仔熊を引きはがした。
「いいぞ! ウィンターリーフ! オータムリーフ! 母熊を湖へ誘導してくれ!」
狂乱の最中、ロウラの鋭い視線を背中で感じた。
激しく動いたせいで、踏みつけたネコ科の糞が、あたりにとびちる。
小石で肉球を裂いてしまった。目の前にいる母熊のことに必死で、痛みを感じない。
ルックとサーブルが両脇で助けてくれる感覚があった。
ウィンターリーフとオータムリーフの相性が悪いと理解しながらも、
目にとびこんだオオカミに指示をだした自分自身を信じた。
「クソッ! 足をひっぱるな!」
オータムリーフの苛立った声が後ろで聞こえた。耳障りな声に気をとられた。
ブランは母熊の攻撃を、間一髪のところで交わした。
動きが乱れたが、すぐに体制を立て直した。ブランは自分も湖へ入る勢いで突っ走った。
いつの間にか夜が明けた。太陽の強い光が湖の水面で反射した。
ブランは目がくらんだ。どうにか母熊の脇にそれた。母熊は湖へ勢い余ってとびこんだ。
重たい身体が沈まないように、激しく動かしている。
ブランはいつの間にかロウラのとなりで突っ立っていた。
肩で息を切らし、行方を見守った。この母熊は泳げない個体のようだ。
頭からぶくぶくと沈み、ゆっくりと時間が経ったころ、湖で母熊は息絶えた。
ロウラが勝利の雄たけびをあげた。はちきれんばかりのうれしさがにじみ出ているのがわかる。
ブランはその雄たけびには参加しなかった。
母熊の行方をもう少し見届けたあと、湖に背を向けてこどもたちのもとへ急いだ。
いつの間にか、シルヴァーがマロンと一緒に怯えるこどもたちをあやしていた。
「凄いわ。とっても勇敢なのね」
マロンの目が喜々として輝いている。ブランはそんな表情を見て、自然と笑みがこぼれた。
「みんな無事で良かった」
「ごめんなさい」
エンバーがロウラたちのこどもたちをちらりと見たあと、謝罪した。
「おれが一番強いって思ってたから。危険なものはここには何もないって」
「大きなものに立ち向かう勇気は認めよう。けれど、立ち向かえる相手か常に見極めることが、野生のオオカミでは大切なんだ」
「ねえ、またきみたちと遊んでもいい?」
ロウラのこどもたちが、可愛げにエンバーに尋ねた。
「とんでもない!」
父親のロウラが、威張った足取りでこちらまでやってきた。ブランを乱暴に押しのけ、
こどもたちを威圧的に見下ろしている。
「こいつらはどこまでいっても敵だ」
鼻先に数えきれないほどの皺をよせ、ブランをにらんだ。
ブランはひるむことなく対抗してにらみかえした。
今のぼくに、怖いものなどひとつもない。
マロンがロウラの態度に怯えた表情をしているのが、視界のはしでみえた。
「帰るぞ」
ロウラは仲間をふりかえらずに、もったいぶった足取りで自分たちの拠点にもどった。
「後日、お礼をさせて」
マロンがそう静かに言ったあと、ロウラを追いかけるように駆けて行った。
「ブラン、肉球に黄色い液体がついているわ」
シルヴァーに指摘され、ブランは前足の裏を見るために、身をかがめた。
「ほんとうだ」
ロストアイが機敏に診察をしたあと、顔をしかめた。
「やっかいだな。プラズマ虫が身体に入りこんでいる」
「平気なの……?」
ブランはシルヴァーを安心させるために、彼女の頬をなめた。
少しいつもと身体の調子が違う気がした。心がざわつく。
「平気だ」
ブランは嘘をついた。未来が怖かった。それでもその気持ちを心から追いやった。
もしプラズマ虫におかされても、サマーリーフは元に戻ったじゃないか。
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