第4話
空気の微妙な変化に、ブランは心が軽くなった。少し寒さが和らいだ。雪のなかで耐えているつぼみのにおいがする。春の萌しに、太陽がむき出しの肌にふれてここちよい。
ロストアイに再会する心の準備ができるまで待った。洞穴で生活をし、獲物を狩った。
まだ近くにある川の水面をみる勇気がでない。いつものように雪で喉のかわきをしのごうとしたが、ひどい土の味がした。
ブランは自分をふるい立たせた。脳うりにロウラのあざける声がきこえた。
しおれた尻尾を無理やりあげながら、川に近づいた。あと一歩で顔がみえる。恐怖がこみあげた。
川を目の前にして、ブランの気分はふさいだ。距離をおき、とけはじめた雪の地面で鼻先を前足のあいだにつっこんだ。
赤みのある肌が毛にふれる。感触が慣れない。ブランは気落ちした。
地面にふせた。遺骨がうまった場所で、父の怒りの念のような靄を思い出した。
クマに苦しんだ晩は、父と同じ感情をいだいた。首の骨が折れたほうが、まだよかったのかもしれない。浅はかな考えをして、ブランは悔やんだ。ロウラのあざけ笑う声が幻聴した気がした。ハエを追いはらうかのように耳をひっきりなしに動かした。
毎晩のように、ブランを探すロストアイの遠吠えがきこえる。勇気づけるような声がする。ブランはようやく重い腰をあげた。喉のかわきも限界だった。だんだん雪がとけて、土の味が濃くなるいっぽうだ。
ブランはもう一度勇気をふるった。川へむかって戸惑いもふりきって、前かがみになった。
川の小さな波のせいで、顔がゆがんでみえる。生まれつきのロストアイは、これほどひどくはない。ブランは目をつぶりながら水を飲んだ。雪と土のまざった味よりおいしく、新鮮に感じた。
まだ自信がもてなかった。すぐにはなれた。川にいって水を飲むことが億劫になった。心労したまま洞穴で息をついた。
淡い朝日の光で目覚めた。最初に鼻にとびこんだにおいは、古びたウサギだ。不審な思いで顔をだす。足元にウサギの死肉がころがっていた。
ブランは用心深くにおいをかいだ。川の水をまとった雌オオカミの古いにおいがする。
薄茶色のオオカミのにおいではない。自分の心を守ろうと、首の毛が逆立った。
食べないままでいるのは良心がとがめた。ブランはにおいを気にしないようにひとくちで飲みこんだ。
狩りをする気力はなかった。春の萌しの陽気にさそわれ、身体を動かし、筋肉をほぐした。
空気をやさしくなでるかのように、風がゆらいだ。近くにオオカミがいる。ブランの顔は恐怖で引きつった。
腰を低くしながら風上に気をつけた。相手は、誰かを探しているかのような足取りだ。
ブランはもうだまされなかった。相手はぼくをもとめてはいない。
銀色に帯びた筋が近くをとおった。ブランは大きな葉っぱの茂みに隠れながら歩いていたが、動きをとめた。
ごわごわと、茂みのすきまから目をのぞかせる。華麗に銀灰色のオオカミが、馬をしとめた。
鼻の孔にはいってくる新鮮なにおいに舌なめずりをした。薄茶色のオオカミのように、奪えるだろうか。ブランは自己嫌悪で身体が震えた。意地の悪いオオカミにはなりたくはない。
見苦しい顔をさらすのが怖かったが、食欲には負けた。
銀灰色のオオカミの追跡をする。馬の美味しそうなにおいがする。それだけで、力がみなぎった。
不思議なことに、相手は肉のかけらをブランの洞穴の近くへおいて、そそくさと立ち去った。
わけのわからないまま、銀灰色のオオカミが消え去った方向をながめた。
ブランは半信半疑の気持ちのまま、仔馬の新鮮な肉を味わった。腹が満たされて、身体があたたまった。
今度は喉の渇きをおぼえた。雪は完全にとけて、土がみえている。土をなめる気にはならない。
ブランは慎重に川へ近づいた。腰が引けるほど気落ちした。気をもんで足踏みをしてみせた。
川の先の景色をながめながら、思い切って鼻面を川につっこんだ。見苦しい顔はみえず、ほっとした。
水のしたたる顎をあげた。銀灰色のオオカミが目にとまった。若い馬を探しているのか、馬の群れに狙いをさだめている。
太陽の光に反射した美しい両目をみた。声をかけようかずいぶん悩んだ。口を少しあけた。声がだせない。息苦しさをおぼえた。ブランは、その場をそっと立ち去った。
水色から黄色にかけたグラデーションの瞳が頭からはなれない。ブランはしつこいハエを前足で追い払った。感じる瞳も簡単に追い払えれば、苦労はしない。
獲物を持ち運んでくる相手に出くわさないように、日中は外にでた。夜になって洞穴にもどると、何かしらの死肉のかけらが置かれている。
顔合わせもできない状況に、後ろめたさを感じる。
春がやってきたのに、夜の空気は冷えた。日中は獲物の肉がなかったことに、疑問を感じながら、洞穴で身体を丸めた。
しばらくすると、地面を蹴る足音が近づいた。ブランは不安にあおられて毛が逆立った。
銀灰色のオオカミのにおいが鼻にとびこんだ。その瞬間、彼女が洞穴の近くに立っていた。
「あなたの様子が気になったの。においでいえば健康になってきたわ。けれど、まだ本調子じゃない気がして……」
ブランは恐怖で震えた。みにくい顔を暗がりに隠した。緊張でつばを飲みこんだ。
「こんないやしいぼくに獲物をはこんでくれて、親切にどうもありがとう。けれど、ぼくの顔をみることはやめたほうがいい」
つっかえながら声にだした。
ふたりぶんの洞穴に、相手が肉のかけらをもって入ってきた。ブランは頭が真っ白になりかけた。
「朝になったらちゃんと出ていくわ」
柔らかい口調に、ブランの緊張はいくらかほぐれた。
「わたしは、あなたの遠吠えが気になっていたの。怪我をしているんじゃないかって。あなたのことを、ずいぶんと探したわ」
距離が近いことに、どぎまぎした。気持ちをまぎらわすために、何度も尻尾を地面で軽くたたいた。
「はやく、お肉を食べて」
優しい声でうながされた。食欲に負けたブランは、新鮮な肉をほおばった。
暗がりで綺麗な瞳がひかった。ブランは居心地が悪くなり、目をそらした。
「どうしてお顔をこちらにむけてくれないの?」
とがめていないことは声の調子でわかったが、怖くて顔を相手のほうにむけられない。
「こわいんだ……」
ブランは力なく言った。
「わたしはあなたの味方よ」
ブランは銀灰色のオオカミを疑った。絆を深め合ったが、いとも簡単に縁がきれた薄茶色のオオカミを思い出す。
「悪いけれど、今日は出て行ってくれないかい?」
試すように質問した。ちくりと心が痛んだ。
静かに相手はまばたきをすると、ブランを尊重するかのように、洞穴からでていった。
気温が下がった。肌の刺すような空気が痛い。顔をこばわらせた。むき出しの肌が冷たい空気で、皮膚を動かしたときに、固まっているような肌の音がする。
ブランはうつむいた。洞穴に彼女がはいってきたとき、まともに顔を見られたような気がする。洞穴からは出て行ってはくれたが。気分が悪い。
ブランは腹を空かしていた。頑固にも雌オオカミからの死肉は口にしなかった。ぼんやりと、母がウサギを食べなかったことを思い出す。今なら、少しだけ気持ちが理解できる。昔捨てたオオカミのプライドは、また戻ってきた。そのプライドをもっていいのは、仲間がいるときだけだと、理解しながらも。
洞穴でうずくまり、顔を暗がりのほうにそむけた。ひとりで大きな洞穴を使っている。冷たい空気が入りこみやすい。むき出した肌が空気にふれる感触が気持ち悪い。いつもは白い毛におおわれているのに……。
雌オオカミが様子を見に来た。ブランはできるだけ顔を暗がりに隠した。
この雌オオカミは賢い。そして美しい。欠点がまるで無い。どの角度からみても、ぼくの負けだ。敵対した、赤毛で顔が縁どられたキツネを思い出す。
綺麗な目を星のように、ふたりは輝かしていた。
真冬の思い出を今と重ね合わせた。沸々と腹の底から嫉妬して、苦しくなった。
ブランは顔をそむけながら、静かに威嚇した。
嫌われたい一心だ。においを嗅いだだけで、怒りが湧く。その怒りが自分なのか、彼女なのかはわからない。
雌オオカミが威嚇に反応して、身を低くしたままその場を去った。
整った顔をしている。穏やかで、賢い目をしている。透き通ったような瞳をしている。自分の求めている顔を、彼女は既にもっている。銀色の美しい毛並みをしている。僕の毛並みは、純白ではない。故郷から出て、毛ももつれてしまった。
色んな角度から、考えを変える。彼女に欠点が見つかってほしかった。誰でも欠点があると思いたかった。
ロストアイやロウラの欠点はあからさまだ。探す間でもない。
共に過ごしたロストアイまで巻き添えをしたが、ブランはそのことに気がつかない。
暗い洞穴の壁に顔をよせる。お腹の虫が暴れていることにすら気がつかないくらいに枯渇していた。いつもより洞穴の壁が冷たく感じる。この洞穴は外の冬の寒さに似ていた。
意気地なしの目を細める。眉間に皺が寄るくらいに。顔がさらに醜くなった。
それでも川の水面が近くにないので、気がつかない。
外の世界は吹雪だした。自分の身を守るように身体を丸めると、浅い夢の世界にさそわれた。
気温があがった。吹雪も止んだおかげで、綺麗に花が咲いた。あれから死肉のかけらは置かれていない。
気温のおだやかさに誘われて、ようやく外に身体を押し出した。
小さな虫に視線をうばわれた。透けた羽音を立てて、自由に飛んでいる。
それがまぶしくて、思わず目が細くなる。
顔が自然とあがって、それと同時に気持ちも高まった。
久しぶりにあたたかい空気を肺にとりこんだ。
汚くなった心が、少し薄くなった気がした。
死肉をよくこの洞穴に置いて行った雌オオカミのにおいが微かにした。
彼女は縁の切れたあの雌オオカミよりは信用できる。
ブランは苦々しく思った。そして、彼女より賢くて美しい。欠点の無さに、あらためて失望した。
このコバエのように、ぼくは生きて行くしかないのかもしれない。
ロストアイの遠吠えがきこえる。久しぶりにこの場所で遠吠えが行われた。
ただ応援しているものとは違った。傷ついた声も混じっている。彼の弱さに、ブランは共感できた。
闇雲のなかにいたときのように思えた昔の感情を謝りたい一心で、長めの遠吠えを返した。
ロストアイはコバエじゃない。弱ささえも、強みに変えている。
小さな羽でもいいのかもしれない。羽さえちゃんとついているのなら、飛べることはできる。
新しい気付きにブランは目を空にむけて、まばたきをした。
ロストアイの遠吠えをきいていると、良心がとがめた。ずっと、待ってくれている。
ブランは洞穴で息をはいた。出入口の近くに咲いた花の茎で、小さな虫が懸命によじ登っている。あゆみは遅いが、一歩が確実だった。
その光景をみたブランは、気持ちを引きしめた。喉の渇きを癒そうと、川のほうへかけた。
川を越えたさきに、銀灰色のオオカミが物思いにふけっていた。わき腹は草が生い茂る地面にふれている。穏和でふくよかな雌オオカミに、好意をよせはじめた。
ブランは思いきってみにくい顔を水面で確認した。五体満足とはいえない。小さな虫の歩く速度がどれだけ遅くても、馬鹿にすることはない。だから、ぼくも自傷することをしない。
ブランは銀灰色のオオカミにむかって、挨拶をするように吠えた。
彼女は遠くを見つめていたが、ふりかえった。優しいまなざしをこちらにむけた。
ブランは川をとびこえて、銀灰色のオオカミの顔をなめた。
彼女は否定することもなく、ブランの耳をなめた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
名も知らない相手だった。
「わたしの名前はシルヴァーよ」
シルヴァーがグラデーションのかかった瞳を日の光で反射させた。
ブランは美しい蝶々の羽のようなシルヴァーの目をみつめた。
「ぼくはブラン」
ブランはシルヴァーに身体をこすりつけて、好意的な印象をもったことを相手に伝えた。お返しに、シルヴァーが喉をならした。
「あなたに会うことを、ずっと待っていたの」
「心の準備ができなかった」ブランは息をはいた。
「ぼくはクマにおそわれて、この顔でたくさん苦労してきた」
苦いものがこみあげてきた。
「別の雌のオオカミに、ひどい仕打ちをされたんだ。だから、今回も信じられない気持ちでいたんだ」
ぽつぽつと喋っていると、心なしか気持ちが軽くなりはじめた。
「わたしのことは信じて」
シルヴァーの声をききながら、ブランは疑問に思ったことを口にした。
「どうして見ず知らずのぼくを親切にしてくれるんだい? どうして、ぼくの顔を怖がらないんだい?」
「わたしの群れが人間に追われて苦労したの。だから今、困難にあっているオオカミをお手伝いしたいって思った」シルヴァーはつづけた。「私の友達に後ろ足の不自由な子がいたの。栄養不良で亡くなってしまったわ」
シルヴァーは昔を思い出して表情をくもらせた。まだ口では告げていないが、シルヴァーも何か苦労があるのかもしれない。
「厳しい世界だよ。何かしら不自由しているぼくは、とても生きづらさを感じる」
「わたしもよ」
シルヴァーのまぶしい表情に、ブランは目をほそめた。
「ここで、もう一匹のオオカミの遠吠えをきいたことがあるの。誰かを励ましているような……」
「それはロストアイだよ。彼とは自然と少し距離をはなしていた。ぼくは醜い顔を思い出してしまうロストアイに、否定的だったんだ。でも、今なら彼と会う心の準備ができている」
ブランは見ず知らずの相手に獲物を運んでくれたことを、あらためて感謝をした。
シルヴァーは誇らしげに、照れたように微笑んだ。川の水面にうつる光のようだ。
「まずは狩りをしましょう。そうすれば、今すぐにでもロストアイに元気だってこと、伝えられるわ」
ブランは賛成のしるしに尻尾を元気よくふった。
シルヴァーの遠吠えはまるで父が生きていたころ、群れで行ったものと波長が似ている。
気持ちよくリズムにのることができた。ロストアイの遠吠えもきこえ、コンディションもととのった。
ブランとシルヴァーは見極め、若い馬を狙いにさだめた。
自分が優勢だと主張することもなく、お互いを思いやって狩りをおこなった。
合図を送ることもなく、太陽がまぶしい方向へと、馬を追いやった。
自然なながれで、シルヴァーが馬にとどめをさした。
「この方法を、シルヴァーは知っているんだね。ぼくの父が提案した戦術なんだ」
「わたしがひとりで生きる術を学ぶために編み出したの。けれど、すごいわ。何匹か仲間になろうとしてくれたオオカミがいたけれど、波長の合うひとは、あなたがはじめてよ」
シルヴァーがうれしそうに喉を鳴らすのをみて、ブランの顔に笑みがほころんだ。
平等に馬の肉をわけあって食べた。心身ともに満たされた。
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