第3話

 ブランの姿を馬鹿にした遠吠えがきこえた。激しい憤りを感じる。

日頃から非業な行いをロストアイにしても、父は遠吠えの時間だけは大切にしていた。

ブランは悔しさをこめてロウラに対抗した。父のしゃれた遠吠えのような、美しい音色を秋の空にむけた。それにくわわるかのように、どこか遠くにいるロストアイの遠吠えも耳にした。

ブランは穏健なロストアイの遠吠えを耳にして希望が芽生えた。お返しに感謝をこめて空にむかって吠えた。まだロウラたちの声はきこえていたが、ブランは遠吠えをとめた。父が歌うような美しいロストアイの音色がとまった。しかし、ブランの心にずっとひびいていた。

 夜中うごいて、森をはなれたおかげで足腰が痛みはじめた。飢えたオオカミのにおいがたまにすると、隠れるようにして歩いた。


 夜になると、たびたびブランとロストアイの遠吠えが、綺麗なハーモニーとなった。ロウラの卑劣な音色もきこえた。日に日にブランとロストアイの遠吠えの距離がちぢまった。そして、ロウラの遠吠えはだんだんきこえなくなった。

 毎晩のロストアイの遠吠えを頼りにして草原を歩いた。

いつの日か見たような湖をふたたび目にした。水面をかすめてはこばれてくるロストアイのにおいがした。

ブランはロストアイに追いつこうと、大きな湖を泳いだ。白い毛が水草とからまり、身体が重たくなる。それでも泳いだ。鼻面に水をかぶってせきこんだ。

 一心になって足を動かしつづけると、小さな島についた。疲れきった身体を落ち着かせようと、したたる水をとばした。

筋肉が痛い。空腹で胃の痛みもある。ブランはとっくの昔にオオカミのプライドは捨てていた。

 石がころがる地面で、おうとつのある場所から小さな赤いカニの鋭い指さきがみえた。

口をあけてカニを飲みこんだ。甲殻類の鋭い針がのどを切ろうとしてきたので、はきだした。お世辞にも美味しいとはいえない。食べることに苦労したブランは、カニだけは食べないようにした。

 腹を満たそうと、湖にひろがっている島の川をみつけた。秋の季節のおかげで、銀色の魚がたくさん光っている。魚が水面から身体をだしたとき、ブランはそれを牙でひっかけようとしたが、失敗した。何度ためしても、成功しなかった。

また甘い草の味のするオジロジカの肉が恋しくなった。

 数日かけてウサギをどうにか捕まえた。体力を増やしているあいだにも、ロストアイとの遠吠えはかわされた。じゃまする者はいない。

天候や穏やかな波にも恵まれたため、はやく湖を泳ぎきることができた。ブランはロストアイの後を追った。


 ロストアイのにおいが濃くただよっている。秋の夜空にむかって遠吠えをおこなうと、霧のせいで少しこもった遠吠えがかえってきた。

ブランの心ははずんだ。霧のなかから、ぼやっとした影がみえた。ロストアイが姿をあらわした。

クモの巣がとれたブランの顔をみて、ロストアイが目を見張った。

ブランは威厳をみせようとした。尻尾をあげかけたが思いなおし、すぐに垂らした。

「生きのびてくれてよかった。数日まえの遠吠えをきいて、父を思い出した」

「あのときはさげすむロウラの遠吠えに対抗していたんだ」

ブランは身体を震わした。ロストアイが少し怒ったように鳴き、毛にかかった水しぶきを振り落した。

「ロウラは今、どうしている?」

ブランは想像もしたくない思いで、首を横に力なくふった。

「兄はまだあの森で居座っていると思う」

ロストアイが安堵の息をつく。身体はブルームと比較していたときより痩せてしまっているが、大きな病気や怪我はみあたらない。

 ふたりはあらためて湖の近くの土地を見まわした。連なった大きな山がみえる。近くには渓谷もあるのか、風の吹く音が少し違う。

太陽の光で露がきらめいた。甘そうな草を、オジロジカがのんびりとはんでいる。

 ブランとロストアイは狩りの合図をするかのように視線をかわし、もう一度遠吠えをした。

幸運にも、一頭のオジロジカは群れから離れている。

感づかれないようにブランは無言の合図をだして、オジロジカを走らせようとした。

オジロジカは太陽が反射する場所に自然と追いこまれてしまった。オジロジカの目がくらんだ。ブランはとどめを刺した。いつもより狩りがしやすかった。オジロジカは悶えていたが、すぐに息をひきとった。

 久しぶりのごちそうに、よだれが垂れた。ブランはロストアイに譲るかのように後ろに下がったが、ロストアイは前へ出るようにうながした。

「一緒に食べよう。クマに警戒しながら」

待ちわびていたブランは、とびつくように肉を裂いて、音をたてながら食べた。

空腹がおさまるまでひたすら肉を飲みこんだ。噛みつくような胃の痛みがようやくおさまった。ふたりは地面に腹をひっつけた。余韻にひたるために、骨の髄の断面をしゃぶった。

カラスがおこぼれをもらおうと頭上を飛んでいたが、気にしなかった。

「こんなに満たされたのははじめてだ」

ロストアイの片目がかがやいていた。故郷にいたときでは、絶対に見せなかった表情だ。

 ブランとロストアイは再会を喜んで、互いに短く鳴き合ってじゃれた。

数羽のカラスが地面に降りてきた。それでも気にしない。

地面を転がりあって視線をかわした後、笑いあった。

 カラスが跳ねるように近づいた。ロストアイの毛に狙いをさだめている。

ブランが攻撃しようとすると、カラスは低い位置で飛び、少し後退りした。

少年のような心を取り戻した気がしたブランは、カラスを必要以上に追いかけた。

カラスはまいったような鳴き声をあげて、飛んでいった。

ブランは頭を大きくあげて、何度もカラスがきえさった秋空にむかって吠えたてた。

ロストアイが満腹になって眠気がきたのか、草のおおわれた地面に身体を落ち着かせようとした。

「ぼくが見張っておく。少し眠るといいよ」

ロストアイがその言葉に安心したのか、寝息をたてはじめた。


 寒空の冷えた空気になった。遠吠えをするたびに、連なった大きな山肌にこだまする。

父の遠吠えを受け継ぐかのように、ずっとひびかせた。澄んだ空気のなかを、ブランたちの声がまざった。

 数日後、誰かの遠吠えがきこえてきた。ブランは希望をふくらませた。

意味をもつかのような遠吠えだった。その声は、誰かを必死に探している。

何日にもわたって遠くにいるオオカミの想いをきこうとした。

「あのオオカミは、新しい群れをさがしている」

ブランは数日かかって、ようやく断言した。

ブランはロストアイをリードするかのように、もう一度、満月の空にむかって遠吠えをした。

久しぶりに尻尾を垂直にした。遠くにいるオオカミには見えない。ロストアイは何も期待していない様子で、尻尾の先を草の先たんにかすめただけだった。


 毎晩のように遠くにはなれているオオカミにむかって遠吠えをおこなった。秋のあいだ拠点にしていた場所から移動しはじめた。

ブランは間に合わせの寝床のそばで歓迎の意味をこめた遠吠えをした。ロストアイは静かにそれを見守っている。ブランの未来を危惧するかのように、視線を投げかけていた。

 新しいオオカミのにおいに、不思議と遠吠えをかわし合った相手だということに気がついた。彼女は少し緊張しているのか、新しいにおいはあるのに姿はみせない。

 一匹狼でいるということは、お腹を空かしているに違いなかった。

見晴らしのいい岩にとびのった。若い馬が群れにまぎれていないかを確認した。

ロストアイは地べたで休んで小枝で遊んでいる。

ずっと遠吠えをしていたときから、ブランの白い尻尾は垂直にたっていた。ロストアイとの会話が減っていることにも、気がつかなかった。

馬の蹄の足音のなかから、飢えたようなオオカミの足取りがきこえた。

ブランはうれしくなって尻尾をふりながら吠え、岩を降りた。

 馬の群れが薄茶色のオオカミに気がついて、逃げまどっている。

若い馬が逃げ遅れた。薄茶色のオオカミが様子をうかがっている。群れのリーダーかのように、頭をあげて鋭い目でブランを見極めている。

 視線を感じたブランは、若い馬の喉元をかぎ爪で喰いこませた。興奮するような新鮮な血の味が口にはいりこんだ。

薄茶色のオオカミが興味をしめすかのように鳴いた。ブランはそれに反応して、若い馬から顔をあげた。

 視線があったとき、薄茶色のオオカミは鋭く威嚇をしはじめた。自分を大きくみせようと、ロウラを思わせる形相になった。

ブランは尻尾が垂れないようにふんばった。彼女はそれに対抗するかのように、ブランにおそいかかった。

不意をつかれたブランは横殴りに地面にとばされた。すきを見た相手が、腹に爪をたてた。

ブランはロストアイの姿を探した。しかし、彼の姿は見当たらない。

どうにかふりほどいて馬の群れに隠れようと逃げた。馬も狙われていると思ったのか、逃げようとした。

 薄茶色のオオカミは不機嫌そうにうなると、若い馬の死肉を強い顎でひっぱった。

ブランは身をかがめて後ろ足に力をいれた。全身の毛が逆立つ。やけになって、薄茶色のオオカミのわき腹を鋭くひっかく。彼女は苦痛に顔をしかめた。

ブランは彼女を泥におさえこんだ。息をきらす。激しい怒りを目にたたえて相手を睨む。

彼女も負けじと、牙をむいた。鋭く蔑むような視線を感じた。機能しなくなった片目にむけられていることがわかった。

 前足をゆるめた。ブランは彼女の意気地なしな性格を理解した。相手は力がゆるんだことがわかると、死肉をすばやく顎で食いちぎった。馬の群れのなかに、そそくさと逃げていった。

 ブランの毛は逆立ったままだった。戦いで乾ききった喉をうるおそうと、近くにあった川をのぞきこんだ。

 怒りが顔にでている。とても醜くみえた。数日間にわたって育まれた絆が、いとも簡単にきれた。

見苦しい顔を憎んだ。自傷するかのように、血でこびりついた毛束をひとつぬいた。ロストアイのこともいぶかしく思いはじめた。

疲れのたまった身体を、引きずるように歩いた。調子よく今まであがっていた尻尾は垂れた。誰にも遭遇しないようにした。警戒しながら眠りにつける洞穴を探した。


 大きな山が連なるそばにある場所で、遠吠えはきこえなくなった。静かな夜だった。ブランはふたりぶんの洞穴をみつけた。キツネが使っていた跡が残っていたが、かまわずはいった。心身ともに疲れはてた。

物思いにふけると胃がキリキリしはじめた。

雌オオカミとのかわした遠吠えは、悔しいことに心が弾む時間だった。

ロストアイといたときも、心が救われたことだけは確かだ。

ブランは少し昔のことを懐かしんだ。僕とロストアイとの仲間になると思っていた。一筋の大きな傷が心にできたみたいに痛い。

父と将来の群れの方針のことについて語った時間。母と綺麗なお気に入りの花を眺める夕暮れの時間たち。

これまで積み重ねてきたものが崩れ落ちていくような感覚があった。

 

 薄茶色のオオカミがうばった肉の残りを食べたが、それでも調子をくずした。

しばらく狩りをしなかった。空腹で飢えた目を洞穴の外にむけた。激しく吹雪いている。

視界が悪く、なにもみえない。懸命ににおいをかぎ、獲物を洞穴からかぎあてようとした。

古い老いたウサギが雪深くにうまっていることがわかった。

ブランは重い腰をうかせて立ち上がった。吹雪が顔にかぶる。

白い毛が銀白の世界にとけこんだ。ブランはすぐに老いたウサギをみつけ、ひとくちで飲みこんだ。鼻の孔をいつもより大きくふくらませる。期待どおりのにおいはしない。

 ブランは狩りで頭からかぶった雪をふりはらったが、また積もりだした。

水面のそばにはなるべく近づかずに、雪で喉をうるおすようにした。

胃がむかむかするようなにおいがした。期待外れのにおいに肩を落とした。赤毛のほっそりとしたキツネが、使用している洞穴の近くにいる。

雪で目立つキツネの赤毛の長い尻尾が茂みをこすっていた。

心に石の錘のようなものがたまった。足を引きずるように歩いた。

それでも、今の洞穴を住処にしようとする獣を警戒した。

強く吹雪いていて、雨のようなものがまざっていた。就寝の時間までは洞穴をゆずった。


 寒さにこたえた。夕暮れ時の太陽がぼやっとみえる。

ブランは洞穴をうばいかえそうと、キツネの尻尾を引きずり出した。

五体満足の身体をしているキツネに、ブランの心が乱れた。顔は赤毛できちんとふちどられている。赤みのある、ただれた肌がみえていない。

ブランはいきり立ってキツネに牙をむいた。キツネは挑発的に、にらみかえす。攻撃をしかけたキツネに対し、情けない声がもれる。ブランの身体がかたむいた。後ろ足の腱がねらわれた。

 足を滑らせる。深い雪に身動きがとれなくなり、不利な体勢になった。負けじと、筋肉に力をこめた。身をよじらすと、足がぬけた。ブランは洞穴を諦めて、尻尾を巻いて逃げた。

 キツネは執拗に追いかけてきた。ブランは対抗する気にはなれなかった。諦めてくれるまでねばって逃げた。

助けを求めようと、かすれた声で遠吠えをした。ロストアイの遠吠えがかえってきた。

自分の許しを請うような声だった。ブランの力は再びみなぎった。ロストアイの遠吠えは、父のことを思い出す。

 疲れはてているにもかかわらず、向きをかえた。キツネの立派な尻尾に傷を負わせようと力をいれた。歯に毛がからんだ。それでもがむしゃらに噛んだ。尻尾を引きちぎる思いだった。

ブランの顎の力に降参した。キツネはあえいだ。身をよじらすように顎の下からはなれた。

キツネが目の前から姿をけした。ブランは脱力感におそわれた。洞穴にもどる気力がない。

 どうにか足を動かした。空気の冷える風か身体をかすめ、少し毛が凍っている。

心のなかでロストアイに感謝をした。洞穴のなかは、キツネの新しいにおいがしみこんでいた。それを無視して凍えた身体を守ろうとした。

横殴りの吹雪が身体にあたらないだけで安心できた。キツネの赤毛におおわれた顔と、ふたつの目を苦々しく思ったまま、眠りにおちた。



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