第2話
このなわばりは常に死と隣り合わせのように感じた。
煙たいにおいが鼻を鋭くさす。何度せきこんだかわからない。
クマが出没する環境から離れられたことで、安心は得られた。
しかし、ここに永遠住めるわけでもなかった。
洞穴は小さく、就寝するときにはみ出し者が出た。
ロストアイは、いつも冷たい秋風にさらされて眠っている。
夜中に突発的な銃撃音がきこえた。人間がなわばりに足を踏みこんだ。
危惧しなければいけない服装をしている。
見張りをしていたブランは警告をこめた声をあげた。
また銃撃音がする。相手も威嚇している。怯えたにおいがたちこめた。
仲間たちの死を思い出す。生くさい血のにおいがした。
ブランは逃げる方向を見失った。何匹かが混乱している。仲間が道路を飛びだした。
金属がこすり合うような音がした。短い悲鳴がきこえた。
ブランはじっと洞穴に閉じこもった。なかには誰もいないと思っていたが、ロストアイが身を丸めて震えていた。
彼は外で寝ているはずだったが、人間が怖くなって洞穴に逃げた。
それが正解の道なのかもしれない。
人間がなわばりを侵食した。何発も銃撃した。顔が恐怖で引きつった。
静かになった気がした。ブランはロストアイにふせているように命令したあと、
少し顔を外に出した。
人間のにおいに混じって血のにおいがする。仲間の遺体があった。
父は死の恐怖に苦しんだ。その仲間も白目をむいて血で胸毛を汚している。
ブランは何匹かの遺体をみた。ブルームが倒れている。ブランは目を見張った。
「母さん!」
ブランは心がちくりと刺した。何もできなかった自分がなさけない。
せめて、逃げずに母のそばにいて守ってやれればよかったのに。
ブルームは最期にけいれんしたあと、静かに息をひきとった。
人間の足音がきこえた。ブランは身の危険を感じて、岩に身をひそめた。
息をつめて見守っていた。洞穴でロストアイが顔を突き出してきた。
人間はロストアイを見つけ、銃をかまえようとした。
「やめろ!」
ブランは勇気をふりしぼった。人間の腕を引きちぎろうとした。
うめき声をきいたロストアイが、身の危険を感じてぱっと逃げ出した。
人間がブランを地面にたたきつけてきた。息がとまりそうになった。どうにか体制を立て直した。
幸運にも、人間はブランのことを無視した。負傷した腕に顔をしかめてうめいていた。
銃が草むらに落ちた。それを確認したブランも、ロストアイが逃げた先へ走った。
追い払うことのできなかったクマがいる。仲間の遺体に群がっているカラスもいた。
ロストアイはどこにもいない。
ブランは人間が追いかけてくる足音がきこえていた。目の前にクマがいる。
クマの足元を通りすぎようとした。発砲した音が背後できこえた。
人間はブランを狙っていた。オオカミではなく、図体の大きいクマに、たまはあたった。
ブランは草原のほうへと逃げた。重症を負ったにもかかわらず、叫ぶクマの雄たけびを耳にしながら。
ロストアイの行方を見失ってしまったが、においが残っていたためそれを頼りに進んだ。
地平線の先に、人間の住処の影がみえる。そのことに嫌気がさした。
ロストアイも怪我をしていることがわかった。においをたどったときに、地面に血がついていた。
灌木のそばで、ロストアイがうずくまっていた。
ブランのにおいに気がつくと、怯えているのか、尻尾を身体に引きよせた。
「大丈夫だ。ぼくは君のことを傷つけたりはしないよ」
それでも、ロストアイは信じてくれない。
ブランはロストアイにそこで待っているようにいった。
母が頑固にも食べなかったウサギを狩り、ロストアイの足元におとした。
「ぼくはいりません」
ロストアイが目をふせた。本当はお腹を空かしているのに。
「ぼくを信じてほしい」
ロストアイは首を横にふった。ブランの身体をかすめておぼつかない足取りで、この場から立ち去った。
ウサギが残されただけだ。ブランは信用してもらえないことに、落ちこんだ。
ブランはウサギを食べた。また空腹になるだろう。
オオカミは、群れで生活しなければまともな暮らしはできない。
ロストアイも、平和な暮らしではけっしてなかった。だが、今の状況よりはよかったはずだ。
ブランはロストアイの存在が、気が気でなかった。彼の後を追いかけよう。
ブランはウサギの肉を胃につめこんだ。オジロジカやムースよりは味が劣るし、腹もそれでは満たされない。だが、なにも母のように頑に食べなないよりはましだ。
ブランはロストアイの後を追いかけた。また人間がクマに威嚇する音が背後できこえた。
それでもまだクマは生きている。
慣れ親しんだ故郷が見えなくなった。そのかわりに、まだ見ぬ世界がひろがっていた。
その先をロストアイが急いでいる。ブランに追跡されないように、狩りのときにつかう容量で、足跡やにおいを消すためにたまに水場に入っている。
途中でウサギの残骸を見つけた。コヨーテのにおいがしみついたオジロジカの骨も見つけた。
それらにロストアイのにおいはついていた。
残りのおこぼれをもらおうと、ロウラのいうところのオオカミのプライドを捨てた。
腹の足しにはなるが、それでもどこか味気ない。一番柔らかい新鮮な肉を食べたい。
カラスが木のうえにとまっている。しゃがれた声をあげた。
カラスは木から離れてブランのところにいくと、白い毛を持ち帰ろうとした。
ブランはカラスを追いはらって父のように威厳をもってうなってみせた。
耳と尻尾をたてて、頭をあげて自分を大きくさせた。
急いで胃のなかに食べ物をつめこんだせいで、腹痛がした。今では、その腹痛さえもうれしかった。
カラスは諦めた声をあげて、飛びさった。
ロストアイのにおいが風できえかかっている。どうにか後を追おうとした。
あれからロストアイが肉を食べた形跡はない。においが大きな湖で途絶えた。
ブランは見たこともない湖に目を見張った。視界にはいる大半を、湖でしめた。
泳げばよかったが、勇気がでない。ブランは畏怖の念に打たれた。毛が水でしみるのを想像した。
ブランは自信が萎えた。湖に視線をむけて、きわを通った。
ロストアイを見失った。においも古い。後を追うことができない。
ブランは悔しくなって小さな声をもらした。
岩場にいたときに見た地平線の人間の住処の影が、ようやく見えた。
ブランは警戒した。人間が近くにいないか、においをかぎながら、少しばかりの期待もこめて歩いた。
人間の住処が並ぶ場所にそるように移動した。これなら、安直に近づかなくてすむ。
期待しているにおいが鼻の奥にはいってこない。オジロジカもいない。ムースも、ウサギもいない。
急いで胃に肉をつめこんだときとはまた違った空腹の鋭い痛みがきた。
ブランは左右に目をはしらせて安全確認をしたあと、思いきって人間の使用する道を渡った。大きな車の音がした。人工的な光で横腹が照らされた。
危機一髪のところだった。ブランは反対側まで渡った。
ブランの首の毛が逆立った。息苦しい。気持ちを落ち着けるのに時間がかかった。どうにか息をすいこんだ。
その拍子にロストアイのにおいがした。人間たちの放つ悪臭にまじっているのを確認した。
思わず尻尾が垂直にたった。どうにかはやる気持ちをおさえた。
慎重にロストアイの動きを確かめながら進んだ。人間の一軒家の近くまできてしまった。
黒と白のまだら模様の蹄の足をした動物がいた。ゆったりとないている。
ブランは人間の目を警戒した。思わず期待で震える。物陰に隠れて様子をうかがった。
蹄の足をした動物は、オオカミがいるにも関わらずまだゆっくりとしていた。
人間がいないことを確認し、震えがとまった。様子をうかがい、狙いをさだめた。
よだれが垂れる。
身体に力をこめたとき、フェンス越しに人間が見張っているのがみえた。ブランはあきらめて忍び歩きでこの場をあとにした。
路地裏のような道を通ると、またロストアイのにおいがした。人間のだしたゴミをあさっている跡がある。
真似して残りカスを食べた。黒いふくろが歯に引っかかり、嫌な触感がしてはきだした。
人間が見つからないような道を通って、ロストアイのあとをたどった。
はずれまでロストアイのにおいはつづいていた。灰色の道がある。人間の住処が集まる場所で歩いていたため、肉球がすりへった。
露のきらめく柔らかい草に足の裏がふれたときは、安心して息をついた。
久しぶりの草の感触を楽しむ余裕ができた。ロストアイのにおいはまだ新しい。
山の近くにいるオジロジカのにおいがした。またよだれが垂れる。鼻の孔をふくらませて、においだけでも楽しんだ。
ふたり分入れる洞穴がみつかった。ブランは眠りについた。
ブランはもっと落ち着けるような場所を探して、森へとはいった。ロストアイのにおいは昨晩の雨で途切れた。
木枯らしが吹いた。森にクマの爪痕がいくつも残っている。ブランは苛立った声をあげた。
鈴の音がきこえた。ブランは焦った。近くにあった茂みに身をひそめた。
クマが木々をぬうように歩く。人間は腰を抜かしている。手元に銃はなさそうだ。
鈴の音が大きくなった。クマが音に気がついた。ブランが隠れているほうまで駆けた。
ブランは身体の向きを変えようとした。ひとつ判断が遅れた。クマのかぎ爪が顔にあたった。
ブランはもがいた。目から血が垂れる。どうにか助けを求めて叫ぼうとしたが、力がはいらない。誰も手をかしてくれないことに、怒りがわいた。
ぼんやりとした意識のなか、ロストアイの姿がみえた。ブランは意識が遠のくのを耐えながら、服従するような姿勢になった。訴えるような目でロストアイの片目をじっと見つめた。
意識を失っていた。数日後、なんとか目をあけた。森の小さな洞穴で休んでいた。
立ち上がろうとして筋肉に力をいれたが、足を滑らせた。
ブランは焦りをおぼえた。片目が機能していない。ロストアイとは逆の目を失った。
まばたきをしてみると、クモの巣がまかれていることがわかり、数枚足元におちた。
もう血はとまっている。ブランは生きていることに感謝をこめて鳴き声をあげた。
洞穴に、ロストアイのにおいが残っている。少し怯えたにおいもする。
怪訝に思いながらも、洞穴から顔を恐る恐るつきだした。
痛む顔を無理やりうごかして、森の様子に耳をすませた。何もない。ロストアイもいない。
ブランは尻尾を後ろ足の間にはさんだまま、身体を前へおしだして外へでた。
クモの巣にロストアイの古いにおいがしみている。
ブランは注意深くにおいをかいだが、希望とおりのにおいはしない。
顔に激痛がはしる。まともに狩りができない。カラスもひとりで寂し気に鳴いていた。
警戒しながら歩き回った。新しいオオカミのにおいがした。数匹いる。おしっこを引っかけた木のにおいを懸命にかいだ。このにおいは、ロウラだ。自分は大きな存在だと主張するようなメッセージがこめられていた。誰かと手を組んでいることもわかった。
ブランは彼に懇願してもらうためににおいのあとをたどった。
足元がおぼつかない。それでも歩いた。鼻面を地面に近づかせた。必死ににおいをかいだ。
遠吠えのような、ふざけあっているかのような鳴き声がきこえた。希望がふくらんだ。
思ったとおり、知らないオオカミもいる。ブランは活力にあふれた。
故郷にいたころのロストアイのように身を低くして、近づいた。においに気がついてもらいやすい位置まで移動した。距離をつめた。
ロウラは優勢なことをしめそうとしている。遊びのなかでも、途中で相手の腰を前足で下げさせようとしていた。
故郷にいたころの群れで見た光景に、心がはずむ。
ロウラがほがらかに喋っていたが、ブランのにおいに気がついて肩越しにふりむいた。
ブランに気がつくと、ロウラはうなり声をあげた。父がなわばりを主張しているときの声に似ていた。
怪我をした顔を、新しい二頭のオオカミに見られている。
ブランは尻尾を巻いた。敵意がないように目を合わさないまま、出来るかぎり身を低くした。
相手は許しを請わなかった。不思議に思って視線をあげると、新しい二頭のオオカミとあざけている。
ブランは腹が立った。どうにかこらえた。じっと服従の姿勢をとった。チャンスがくるまで粘った。
効果はなかった。新しい二頭のオオカミがおそいかかった。
ブランはショックを受けた。傷だらけの顔に、ロウラの群れはまた痛めつけようとした。
もがいて二頭のオオカミをふりはらう。そして尻尾を巻いて逃げた。頼りない声をだす。
その声を聞いたロウラたちは、愉快そうにせせら笑っていた。
またひとりになった。ロウラがいた奥深い森とは少し違い、木がまばらに立っている。
痛憤した頭を冷静にしようと、川の中に思いきり顔をつっこんだ。流れがはやい。
ブランはすぐに顔をあげた。
片目に巻かれたクモの巣がしおれて地面にぽろぽろ落ちた。
ごわごわと、もう一度川の水面に顔をうつした。酷くただれた片側の顔が映り、怒りがわいた。
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