あれだけ大きく見えた湖が、小さく見えた

空乃晴

第1話

 険しい岩場に、血が飛び散った。うなり声や吠え声がした。

ごつい前足が空気をつかむようにひっかいた。つむじ風がおきて、砂埃が舞った。

空腹で飢えていたオオカミたちは、敵の胸筋にむかって牙をむいた。

ところどころに毛束がちぎれ、血がふきだした。

仲間の鮮烈な血が顔にかかり、目の前が一瞬みえなくなった。

 激しい攻防のさなか、父の首の骨が折れる音がした。

まだ父は微かに心臓を動かしており、助けを求めるかのようにあえいでいる。

 恐怖で腰を抜かした感覚に陥り、動くことができない。

母が勇気を振りしぼり、退却する声をあげた。ようやく足を動かすことができた。

 駆け足で地面を蹴りながら、後ろを振りかえる。

オジロジカの肉をむさぼるクマ。その周りには、死肉を求めてカラスが集まっていた。

景色がとぶように後ろへながれた。父の無残な死をみた。恐怖に駆り立てられてはやく走った。


 人間とのなわばりが重なり合う場所で、ようやく母は足をとめた。

それに習って、二十匹ほどのオオカミたちは、母の周りで姿勢を低くする。

母は先ほどの光景がまだ信じられず、走ってきた道を見返した。

怪我はしていないのに、苦しく肩で呼吸をしていた。

ぼくはいたたまれない姿の母のそばにいき、落ち着かせるように耳をなめた。

母の目は、怒りというよりも悲しみでどんよりとしている。

「わたしの愛おしいストーム……」

希望を打ち砕かれたその表情は、見ているだけで心苦しい。

「クマがわたしたちのオジロジカと、父を横どりしたわ」

 あのクマを許すことができない。けれど、狂暴的なクマに、歯向かうことはできない。

群れをなしてでも一頭のクマを追いはらうことができない現実に、目をそらしたくなった。

「おれたちはクマに負けてしまった。あいつの心臓をえぐってやる」

兄の意見には賛成だった。威厳のあった父が、あっけなく死んだところを目の当たりにした。

怒りが腹の底から湧きあがる。

こどもたちのうっぷんのたまった表情を目にした母が、静かな息をはいた。

「クマに立ち向かうことはできないわ、ロウラ。諦めることも覚えなければ」

母のブルームは、最愛なストームを亡くして心を打ちのめされているはずだ。

しかし、強気にも現実を受けいれようとした。

「ブランは悔しくないのか?」

母の意見にまだ納得のいっていないロウラが、小さく耳打ちをした。

鋭い眼光で見つめられて、ブランはつばを飲みこんだ。

「悔しいけれど、母さんの意見は正しい」

「それでもおれは納得できない」

ロウラはそれだけいうと、群れで一番身体の弱いロストアイに向かって行った。

威圧的な態度で責め立てた。

群れの仲間たちは大勢いるが、片目のみえないオオカミをかばう者はいない。

ブランは兄の態度に怖気づいて、一歩身を引いた。

群れの仲間たちはどうということもなく、ただあくびをしながらながめている。

ロストアイは弱よわしい声をあげ、助けを求めようとした。誰も動こうとはしない。

ロストアイの白い毛がもつれはじめた。ようやくロウラも満足したのか、攻撃をとめた。

何食わぬ顔でロストアイから離れ、ロウラは自分の黒い毛を整えた。

母は沈んだ表情をして、遠くを見つめている。ロストアイを助けなかった。

ブランはこの状況に後ろめたさを感じて、ひとりになった。

 今日の狩りも失敗に終わった。群れの仲間たちは、何も食べていない。

特に心に傷を負っている母に、食べてもらわなくては。

ブランはすばしっこいウサギを捕まえ、母に渡そうと近づいた。

「明日またオジロジカか、ムースを狩りましょう。そんな獲物は群れを成している

オオカミが食べるものではない。捨てなさい」

 父の無駄な死を見てからは、犠牲となったウサギをいとも簡単に捨てることはできなかった。

ロウラをふくめた仲間たちが、じっとブランの様子をうかがっている。

居心地が悪くなったブランは、ウサギを捨てることにした。


 母を先頭にして、群れの仲間たちは拠点に戻った。

クマがいなくなるまでは、ここにとどまろうと考えている者もいた。

人間の使用する道に近かったので、その話は却下された。

 カラスに食べられて、父の骨の残骸だけがそこにはあった。

誰も手を貸さなかった父の怒りの念のような靄が、見えたような気がした。

母が丁寧に遺骨をあつめて、群れの仲間たちはそれにならって穴をほって埋めた。

日が沈みかけた空にむかって、遺骨のあった場所で悲哀な遠吠えをした。

群れの仲間たちもあとにつづいた。日頃から父に非業な行いを受けていたロストアイまでくわわった。

それぞれの洞穴にもどった。母の使用していた洞穴は、物寂し気だった。


 まばゆい朝日が地平線から顔をだした。夜明けの薄い色をした空が、ひろがっている。

朝露が草の先たんで光った。

息をのむほど美しかった。父の遺骨のあった場所は昨日の雨で、草をぬらしている。

夜が明けるまえからブルームは、じっとその場でストームのぬくもりを感じようとした。

 ブランも母に近づいて横でふせた。母をなぐさめたかった。

ロストアイもふたりに近づこうとしたが、ロウラに頭ごなしに怒られている。

ブランは片方の目で様子をちらりとうかがった。

ロストアイは、抵抗するのをやめて身体を小さくしていた。

 昨晩の雨のせいで、洞穴の入り口に近い場所で寝ていたため、まだロストアイの毛がぬれている。

母が身体のむきを変えた。それを見たブランも真似た。

ロストアイの醜い顔が、見えなくなった。変わりにどこへ向かっていくのかもわからない草原が見えた。

ロストアイを責め立てていたロウラが、ブルームの右肩側までやってきた。ぼくらの真似をした。

寝そべっていると、遺骨がまだここにあったときに見えた靄のようなものを感じる。

身体がチクチクと刺した。父の首の骨が折れる音がしたときに、腰を抜かしたことを思い出す。

自己嫌悪に陥りそうになった。

 父の怒りを大地から感じる。しかし、母と兄は静かな表情だ。

きっと、安らかに眠っているストームのことを心にとどめているのかもしれない。

ブルームとロウラが静かに立ち上がって、ロウラがちらりとこちらを見下ろした。

ブランはロストアイが助けを求めているときの心境を想像し、自分も立ち上がった。

「父の魂を感じる。穏やかそうだ」

ロウラの言葉は共感できなかった。ブランは目を伏せながらそれでもうなずいた。

「天の星となって、見守ってくれている」

ブランはブルームとロウラの心が満たされるような発言をした。

ブルームの表情はまだ陰っている。哀惜の念に堪えない様子だ。

尻尾も、いつもなら垂直になっているが、つぼみがしぼんでいるかのように垂れている。

ロウラが気の毒そうな表情でちらりと母を見た。ブランと同じで、かける言葉が見つかっていない。

昨日のちぎれた雲から、小さな雨粒が鼻面の先にあたった。

この狩り場が戦場になったとは思えないほど、今は静かだ。クマもいないし、カラスもいない。

残っているのは、オジロジカの残骸だけだ。

「狩りをしましょう」

気重な空模様のなか、何かにあらがうかのように母が立ち上がった。

雨が降れば、それだけでオオカミたちは狩りを諦める。それなのに、今日のブルームは違った。

「じっとしていてもしかたがないわ」

ブルームが自分に言い聞かせるようにいったが、その声はまだかすれていた。


 空腹は限界を超えて、もはや何も感じなくなっていた。

母の苦悩により、狩りの精度に影響がでて、オジロジカを逃してしまった。

父が総括していたころとは違った。群れのちぐはぐさにロウラが立腹した。

ロストアイに対して鼻面を噛んでいた。

理不尽だ。彼は狩りに参加していない。

 ロストアイの目色を見ると、死んだ父のときのような感情をいだいているのがわかった。

他のオオカミの群れは、リーダーにひれ伏すばかりで、兄の間違った行動を正す者はいない。

逆流を泳いでいるような感覚で、群れの仲間たちを押しわけてロウラのもとへ行った。

兄をとめようとした。足が震えてそれができない。兄のまえでは無力だ。クマのまえで無力だったように。

ロストアイはロウラの攻撃によって傷をつくったのか、足を引きずっている。

目に影をおとして、彼を盗み見た。ロウラの視線を鋭く感じる。

「おまえも加勢するつもりだったのか?」

ロウラの問いに、言葉につまった。

「そうかもしれない」

あいまいに答えた。

ロウラはブランの調子を見て肩をすくめると、ブルームのもとへ向かっていった。

 ブランも兄のあとをついて行った。そのときに、もう一度視線をロストアイへむけた。

彼は傷ついた身体を懸命になめて、したたる血をとめようとしている。

群れの仲間たちの視線を集めないように、すぐに目をそらす。

 ブルームはいつもより、やつれているようにみえた。これではまるでロストアイだ。

ブランもロウラも内心そう思っていたが、ふたりは口を出さずにただ視線をかわした。

「やっぱり、ウサギでもなんでも食べたほうがいい」

誰もが腹を空かせている。ブルームは、とくに食べなくてはいけない。

愁嘆していたブルームは、ストームを亡くした悲しみに耐えられるだけの体力をつけなくてはいけない。

「わたしは小さな動物は食べないの」

本当は飢えているのが目でわかった。

「じゃあ、せめて狩りだけでも休んで。身体がもたないよ」

ブランは悲しくなって短く鳴いた。自分の頑固さで首をしめるようなことだけは、さけてほしい。

「ブランは自分勝手だ。オオカミのプライドというものを知らないのか?」

ロウラは気に入られようと、ブルームの肩をもった。

「群れを成したからにはオジロジカやムースをを狩ることが習性なのはわかっているよ」

「それじゃあ、母さんの意見を尊重するべきだ」

ロウラのじれったい顔に、腹が立ってきた。ブランは目線をさげた。

その態度を見たロウラは少しだけ鋭くにらんだあと、ブルームに優しく鼻面をふれあわせた。

乱心しているブルームに、ロウラはこれ以上なにを期待しているのだろう。

オオカミのプライドは、ときに仇となるのがロウラにはわからないのだろうか。

 一匹狼が人間のだしたゴミや、コヨーテの肉のおこぼれを横どりしていることは、知っている。

群れをまとめていた父が亡くなった。だから、必要に応じて状況を変えなくてはいけない。

ブルームやロウラに物申したかった。それは腹を空かせた自分のためでもあり、

もっと飢えているロストアイのためでもあった。

 ブルームや他の群れの仲間たちは、遠吠えをする以外に、会話はひかえめになっていた。

遠吠えも、いつものしゃれたものではない。父が引っ張っていくような、

臨場感のある遠吠えはもうできない。今は活気ついているとはいえない。

母は老けてみえた。

ごくまれにオジロジカを狩ることができた。それでもまだ足りない。

 今日は、狩りに失敗した。オジロジカの尾の白い裏側が見えた。茂みの中へ消え去った。

ブランは悔しくなりながら、それをながめた。

 ブランもあえて食べる肉の量を減らして、ロストアイが満腹できるようにこっそりと残してやっていた。

ロストアイは少し身体つきがよくなった。今のブルームと比べたら、彼のほうが健康的だといえる。

いつものように母は、遺骨がうまっている場所で寝そべることが多い。

淡い太陽の光にさらされながら、物思いにふけっている時間が長い。


 前触れもなく、クマが狂乱しながら岩場に姿を現した。

ブルームがにおいをかぎとり、警戒しながら後退りした。

父が首の骨を折った場所で、またクマが現れてしまった。

ブランは動いた。恐怖で震える。ブルームを守らなくては。

父が敗れ、結束をかたくした群れはクマを襲った。

このまえのクマだったことが判明した。ブランは父のかたき討ちをしようと奮闘した。

硬い毛を牙でがむしゃらに、強く噛む。連なった攻撃で、

クマはオオカミの頭をひとくちで食べられそうなほど口をあけ、苦痛をもらした。

クマを黒みのある岩に追い込んだ。苦戦していたはずのクマが体制を立て直した。

仲間の背骨をいとも簡単に折った。

「ここにいては危ないわ」

ブルームが父の死を思い出しているのか、いつもより頭が冴えている。

「人間の使用する道の近くまでいきましょう。それしか方法はない」

仲間を置き去りにする判断は、犠牲になった本人にとっては無情にみえたはずだった。

ブランは傷心したが、父のときとは違って後ろをふりかえらないようにふんばった。

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