第2話 多細胞生物

 遙かな太古――約十億年も前の事である。その有り余る根性で真核生物に進化した地球の生命体は永きにわたる平和を享受していた。

永遠かとも思える平穏な生活。一個体にとっては確かに永遠といっても過言ではない、実感する事は不可能なほどの時間。だがそれも「永遠」たり得ない。この惑星も、いやこの宇宙でさえも決してその存在は永遠では有り得ない。彼等の平和な日々も遂に終わりの時を迎えるのだった。


 その頃、原始的な地球の海にはクラミドモナスと呼ばれる単細胞生物達が海中をのんびりと漂いながら平和に暮らしていた。そんな彼等の間で噂になっている存在があった。見た事もない巨大な「何か」が同族達の存在を脅かしていると言うのである。

 実際にその場に居合わせた事がある者はいない。「何か」に遭遇した者は例外なくその命を落としているのだ。事態を聞き駆けつけた者が有り得ない早さで立ち去る「何か」の後ろ姿を目撃ただけなのだった。


「のうタザワ・クラミドモナス、例の奴は一体何者なんじゃろう?」

 

 のんびりと光合成を行いながら尋ねたのは鋭い目つきのトガシ・クラミドモナスである。目元の傷跡がトレードマークだ。


「うむ。恐らく奴の正体は……伝説に聞く渦潮じゃ――!」

「う、渦潮!? 一体何なんじゃそいつは――!」

「おう、渦潮とはな……海底の魔物が大口を開けて海水を飲み込む時にできる大渦巻きの事じゃ。そいつに巻き込まれて生き残った者はおらんという。一族を全滅に追い込める者などそいつをおいて他にはおらん!」

「な、なるほど……確かに恐ろしい奴じゃわい」


 眼鏡をかけたタザワ・クラミドモナスがお手本のような尾鰭を付け加えた。トガシ・クラミドモナスが脂汗を流して真に受ける。いいコンビである。隣に居ながらも冷静なのは長髪とイケメンで知的なヒエン・クラミドモナスである。


「お二人とも落ち着いてはどうですか?」

「ヒ、ヒエン・クラミドモナス……これが落ち着いておれるものか! あちこちで同族が襲われておるんだぞ! それも渦潮とか言う……」

「そこですよ」

「ど、どういう事じゃ」

「まだそいつが本当に渦潮かどうかも不確定なのです。憶測にすぎません。対策の立てようもないのですよ。ならば今出来る事――情報を集めながら実力をつける。これに全力を傾けるべきではありませんか?」


 ぐうの音も出ないトガシ・クラミドモナスとタザワ・クラミドモナスはふて腐れた顔で光合成に戻った。ヒエン・クラミドモナスはそれも気にする様子もなく涼しい顔で光合成を続ける。

 そこにやって来たのはスキンヘッドに鋭い目つきのゲッコウ・クラミドモナスである。


「やはりお前の言うとおりかもしれんぞ、ヒエン・クラミドモナスよ」

「では……」

「うむ、その可能性が高い。そうなると我々も危ういぞ」

「仕方ありませんね、現状で取れる手段は避難しかありませんが……」


 その時。耳を貫くような悲鳴が上がった。


「な、なんじゃー! 一体どうしたと言うんじゃー!」

「た、大変だー! とんでもない奴が現れたー! 噂のあいつに違いない! 早く逃げろー!」


 厳つい顔に鬼髭を生やしたオニヒゲ・クラミドモナスが必死の形相で非難を呼びかけて回る。だが素直に逃げ出すような連中ではない。正体を確かめてやろうと騒ぎの中心に向かって泳ぎだした。鞭毛はフル回転である。

 到着した彼等の目に映ったのはこれまで見た事もない異形の怪物だった。無数の真核生物が球状に集まって一つにまとまった、想像すらした事のない姿。言葉を失ったのも無理はない。


「……な、なんじゃー! この化け物は――!」


 ようやくトガシ・クラミドモナスが声を上げた。


「フフフ……我等が名は梵流菩苦須(ボルボックス)! 新たな進化への階段を上る者よ!」

「梵流菩苦須だとー! 気色の悪い奴らめ! 貴様等がワシ等の同族を始末して回っておったのかー!」

「そうよ、進化を忘れた愚か者共に生きる権利は無い! 貴様等もまとめて片付けてくれるわ!」


 梵流菩苦須が回転して遅いかかってきた。その速度たるやクラミドモナス達の比ではない。たちまち多くのクラミドモナス達が粉砕され塵へと帰してしまう。


「う、うおおー! なんて奴じゃぁー!」


 トガシ・クラミドモナス達も逃げに回ろうとしている。いつもの威勢は何処へやらだ。

 イケメンのヒエン・クラミドモナスが眉根に皺を寄せて呟く。


「やはり梵流菩苦須(ボルボックス)の正体は細胞群体……奴らには生半可な攻撃は通用しません。ここは撤退するしか無いでしょう。時間を稼いで対策を練らねば……」


 ゲッコウ・クラミドモナスが頷く。それはその通りだが、ではどうやって時間を稼ぐのか。その手段が問題だった。生半可な手段ではどうにもならないのは明白だ。パワーも速度も次元が違う。何か手立てがあるのかすら疑問だ。


「私たち三人でアレをやるしかありません」


 ヒエン・クラミドモナスのその言葉にゲッコウ・クラミドモナスと盟友のライデン・クラミドモナスが息をのんだ。


「ま、まさか……アレをやるというのかヒエン・クラミドモナス!」

「アレはまだ成功した事が無いのだぞ!」

「やれるとしたら私たち三面拳以外にはいないのです。やってのける以外の選択肢はありません。トガシ・クラミドモナス達の頑張りに報いる為にも……」


 視線の先には絶望的な戦いに臨むトガシ・クラミドモナス達の悲壮な姿があった。


「うおぉ! こうなったらヤケクソじゃあぁぁ!」

「皆が逃げる時間を! 少しでも稼ぐぞ!」


 トガシ・クラミドモナスだけではなく、リーダー格のモモ・クラミドモナスや腕利きでしられるダテ・クラミドモナス、先輩のアカシ・クラミドモナスも必死の抵抗を続けている。

 立ち向かっては吹き飛ばされ、叩きのめされ、踏みつけられ、それでも立ち上がる。あまりのダメージに細胞質を吐き出しても戦い続けるその姿は絶望と同時に希望を与えるのだった。


「やれるか……いや、やらねばならんな」

「ああ、今ここで成功させるしかあるまい」

「では、決まりですね。行きましょう!」


 梵流菩苦須(ボルボックス)がトガシ・クラミドモナスにとどめの一撃を入れようとしたその時。これまでにない衝撃が梵流菩苦須の巨体をを弾き飛ばした。


「な、なんだこれは!」

「三面拳参上!」


 ライデン・ヒエン・ゲッコウのトリオは「三面拳」と呼ばれ、その絶妙かつ的確なコンビネーションは誰も真似が出来ないレベルの完成度で知られている。彼等の完全同時攻撃がヒットしたのだった。完璧な連携とはこの事だ。だがそれも梵流菩苦須がとどめを刺そうと油断していたから成功したに過ぎない。それ以上の何かがなければこの事態を打ち破る事など不可能なのだ。どうする三面拳よ。


「や、やめるんだ……幾らお前達でも……」

「心配はご無用。我等には秘策があります」

「フン、笑わせる! お前達如きの小細工など通用するものか! 全て正面から打ち砕いてくれるわ!」


 梵流菩苦須の嘲笑が響き渡る。それをものともせず、三面拳は博学で知られるライデン・クラミドモナスが中央に、知性派のヒエン・クラミドモナスが右手、シンプルながら完成度最高と言われるゲッコウ・クラミドモナスが左手に位置を取った。


「我等三面拳の最終奥義! とくと見よ!」


 なんと言う事だろう、三面拳の細胞壁が独立したものから次第に密着し、遂にはぴったりと融合――いや、境界はある。だがまるで初めから一体であるかのように自然に、細胞の三角形を作ったのだ。


「……フン、この梵流菩苦須(ボルボックス)の猿真似か。苦し紛れの小細工が通用するものか!」


 梵流菩苦須が水流を巻き立てて突進してきた。圧倒的な力の差があるならば正面から叩き潰すのが常道である。三面拳もこれまでか。


「に、逃げろー! 早く逃げるんじゃー!」


 タザワ・クラミドモナスの叫びが響く。それが聞こえないのか、三面拳は微動だにしない。激突する――その瞬間、細胞質を震わせる衝撃音と共に吹き飛んだのは梵流菩苦須だった。


「な、なにー!」

「ば、莫迦な……こんな事が……」


 タザワ・クラミドモナス達だけでなく、梵流菩苦須も驚きを隠せない。一体なにが起きたのか。三面拳を見ると、なんとゲッコウ・クラミドモナスをまるで腕のように振り抜いた体勢になっているではないか。


「な……これは……?」


 当然の疑問に答える声は三面拳それぞれの声が完全に重なった――いや、一体化したものだった。


「梵流菩苦須よ、お前達は我等――いや、私には勝てない。なぜならばお前達は細胞群体。ただ真核生物が寄り集まっただけの者。しかし私は一体の三面拳。それぞれが役割を分担し、全力で役割を果たし、一つの生命体として機能する新たな生物!」

「ま、まさか……あれは幻の『タ・サイボウ』なのか……?」

「なんだそれは。知っているのかダテ・クラミドモナス」

「ああ、奴らが以前から修行をしているのは知っていたが……まさかここで成功させるとは。さすがだ」



『タ・サイボウとは海中伝説で語られる次なる進化の過程である。これは複数の細胞からなる生命体であり、またそれぞれの細胞が分化し役割を果たす事によってより複雑な生命体を構成する事ができると言われている。だがこれは己の命を削るほどの過酷な修行を必要とする。

     ――タ・サイボウ その可能性を探る―― 眠瞑書房刊より』


 梵流菩苦須が立ち上がった。口元からは細胞質が流れているが、まだ余力は残っている様だ。不敵な笑みを浮かべている。


「これは驚いた。まさかあの伝説を現実にする者がいようとはな。だが……如何にタ・サイボウと言えど僅か三体の細胞ではこの梵流菩苦須を一撃で斃す事は出来ん!」

「一撃必殺が叶わぬのならば……連撃必倒あるのみ!」


 三面拳の猛攻が始まった。ゲッコウ・クラミドモナスとヒエン・クラミドモナスの連打が雨霰と降り注ぐ。ライデン・クラミドモナスの強打も交えて。梵流菩苦須はジリ貧状態に追い込まれた。今だ! とどめの一撃――そこに狙い澄ませたカウンターが入った。三面拳が吹き飛ぶ。


「ぐぅ! な、なんだと……」

「フッ、甘いな。如何にタ・サイボウと言えど、とどめの一撃はどうしても大振りになりがちだ。ましてや相手が弱っていると見えたならば尚更な」

「ま、まさか……この三面拳がそんな初歩的な失策を……」


 梵流菩苦須(ボルボックス)が残忍な笑みを浮かべ、やや距離を取った。一気に決めるつもりだ。


「タ・サイボウになったとは言え、たったの三体ではこの梵流菩苦須には勝てなかったな。潔く……散るが良い!」


 梵流菩苦須がこれまで以上に激しく回転し突進した。これを躱せば後ろの仲間が犠牲になる。受け止めるしか無い。覚悟を決めた三面拳が水中で踏ん張り全細胞を広げ――激突した。


「な、なにー!」

「アレを受け止めたと言うのかー!」


 タザワ・クラミドモナス達が血相を変えて駆け寄る。


「く、来るなー! 早く……逃げろ! な……長くは保たない……!」

「莫迦な事をいうなー! お前達を見捨てて逃げられるかー!」

「い、今は……逃げるしか……早く!」


 三面拳が今にも押し潰されそうになったその時。新たな衝撃が梵流菩苦須を襲った。


「グフ! 一体なにが……!」

「俺達を――いや、俺を忘れてもらっちゃ困るぜ」


 そこに現れたのは新たなタ・サイボウ。ダテ、モモ、アカシが一体化した新生物だった。


「よくやってくれた、三面拳。お前達のおかげで俺達もタ・サイボウになれると確信できた。お前達をまとめる俺達がやらないわけにはいかないからな」

「よくぞ……」

 梵流菩苦須(ボルボックス)の顔に戦慄が走る。まさか三面拳の他にもタ・サイボウになる者が現れるとは。いや、そうなると……まさか……。


「うおぉぉぉぉ! あいつらだけに戦わせはせんぞー!」

「そうじゃー! ワシ等も三面拳やダテ・クラミドモナス達に続くんじゃー!」


 見渡せばあちこちでクラミドモナス達が一体化しようとしているではないか。これは拙い。一度体勢を立て直す必要がある。梵流菩苦須が撤退しようと方向転換したその先にはダテ達が一体化した言わばリーダータ・サイボウが立ちはだかっていた。


「うぅ!」

「おいおい、俺と拳を交えずに帰るとは、つれないにも程があるんじゃないのか?」

「この三面拳、まだお返しが残っているぞ!」

「くっ……おのれ……!」

「ワシ等を忘れてもらっては困るぞ!」

「なぁにぃっ!」


 梵流菩苦須が気を取られている間にトガシ・クラミドモナス達もタ・サイボウ化を遂げていたのだ。中には二桁にのぼるクラミドモナス達が一体化した者までいる。完全に形成は逆転した。


「よくもワシ等の同族をー!」

「覚悟せんかい!」

「ひ、ひえぇぇぇ!」


 こうして友情と根性により多細胞生物が生まれたのである。




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