Side-A(4) ショッピングモールの冬
厳しい冬がやって来た。館全体の暖房はやはり心もとなく、ショッピングモールの中は冷気に包まれて静まり返っている。
三階の窓から外を覗くと、硬い結晶の上に雪が細々と降り積もっていた。それまでは硬質なプラスチックのようにも見えていた結晶が、今ではその見た目どおりに凍てついている。
僕は、取り戻した記憶を何度も反芻する。
僕は田辺さんの――田辺ミユキ嬢の過去に身一つで飛び込んだ。そして、彼女の心を救いたいと願っている。
妖精は、「あんたはなるべく不自然でないかたちで、ミユキおばあさんの過去へと放り込まれるわ」と言った。その「不自然でないかたち」というのが、僕にも干渉したらしい。存在しない人間が過去へ割り込むのは、やはり不自然なことなのだ。だから僕には、このショッピングモールで働き、ファストフードに頼りながら一人暮らしをしている、なんていう捏造された記憶が与えられた。それと競合するように、僕が暮らしていた街の記憶や、ミユキ嬢に関する記憶がごっそりと抜け落ちてしまったのだ。
記憶さえ残っていれば、もっとうまくやれたのかもしれない。そう歯がゆくなるときもある。でも、記憶が残っているがゆえに、うまくいかないことも出てきただろうとも思う。
事実、僕は記憶を取り戻してから焦っていた。僕のいた街で、ミユキ嬢の寿命はまだ保たれているだろうか。僕は期日までに、目標をここで達成できるだろうか。
「あなたがいてくれてよかった」
秋の晩に、田辺さんはそう言った。それは、僕がここで最も求めていた言葉に相違なかった。けれど、僕は不用意に尋ねてしまったのだ。
「それは、一人でなくてよかったということ?」
聞かなければよかった。そうすれば、僕の目標は達成されたということになっていたのかもしれない。彼女は僕の問い掛けに、「まあ、そういうことね」と返した。つまりは、僕でなくともよかったのだ。彼女の過去は確かに上書きされ、ショッピングモールで孤独に過ごした記憶ではなくなったのだろう。しかし、これからも一人ではない、というところにはたどり着いていないのだ。
このやり取りが、しこりのように僕の中でとどまっている。僕はいつの間にか、彼女にとっての特別でありたいという欲望を抱いてしまったのだ。だからこそ、この過去に僕はまだ囚われている。
いずれにしろ、もうどうしようもない。僕はここで、やるべきことをやるだけだ。
僕は、ネイル・エステサロンの扉をノックし、薄暗い通路へ踏み入る。
ここしばらく、田辺さんは体調を崩し、ここにこもりがちになっていた。それもまた、僕の焦りに拍車をかけた。
「調子はどう?」
返事はない。彼女はベッドの上で、毛布と羽毛布団を頭からかぶっている。その塊が、わずかに動いただけだ。
「今日の食事も、おかゆにしておこうか。防災食のストックがまだたくさんあるから」
やはり、返事はない。
体調だけの問題ではないのかもしれない。そう察するには十分なほど、彼女は僕に対して冷淡な態度を取っていた。僕が何かしたのかもしれない、何か不用意な言葉を掛けてしまったのかもしれない。しかし、どれだけ考えても思い当たる節がなかった。
僕は焦っていた。その感情に任せて、何度か尋ねてみたこともある。僕に何か悪いところがあれば言ってくれ、というふうに。彼女は黙って首を振るだけだった。少し一人にしてほしいの、私も何が何だか分からない、それが僕に与えられた言葉の全てだった。
「またお昼どきに、おかゆを持ってくるよ」
僕はそう言ってサロンを後にする。
最後に一度振り返ってみたけれど、毛布と布団のなだらかな丘は、もう身じろぎ一つしていなかった。
炊いたご飯を鍋に移し、水を注ぐ。それから火にかけて、十分間のタイマーを設定する。
彼女が調子を崩してから、僕が料理本を片手に習得した「おかゆの作り方」だった。鍋を加熱している間に、鮭の缶詰を開けてほぐしておく。おかゆに振りかけておけば、食欲も少しは湧くかもしれない。
このうどん屋に、暖房は入れていなかった。彼女はサロンで一日を過ごすし、僕も保険相談窓口の方が休まる。僕は半纏を羽織り(冬物の在庫が残っていて助かった)、調理のときだけここへやって来ていた。
タイマーが鳴る。僕は火を止めてとろみが十分についていることを菜箸で確認し、鍋に蓋をした。さらに十分ほど蒸らすのだ。
遠くから電話の音が聞こえた。バックヤードからだ。
僕は慌ててそちらへ向かう。十中八九、店長からの電話だろう。様子を尋ねる電話が来なくなって久しい。わざわざ掛けてくるということは、何か重要な連絡に違いない。
頭の中を疑念がよぎる。もしかしたら、店長はこれまで何度も電話を掛けてきていたのではないか。僕が二階に入り浸っているせいで、電話に気付かないまま放置してしまっていたのではないか。
電話は鳴り続けている。小走りになったせいで、僕は肩で息をする有様だった。軽く息を整えながら、管理室の受話器を取る。
「やあ、久しぶりだね」
「お、お久しぶりです」
田辺さん以外の人間と会話をするのは何か月ぶりだろう。おかげでうまく舌が回らなかった。
「いいニュースだ。どうにかこうにか、救助の目途が立ちそうだよ」
救助。
僕は目を見開いた。
「本当ですか?」
救助が来れば、彼女を医者に診てもらうことができる。そして、栄養たっぷりの食事をとらせることもできる。
「どうやら、結晶化現象に収束の兆しが見えてきたらしい。わずかずつではあるが、結晶は脆くなっている。それに、その地域へ物を放り込んでも、結晶化するのにかなりの時間を要するようになったそうだ」
「じゃあ、近いうちに出られるんですね?」
「そう。早ければ一週間、遅くとも二週間後には、自衛隊がそちらへたどり着けるそうだ」
腰の辺りから力が抜けていく。一週間から二週間と聞いて、少し落胆したのは事実だ。でも、一年近くをここで過ごした僕らにとって、それは些細な時間とも言えそうだった。
僕はお礼を述べて、電話を切る。
彼女に伝えなくては、と思う。もしかすると、このニュースで彼女も元気を取り戻してくれるかもしれない。
管理室を出て、足早にサロンを目指す。バックヤードとは反対側だ。
おかゆの存在も忘れ、僕は彼女のもとへ急ぐ。
シャッ、という音で僕は足を止めた。
目の前にクリーニング店がある。以前と変わらない、スーツを中心とした衣類が力なくぶら下がっている。
何かが、ハンガーを動かしたのだ。劇場の緞帳を開くみたいに。
僕はそこに何がいるか知っている。そして、それが何を伝えに来たのかも。
いいニュースと悪いニュース、どっちが聞きたい?
僕の中で、ラジオのパーソナリティのような声が問いかける。いいニュースと悪いニュースがあるんだが、どっちから話そうか? その声はひび割れていて、どう考えても好意的なものではなかった。
「出てきてよ。できれば手短に。田辺さんに伝えたいことがあるんだ」
二つに分かれた衣類のカーテンから、ぼんやりと光る妖精が現れた。
「久しぶりね」
「久しぶり。さあ、早く用件を」
僕は急かす。僕は彼女に、助けが来ることを一刻も早く伝えなくてはならないのだ。
でも、妖精の言葉は、僕を勇んだ気持ちを絶望へと叩き落とした。
「急ぐ必要はないの。もう、ね」
「伝えたいんだ」
「だから、伝える必要ももうないのよ」
「うそだ」
僕は、うそだ、うそだ、と繰り返した。
妖精は憐れむように、僕を見下ろしていた。
「あたしたちの街で、ミユキおばあさんは亡くなったわ。あんたは間に合わなかったのよ」
いいニュースと悪いニュース、どっちが聞きたい?
僕は膝をついた。
「ごめんね。あんたを過去に送り込むために、力のほとんどを使ってしまったの。だから、あんたが記憶を失くしているって気付いても、こうして姿を現すことすらできなかった」
「なんで……」
言葉が何も出てこない。彼女が姿を現してくれていたら、何か変わっただろうか。それすら、今の僕には分からない。僕は失敗したのだ。
「これからの話をした方がいいわ。お互いに、ね」
僕は黙っている。妖精は、あえて事務的に話を進めることを決めたようだ。
「あんたはこれから、街へ戻ることになるわ。まだミユキ嬢にも出会っていないころの街へ。そして、大切なものを失う」
失敗したら、あんたは大事なものを失う。過去に戻る前に、妖精はそう僕に言った。
それが何かはまだ伝えられないの。あんたにとって、とても大切なもの。
「この過去は、無かったことになる。あんたとミユキ嬢はショッピングモールで出会わない。ミユキ嬢に残るのは、ショッピングモールで一年間、たった一人で過ごしたという記憶だけ」
やはり、僕は失敗したのだ。その事実が、僕の胸を切り刻む。胃の中で、真っ黒な何かが寝返りを打っている。それは脈打ちながら、僕の心臓を見上げているのだ。
「あんたが失うのは、彼女と同じ。記憶よ」
「記憶?」
「そう。正確に言えば、ミユキ嬢に関するあらゆる記憶と記録が抹消される。あんたが彼女と話した記憶。彼女を助けたいと思った記憶。そして、こうして過去へ戻った記憶。全てがリセットされる。あんたはあの街で菖蒲を刈って、ツムラさんと話し、そして初めて彼女と出会う」
世界が波打ち始めた。それは、僕が過去にやって来るときと同じだった。
水中に沈んだように、目の前のクリーニング店が波打っている。真っ黒なスーツたちが、あざ笑うように身をよじった。
過去が沈んでいく。僕は息を吸い込んだ。
「これから、この世界は解体され、再構築される。巨大な渦に呑まれるみたいに。混乱するかもしれないけれど、やがて元の場所、元の街にあんたは浮かび上がる。心配しないで」
うねりが僕を包んでいく。波が僕を覆い、どこかへ連れ去ろうとする。
赤茶色の背表紙たちが見えた。僕の家だ。
過去に向かう直前と同じように、僕は椅子に座って本棚を眺めていた。
ばらばらに折り重なった記憶たちが、足元でさざ波を打っている。
僕は一冊の日記帳を抜き出した。試しに開いてみる。
そこには、何も書いていなかった。まっさらなページだけが、いつまでも続いている。
僕はそれを投げ捨て、別の冊子を取り出す。白紙。
三冊目、白紙。四冊目、白紙。五冊目、白紙。
妖精が傍らで見ている――ミユキ嬢に関するあらゆる記憶と記録が抹消される。
「ねえ」
僕は妖精に問い掛ける。
記憶の波は、僕の腰にまで達している。僕は流されないように足を踏ん張った。
「僕が彼女に出会って、過去を変えようとしたのは何度目?」
妖精は黙って首を振る。
「彼女が」
僕は言う。それはほとんど叫び声になっている。ごうごうといううねりに胸を強く押しやられ、僕はバランスを崩した。
「彼女が死ぬのは、何度目?」
答えはなく、僕は濁った同心円に再び沈み込んでいく。
僕は巨大なクリーニング店の中で、かき回され、押し流されていく。通路全体が洗濯機になっているようだ。僕はちぎれかけた布切れみたいに、振り回されることしかできない。
誰かとすれ違った――僕だ。
夢の中で、僕は田辺さんを探し、やみくもに走り回っている。
夢の中の僕には、今の僕が見えていないようだ。
無我夢中で叫んだ。
「思い出せ」
けれど、その叫びは記憶の波と渦に巻き込まれ、くぐもった音にしかならなかった。
きょとんとした夢の中の僕を置き去りにして、僕は流されていく。
僕はショッピングモールの中にいる。そこはすでに水と泥で浸されていて、照明も落ちているようだ。
僕は彼女が寝ているはずのサロンに向かい、何とか歩を進めようとする。
しかし、海藻のような何かに足を取られ、僕は再び押し流されていく。
再び、暗いショッピングモール。
でも、僕の足は床に着いていない。流されていく。視線の先に、巨大な渦が見えた。やがて、全てが飲み込まれるだろう。
懐中電灯を持った僕が歩いている。クリーニング店の前だ。
何かにつかまろうとして、僕はスーツの下がったハンガーを掴んだ。
「思い出せ」
もう一度叫ぶ。いくつかのハンガーがラックの上を動き、音を立てた。
しかし、ひときわ大きな波が僕を押しやってしまう。
渦が目の前に迫った。
全てが回転していた。
保険の看板。ソファ。ベッド。コタツ。ラジオ。何着ものスーツたち。
僕がショッピングモールで目にしてきたあらゆるものが、円を描いてかき回され、そして壊されていく。
渦の中心は、ショッピングモールの屋上にあるようだ。三階の立体駐車場から順に、ショッピングモールが解体されていく。
僕は水浸しで倒れていた。
うどん屋の目の前だ。すでに二階までは倒壊したらしく、天井には穴が開いている。その向こうに、うなり声を上げる渦が迫っていた。
僕はサロンに向かって駆け出す。左足がねじくれてしまったのか、思うように歩けない。
すでに外れかかっている扉を強引にこじ開け、狭い通路に飛び込んだ。引きちぎらんばかりに、カーテンを引く。
彼女はベッドの上で眠っていた。布団から頭が出ていて、目は柔らかく閉じられている。
近づいてみると、穏やかな寝息が聞こえた。
僕はしゃがみこんで、彼女の髪を撫でる。
「ごめんね、僕は君を救えなかった」
僕はささやく。
僕らを吞み込んで、ショッピングモールは倒壊した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。