Side-B(3) 一つの別れと一つの魔法

「外に行くときが来たわ」

 ミユキ嬢は言った。

 冬が終わり、秋が始まろうとしている。外は寒く、僕たちは彼女の家で茶会を開いていた。彼女の家の電球が切れかけていて、先ほど僕が取り替えたばかりだった。真新しい電球の明かりが、彼女の表情に深い陰影を作っている。ここしばらくで、彼女はさらに若く、美しくなっていた。

 僕はそっとティーカップを置く。青いソーサーの上で、それはかちゃりと音を立てた。

「行かれるんですか」

「明日には、ね」

 自分に言い聞かせるようにミユキ嬢はつぶやき、一回だけ深呼吸をする。

「でも、私は恵まれている。私の過去は、病院で寝転がっている状態から始まるの。取り立ててやらなきゃいけないことなんてない」

 僕は小さく頷いて、彼女の話を聞く。

 彼女は精一杯強がっている。少なくとも、僕にはそう見えた。

「あなたにはお世話になりっぱなしだったわね。ありがとう」

 ミユキ嬢がそんなことを言うのは聞いたことがなかった。僕は面食らいながら、いえ、とだけ口にする。

 これでお別れなのだ、と僕は思った。胃の上、そして首の下、何か僕の身体の芯に近いところが、切り傷みたいに脈打っている。この街の誰が出ていくときも、そんなふうになったことはなかった。

「私に付き合うのは大変だったでしょう。話は長いし、気持ちは浮き沈みするし」

 そう言って、彼女は自嘲気味に笑う。

「でも、私はあなたに心から感謝しているのよ。あなたがいなければ、きっと私はもっと鬱々としていたはず。そして何一つ楽しい思い出のないまま、何一つ楽しい記憶のない過去へ戻っていくことになっていたわ」

「僕こそ、楽しい時間を過ごさせてもらいました。外に出ることのない僕にとって、この街での出会いが全てです」

 ミユキ嬢は「そうね」と返し、自分の手元を見つめた。

「あなたがいっしょに来てくれたらどれだけいいか。でも無理ね。私の記憶にあなたはいないんだから」

 僕もできることならそうしたかった。彼女はとても危うい。過去をなぞりながら、きっと彼女は精神をすり減らしていくだろう。そして心が死んだまま、記憶にある行動をただ機械的にこなしていくのだろう。

 そんな予測を抱いたまま、彼女をこのまま送り出すのは忍びなかった。

「前に話したことがあるかしらね。私の、『他人がいなかった体験』について」

「詳しくは何も。ただ、寂しい思いをしたとだけ」

 僕が正直にそう伝えると、彼女はゆっくりと頷いた。

「外へ出ていく前に、あなたにその話をしておきたいの」

 彼女がどういうつもりでそう言っているのか、僕には分からない。けれど、彼女にとってそれが重要であるということは、直感的に理解していた。

「性懲りもなく、また暗い話をすることになるわ。でも、決して不幸自慢をしたいわけではないことは分かってほしい。ここでこの話をしておくのは、ある種の決意表明みたいなものなのよ」

「決意表明」と僕は繰り返す。

「そう。気心の知れた相手にすら過去の話をできない人間が、この先、その過去を追体験できると思う?」

 彼女の逆説的な説明は、少なくとも僕にとって明快だった。

 自分はここで割り切っておかなければならない、ということを彼女はよく理解している。僕は彼女の茶会仲間として、この街で唯一の知り合いとして、死にかけていた彼女を間近に見た人間として、それを後押ししなければならない。だから今の僕にとって最重要の案件は、彼女の言葉に耳を傾けることなのだ。

「聞きましょう」

 僕は髪をかき上げ、祈るように手を組んだ。

 それが大仰に見えたのかもしれない。ミユキ嬢は微笑んで「そんなにかしこまっていられると、困っちゃうわね」と言う。

「さっき言ったことと矛盾しているかもしれないけれど、たいした話ではないの。私にとっては大きなことだけれど、言葉にするとすごく小さなこと」

 彼女の言っていることはよく分かる。言葉とは得てしてそういうものだ。

 それよりも、僕はミユキ嬢が微笑んでくれたことに心の底から安堵していた(別に笑いをとろうと狙っていたわけではないのだけれど)。

 嫌悪的な話を暗く話すのは一番体力を使う。それは、医療事故の話ばかりを聞いてから手術台に上るようなものだ。そんなふうに自分で自分を消耗させてしまうのは得策と言えない。

 とにかく、僕は馬鹿真面目に話を聞く体勢を作り、それによってミユキ嬢の表情が少し和らいだ。それがとても重要だ。

 ミユキ嬢はぽつり、ぽつりと話し始める。

「私は、ショッピングモールに閉じ込められたことがあるの」

「ショッピングモールに?」

「そう。もっぱら地元の人たちが利用している、小さなショッピングモール。ある日、街が結晶に包まれて、私はショッピングモールから出られなくなった」

 閉ざされたショッピングモール。どこかの小説にありそうな状況だ。

「私はそこで働いていて、結晶化が起きた瞬間も一人で開店準備をしていたわ。そこから長いこと、ショッピングモールから出ることも、誰かを外から招き入れることもできなかった。だから、私はショッピングモールの中で、


 ミユキ嬢の長い話が終わる頃、窓の外には朝日が昇っていた。もう少しすれば、夜のとばりが訪れる。

 ミユキ嬢は、世間から隔絶されたその一年で、深い孤独を味わっていた。

「私はもともと人嫌いだったから、最初は気楽でいいなんて思っていたのよ。働く必要もないし、何をしようが他人に干渉されることもない。それに、生活のための物資はいくらでもある」

 彼女はやはり自嘲気味に、そう口にした。

「でも、そんな気分は一か月ももたなかったわ。寝床からまったく起き上がれない日ばかり。自分一人だけのために食事を準備するのは億劫で、自分一人しかいないのに身だしなみを整える必要もない。生活することすべてが面倒になった。もう、廃人同然よね」

 彼女はその一年間で大きく変わってしまったという。自分に関するあらゆることが煩わしく、つまりは自分を大切にできなくなった一方で、生活に支障をきたすほどに他人の目へ不安を抱き続ける。

 そんな状態で、彼女は残りの人生を歩んだのだ。

「あのショッピングモールが、私の分岐点だった。あれが少しでも違っていれば、私の人生はもっと怖くなくて、もっと華やかだったのかもしれない――いえ、これは甘えね。それに気付いていながら、一生を終えるまで自分を変えられなかった私自身の問題なのかもしれないわ」

 もう少しでも違っていれば。

 彼女はその仮定を繰り返し口にする。諦念を含んだその口調は、もはや願いですらない。祈りのようだと思った。

「今でも思うのよ。ショッピングモールに閉じ込められるなんてことがなければ――いえ、閉じ込められたとしても一人きりでなければ、なんてね。たとえばあなたが一緒にいてくれるとか」

 彼女は「おかしいわね」と言って笑う。

「この街で嫌というほど学んでいるのにね。過去は変えられないって」

 僕は何も答えられない。無力だ、と思う。彼女が経験した孤独を、僕にはどうやっても癒すことなどできない。

 彼女は冷めきった紅茶を一口すすり、窓の外へ目を向けた。もう話は終わったのかもしれない。終わっていないのかもしれない。僕も彼女と同じように、外の景色を見る。

 朝日が湖の表面を照らす。それは涙のようにきらきらと光っている。いつもと変わらない湖の静かな風景だ。この街は変わらず、こうやって水をたたえているだけ。

「フェリーは来なかったわ」

 彼女がぼそりとつぶやく。

 この街にやって来たばかりの頃、同じような言葉を聞いた。フェリーを待っている、それは空を飛んでくる、と彼女は言っていた。

「フェリー」と僕は言う。

 ミユキ嬢は僕へ目を向ける。たった今、自分がフェリーについてつぶやいたことなど忘れたように。

 僕は何の気なしに尋ねる。

「フェリーって、何のことでしょう?」

 彼女は少しの間ぽかんとし、それから茶目っ気たっぷりに微笑む。

「フェリー? この街にフェリーなんて来ないでしょう? あそこに見えるのは湖よ」

「でも、今『フェリー』って」

「ははは。そういうことね」

 ミユキ嬢は楽しそうに口を開けて笑う。

 僕には何が何だか分からない。でも、彼女が楽しそうにしているから、それはそれでいいのかもしれない。

「フェリーじゃないの。私の発音の問題ね」

「フェリーじゃない?」

「ええ。あなたにはフェリーって聞こえていたのね。それは確かに混乱するでしょう」

「それじゃあ何のことを?」

 彼女はにこにこしながら、「ただの妄想よ」と言う。

「絵本か何かで読んだのかしら、もう忘れてしまったわ。ただ、彼らであれば、魔法で私の過去を変えられるんじゃないかって思っているの」

「彼ら?」

 彼女は言う。


 混乱が解けぬまま、僕は茶会の片づけを終え、家へと帰る。

 ミユキ嬢はこの街を出て行ってしまう。明日にはと言っていたけれど、もしかしたら今夜のうちにひっそりいなくなってしまうこともあるかもしれない。

 そして彼女の言っていた「妖精」。

「ミユキおばあさんの言っていたことが気になるの?」

 いつの間に姿を現したのか、妖精が僕の頭上を飛んでいる。鈍い黄色を放つ電球の下で、やわらかい光を放っていた。

「うん」

「言葉どおりの意味よ。ミユキおばあさんは、絵本か何かで読んで、妖精なら過去を変えられるんじゃないかって思っている。それだけ」

「たぶんそうなんだろう」

 僕は言う。

 でも本当にそれだけなんだろうか。妖精の見える僕のもとに、妖精を欲する人がやって来る。偶然にしてはできすぎているような気がした。

「身も蓋もないことを言うけれど、君は、僕が作り出した妄想なんだよね」

「さあね。あたしはそう思っていないわ。それってあたしの存在そのものに関わることだもの。もしあたしがあんたの妄想だったら、あたしは自分で自分の存在を否定することになるわ」

 妖精はなまめかしい姿態で僕の方を見つめ、それから「でも」と言った。

「あんたがあたしのことをどう思おうと、それはあんたの勝手。あたしにとって、あたしはあたし。妄想ではなくて、きちんと実在している。でもあんたにとってあたしが妄想に過ぎないというのであれば、好きに考えてもらってかまわない」

「僕の自由ということ?」

「自由、とは少し違うかな。結局、人の頭ん中なんて、どうしたって変えられやしないのよ」

 僕は椅子に座る。

 そして、ずらりと並んだ日記帳の背表紙を眺める。

「変なことを聞くけどさ」

 僕は切り出す。妖精は返事をせず、目線だけで続きを促す。

「僕が、君が実在すると信じたとする」

「あくまで仮定の話ね。いいわ、あんたがあたしの存在を信じたとする。それで?」

「そうすれば、君は過去を変えられる?」

 妖精は黙った。この話題は、少なくとも妖精にとって不都合なものであるらしい。

 家に帰って来た直後からそうだった。妖精は、「過去を変える」ことから、話を逸らそうと必死だった。逆を言えば「過去を変える」ことについて、妖精にはいくらかの真実があるのかもしれない。僕はそう考えた。

 妖精はしばらく考えを巡らせているようだった。僕も黙って、相手の話を待っている。我慢比べみたいだ。

 やがて観念したのか、妖精は口を開いた。

「過去を変えられるかどうか、ね。それだって、あたしの存在と同じよ。あたしが過去を変えられるってあんたが信じるのなら、少なくともあたしとあんたにとってそれは真実になる。あんたが信じないというのなら、あたしが何をどう力説したところで、過去なんて変えられない」

「つまり、僕が君の存在を信じ、君が過去を変えられると確信していれば、それは可能ということだね」

「あんたにとってはね。過去を変えられるとして、全ては自分の妄想なのではないかという疑念は、常にあんたに付きまとう。自分がただ単に、過去に戻っているという幻想に憑りつかれているだけなのではないか。そんな不安を一蹴できるほどの信念が必要よ」

「それなら問題ない」

「大丈夫なの? さっきまで、あたしのことを自分の妄想だって言っていたくせに」

「大丈夫」

 僕はもう迷わない。妖精は不思議そうに僕の方を見ている。

「正直なところ、これがすべて――君の存在も過去を変えられることも――僕の妄想であっても、それは関係ない。僕は彼女も、僕自身も、このままではいけないと思うんだ。僕は彼女のために何かをしたい。僕自身のためにね」

「よく分からないわ。でも決心は固そうね」

 妖精は僕の太ももへと降り立ち、こちらを見上げる。

「あんたがなぜミユキおばあさんにこれほど執着するのか不思議だわ。まるで恋しているみたい」

「恋ではないと思うよ。でも、それも含めて、自分でもよく分からないんだ」

「ふうん」

 妖精は、もう僕の感情に興味がなさそうだった。何度か手を打ち鳴らし(その度に線香花火のような火花が散った)、何かを確認している。

 それから再び僕の方へ向き直り、人差し指を立てた。

「今から大事な話をするわ。過去へ向かうにあたって、ね」

 僕は頷く。ミユキ嬢の過去を変えることは、もう決定事項なのだ。今さら臆していてもしようがない。

「私が話せるのは三つ。その三つ以外は、質問されようが脅されようが絶対に話すことができない」

「それは妖精のルールみたいなもの?」

「ノーコメント」

「もう質問はできないんだ?」

「ノーコメント」

 要は、このチュートリアルを黙って聞くことが最初のステージらしい。僕は腕組みをして、妖精の言葉を待つ。

「一つ目、これは基本的な説明よ。あんたはなるべく不自然でないかたちで、ミユキおばあさんの過去へと放り込まれるわ。そして目標を達成するまで――あるいはあんたがあきらめるまで、その過去の中で生き続ける。目標は、あんた自身がよく分かっているでしょう?」

 僕は頷く。ミユキ嬢に、「一人ではない」という思いを抱いてもらうこと。それこそが、彼女の過去へ僕が潜り込む最大の目的だ。

「二つ目――正直、二つ目と三つ目は、リスクの説明になるわ。過去を改変するには、それだけ大きな代償が発生する。まずは、あんたが過去に戻っている間、。当然、ミユキおばあさんは年を取っていき、やがて息を引き取ることになるわ。それがあんたのタイムリミット。それまでに過去の改変をうまいこと進めないと、全てはリセットされてあらゆる努力が水の泡よ。まあ大事なのはそこじゃない。一番大事なのは――」

 妖精は僕の目をぐっと覗き込んできた。

 とても小さいはずの妖精の目に、僕の顔が大写しになっている。

「あんたの大切なミユキおばあさんに、死の苦しみを再び味わわせるのか、ってことよ」

 僕は思い出す。この街に来たばかりの頃、苦しそうに鳴っていた彼女の胸の音を。表情を失って天井を見上げるだけだった彼女の顔を。

 彼女が再び死んでしまう前に、僕はやり遂げなければならない。

「分かっている」

 僕は深く頷く。妖精は真顔のまましばらく僕を見ていた。何かを見定めるように。

「最後、三つ目よ。さっき、タイムリミットまでに目標を達成できなかったらすべてが水の泡だって言ったわね」

 僕は頷く。もちろん、代償がそれだけで済むはずがない。世の理に反したことを僕らはしようとしているのだ。

「さらなるリスクよ。失敗したら、あんたは大事なものを失う」

「大事なもの?」

 答えられないと言われていたにもかかわらず、僕は疑問を口にしていた。

 案の定、妖精は困ったように微笑むだけだ。

「それが何かはまだ伝えられないの。あんたにとって、とても大切なもの」

 僕にとって大切なもの。僕はいくつかの可能性について思いを巡らせる。僕にとって、奪われて困るようなものはない――少なくとも、具体的な事物に関して言えば。

「もし失敗してしまったら、そのときにあたしがあんたに伝えるわ。あんたが何を失うのか、ね」

 僕は頷く。今ここで、失敗したときのことを心配しても仕方がない。過去の改変を絶対に成功させる。僕はそう自分に言い聞かせる。

「それじゃあ、心の準備はいいかしら?」

 妖精はこちらに問い掛ける。いいよ、と僕は返す。

 ぐるり、と世界が揺れた。

 水中に沈んだように、赤茶色の背表紙たちが波打つ。何かのうねりが、僕を飲み込もうとしている。船が沈む直前の船員みたいに、僕は慌てて息を吸う。波が僕へ覆いかぶさる。そのまま、僕は巨大な渦の隙間に落ち込んでいった。

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