Side-A(3) ショッピングモールの秋

 秋がやって来た。僕らの救助に関することは、何も進展していなかった。

 そして僕らの食糧事情は、いよいよ過渡期を迎えていた。

 カップ麺をはじめとする、インスタント食品が食事の中心になり始めたのだ。カップ麵と言えど、消費期限は一年もないことを僕は初めて知った。インスタント食品のほかに残っているのは缶詰や防災食だけれど、もし冬をここで越さなければならない場合、それらが僕らの主食になるはずだ。だから、むやみに今食べることは避けたかった。

「栄養の偏りが心配だわ」

 田辺さんは言った。夏を経て、彼女は敬語をやめたらしい。僕にとって、好ましく感じられる変化だった。

 彼女は薬局から、いくつかのサプリメントを持ってきた。ビタミン、たんぱく質、といった文字が並んでいる。さらに、胃薬の錠剤もちらりと見えた。

「不足している栄養をこれで補うということ?」

 僕が尋ねると、彼女は大きく頷く。

「栄養素って、ばかにできないから」

「僕はいいよ。今までも――つまり、このショッピングモールで生活し始める前までも――わりと無茶な食生活をしてきたけれど、特に問題はなかったんだ」

 彼女は信じられないというふうに「ええ?」と声を上げた。

「これから毎日、インスタントラーメン、インスタントカレー、カップ麺、パスタのサイクルよ。名付けて炭水化物パレード。お腹がもたないわ」

「大丈夫。危ないなと思ったら、サプリもちゃんと飲むようにするから」

「本当かしら? お酒も、最近は毎晩飲んでいるでしょう?」

「ううむ」

 結局、僕に関しては一週間の様子見という話になった。彼女はすぐにサプリメントの服用を始めるらしい。

 僕と彼女は軽口を楽しめるようになっていた。僕が彼女に意見することもあるし、彼女が僕のことを面白おかしくなじることもある。人付き合いにどちらかというと消極的な僕らにとって、大きな進歩と言えた。ある意味では(つまり、人付き合いに消極的な僕らの基準で考えた場合には)、友人を超えて家族に近い間柄と言えなくもない。

 そんなふうにして、僕らは三つ目の季節を迎えた。


 彼女の心配をよそに、僕の食欲は増していた。

 ファストフード、ジャンクフードのような塩気の強い食べ物はもともと好きなのだ(ファストフードとジャンクフードって何が違うのだろう?)。田辺さんはここ二、三日で、濃い味付けに早くも辟易しているようだ。一方で、洗い物が少ないのはいい、なんてことを言っている。

 カップ焼きそばの夕食と身支度(田辺さんはシャワーだ)を終えた僕らは、館内を消灯した。田辺さんのベッドがある方からは、ドライヤーの音が小さく漏れている。

 僕はソファに座り、読書灯を点けた。

 二階の保険相談窓口は、いよいよ僕の私室としての色合いを濃くしている。ベッド代わりでもあるソファの横にはサイドテーブルを置き、そこに読書灯と乾電池式ラジオを設置していた。僕は氷の入った切子グラスにウイスキーを注ぐ。

 一口飲み込むと、焼けつくような熱さが喉元を通り過ぎていく。僕はその熱の行方を追い続けた。喉、食道、そして胃。自分の身体が管によって構築されていることを再確認する。

 カップ麺の名残で口が渇く。そこへ膜を張るように、ウイスキーをもう一口、もう一口とあおった。

 ラジオからはスイーツ特集なんかが聞こえてくる。今日のお題はメロンパンらしい。全国の「メロンパンがおいしいお店」を、リスナーの投稿を基に紹介し続けるという企画のようだ。

 ここ最近、結晶化現象についてはテレビでもラジオでもほぼ扱われていない。ごくまれに、朝の天気予報と併せて「○○区の結晶化現象は依然変わりありません」なんてコメントが入るのを耳にするくらいだ。

 店長からの電話もついに途絶えた。一か月に一度はこちらから掛けて生活の状況を報告するようにしているけれど、「ああ、そうね。はいはい」と面倒くさそうな返事が二、三もらえるだけだ。

 僕は店長の立場を想像しながら、さらにウイスキーをなめる。右手に持ったグラスの中で、氷が渇いた音を立てた。自分の店が結晶化現象で閉ざされてしまう。けれど自分は雇われの身だから、本部からすぐに別の店舗への出向を命じられ、日々忙しく働いている。閉ざされた店には従業員が二人取り残されていて、何もできず申し訳なく思うが、モール内の物資を活用して何とか生活できているらしい。三か月ほどで解消されると思われていた結晶化現象は収まらず、自衛隊も「これではどうにもできない」とにべもない。

 僕は「うん」と、見えない誰かに相槌を打つ。店長が連絡を寄越さなくなるのも無理はない。自分たちでどうにもできないことが多すぎるのだ。それに、店長が忙しい毎日を過ごしている半面、僕らはモールの中で暇を持て余している。僕らに、店長のことをとやかく言う筋合いはないだろう。

 ウイスキーは空になり、僕は二杯目を注いだ。氷を足したい。それに、何かつまみになるようなものが欲しい。

 僕は立ち上がり、懐中電灯で辺りを照らしながら階下へ向かう。

 そう言えば小腹が空いた。ここのところ、食欲が日ごとに増している気がする。つまみと言わず、何かを食べてみようか。

 結局、僕は小ぶりなカップラーメンに湯を注ぎ、酒の肴にした(それとも「〆」と言うべきだろうか)。

 さすがにスープを飲み干しはしなかったけれど、ものの数分でぺろりと平らげる。僕は満足して、自分の寝床へと戻った。


 翌朝目覚めたときに、何かがおかしい、と思った。でも、何がおかしいのか、しばらく分からなかった。

「ご飯の準備、できたよ」

 田辺さんがそう声を掛けてくれる。僕は、「うん」と返事をして上体を起こす。

 ゆっくり自分のみぞおちを撫でてみる。

 何か硬い塊が、胃の中に横たわっているのだ。それはしくしくと脈打ちながら、僕の中でたまに寝返りを打つ。

「大丈夫? 顔色がよくないみたいだけど。たくさん飲んだの?」

 二日酔いではないはずだ。頭痛もめまいもない。田辺さんが心配そうにこちらを覗き込む。

 大丈夫だよ、と言いたかったけれど、僕は口を開けなかった。おもむろに立ち上がり、普段は使わない二階の化粧室を目指して駆け出す。

 何がとは言わないが、間一髪で僕は間に合った。そして、それが長い闘いの始まりだった。


 午前中、僕はゴミ箱を抱えたまま便座に座り続ける羽目になった。絶え間なく腹痛や嘔吐が襲い掛かる。胃の中の塊は相変わらず寝返りを打ち続け、僕はその度に冷や汗を流した。

 昼頃に、一時的な落ち着きがやってきた。僕はげっそりとソファへ戻り、汗まみれのまま横になる。

「ねえ、調子はどう?」

 田辺さんが尋ねてくる。

 僕は症状をかいつまんで説明した。昨日、夜食にカップ麺を食べたことも含めて。

「きっと胃腸炎ね」

「胃腸風邪みたいなもの?」

「ううん。あなたの場合は、暴食による胃の炎症」

 なんだか、自分がどうしようもない間抜けになった気分になる。

「胃腸炎のときは、まず胃を空っぽにしなきゃだめよ。食べてもすぐ吐いちゃうんだから。水分補給だけはしっかりね。後で白湯を持ってきてあげる」

 彼女のてきぱきとした指示に、僕は頷くしかない。

「もしかしたら熱が出るかもしれないから、体温計と冷感シートも用意しておかなくちゃ」

 そして彼女は、あれこれを準備するために去っていく。

 僕は痛みと吐き気の第二波に襲われ、またしばらくの間、トイレと仲よくすることになった。


 夢の中で、僕は極彩色の電車に乗り込んでいた。電車は人の叫び声みたいな音を出して走り出す。人が多くてしかも左右に揺さぶられるものだから、僕は息苦しくなった。

 ひときわ大きく車両が右に揺れた拍子に、僕は隣に立つ人のつま先を踏んでしまった。

 隣に立っていたのは大きなにわとりの頭をしたサラリーマンで、甲高い悲鳴を上げた。

「踏んだな!」

 非難がましく、僕の方を指さす。

「踏んだな!」

 にわとりだけでなく、周りの人々(それぞれ、豚や猿、牛、馬といった動物の頭をしていた)も一緒になって僕を指さす。

「踏んだな! 踏んだな!」

 僕は、特に不安も恐怖も感じることなく、ただひたすら「ああ面倒なことになった」という脱力気味の不快感を抱くだけだった。「踏んだな」のコールはいつまでも続いた。

 目を開けると、無機質な天井と眩しい照明が見えた。思わず手で目をかばう。

「あ、起きた?」

 田辺さんの声がする。

 彼女は僕の寝ているソファを背もたれにして、小説を読んでいた。僕の身体にはいつの間にか毛布が掛けられている。

「体調はどう?」

「腹痛と吐き気はだいぶ落ち着いたかな」

「熱は?」

「眠る前に少し上がっていたけれど」

「もう一度測ってみて」

 体調を崩して誰かに看病されるなんていうのはいつぶりだろう。僕には思い出せない。

 田辺さんがさりげなく、タオルで僕の額と首筋を拭ってくれる。

 そんなふうにされると熱が上がってしまうのでは、と僕は心配になる。体調が悪いとはいえ、明らかに僕の心拍数は上昇していた。

 体温計が小鳥のようにさえずる。懸念は当たり、そこには三十七度後半の数値が表示されていた。

「まだだいぶ高いわね。ほら、これ飲んで、またゆっくりしていて」

 田辺さんがマグカップの白湯を差し出した。受け取って、一口含む。水分が欠乏しているのだろう、白湯がとても美味に感じられる。

「僕に付きっきりになる必要はないよ」

「別に、本なんてどこでも読めるから、どうせならここで読んじゃおうと思っただけ」

「これが、もし人にうつるものだったら――」

「ないない、大丈夫。どこからどう見ても、食べ過ぎ飲み過ぎによる胃腸炎だから」

「ううむ」

「気にしないで寝ていて?」

「もし、僕がここで急な腹痛に襲われて、万が一嘔吐してしまったら――」

「あ、何? 私が嘔吐物をぶっかけられるんじゃないかって気にしているの?」

「まあね」

「ははは。それはそれで面白い経験ね」

「笑い事じゃないよ」

「でも大丈夫よ。ここに袋付き洗面器があるし、そうそうそんな事態は起こらない。かえって、寝ている間に吐瀉物を誤飲していないか、ここに居ればすぐ確認できる」

 てこでも動かなさそうだ。僕はあきらめて、ソファに再び横たわる。

「すぐによくなるから。今はしっかり休むの」

 彼女の手が僕の額を撫でる。ひんやりとして、心地よかった。


 幸いにして、僕の胃腸は数日で回復した。それ以降、僕は飲酒量や間食・夜食を抑えるようになり、彼女の忠告に従って胃薬やサプリメントも服用し始めた。

 結局、僕が回復するまでの数日間、彼女はそばで看病してくれていた。そのお礼をしなければと思うのだけれど、閉ざされたショッピングモールの中では、プレゼントを用意することも、食事に誘うことも叶わない。胃腸がだいぶよくなった頃、何かの拍子に「ありがとう」と言ったことはあったけれど、それだけだ。彼女はそのとき、「私が体調崩したときは、よろしくね」と笑っていた。

 そのうち、僕らはある現実的な課題に直面し始めた。冬の接近だ。

 ここの空調は暑さに強く、寒さに弱い。暖房機能に多少の不具合があるまま、強引に使い続けているからだ。だから、夏にはなんとかなっても、冬を迎えるには工夫が必要だった。

 僕らは何度かその問題について話し合い、暖房器具の在庫を確認した。ここに閉じ込められたのは春だったから、冬物の在庫がいくらか残されていて助かった。

 コンセントの位置や空気の循環について勘案し、僕らは「ホットスペース」を用意することに決めた。

「リビングみたいに、基本的に日中はその『ホットスペース』で過ごしましょう」

 そう彼女は提案した。

 スペースの候補は三つ。

 一つ目は、食事に使っているうどん屋だ。扉を閉めてしまえば密閉性が高く、室内温度を維持しやすい。食事の準備にも便利で、ソファ席もあるからくつろぐことができそうだ。

 二つ目は、モールの隅にあるネイル・エステサロンだ。ここも密閉性が高く、何よりベッドが二つある。つまり、冷え込む夜はそのベッドで就寝するということも可能なわけだ(ただし、二つのベッドを仕切るのはカーテン一枚)。

 三つ目は、僕が今寝床にしている保険相談窓口だ。密閉性は候補の中で一番弱いが、カーペットが敷いてある。だから、そこにコタツを設置して周囲を電気ストーブで囲めば、かなり暖かいのではないか。

「候補を絞るには、まず眠る場所をどうするかが問題ね」

 彼女がフロアマップを見ながら言う。

「間違いない。君はどうする?」

「最初、湯たんぽと毛布がいくらかあれば大丈夫かなって思ったのよ。でも、最近の冷え込みを考えるとちょっと心もとないわね」

 彼女が寝所にしているベッドは、家具用品の展示そのままだ。だから、周りに物が少なくて、冷気の吹きさらしになるような配置になってしまっている。

「そもそも」

 彼女が一本指を立てる。

「私たちは『ホットスペース』が一つだけという前提で話しているけれど、それはなぜかしら?」

「確かに」

「結局、このお店に気を遣っているだけなのよね。ずばり、電気代について」

「うむ」

「でも、私たちはここでもう三つのシーズンを過ごしているのよ。そしていよいよ、四つ目の一番大変な季節がやって来る。もうこれは、電気をどれだけ使おうが、文句を言われる筋合いはないと思うのよ」

 なるほど、と僕は返す。彼女の言うことは間違っていない。ここまで来たら、何を遠慮することがあるだろう。

 そういうわけで、僕らは三つの候補地をすべて有効活用することにした。日中はうどん屋を基本の「ホットスペース」にする。そして、夜から朝にかけて、ネイル・エステサロンと保険相談窓口を暖める。僕は保険相談窓口で、田辺さんは展示のベッドではなくネイル・エステサロンで就寝する。

 僕らはありったけの電気ストーブや加湿器を、それぞれの「ホットスペース」へと運んだ。


 その夜、僕はコタツに足を突っ込んだまま、ラジオを聴いていた。

 最近は、エンターテインメント路線の番組に聴き疲れてしまい、落ち着いたジャズを流すような番組ばかり選ぶようになっている。

 今夜はビル・エヴァンズがアレンジした「星に願いを」に耳を傾けながら、温かいウーロン茶を飲んでいた。最近、ホットウーロンをよく夜のお供にしている。酒を全く飲まないわけではないが、晩酌でだらだらと飲み続けることをやめたのだ。コーヒーや紅茶もカフェインが多く、胃痛につながってしまうので、結果としてお茶に落ち着いている。

 読書灯だけの暗闇の中、こうしてジャズに耳を澄ませていると、自分を取り巻く何もかもが静かに広がっていくような気分になる。僕は今、非常に具体的な存在としてここにいる。暗いショッピングモールの中で、ラジオとウーロン茶だけを手元に置き、コタツの熱を感じている。でも世界には、夜明けを迎えた青空も、今起き出して働き始める人も、産声を上げたばかりの赤ん坊も存在しているのだ。僕は彼らのことを夢想しながら、深いため息をつく。

 足音が聞こえた。パタパタパタ、と誰かが階段を上がってきている。次いで、懐中電灯の明かりが見えた。

「田辺さん?」

「来ちゃった」

「来ちゃったって、なんで?」

 田辺さんは僕の隣へ滑り込み、「コタツ暖かい!」と言った。

「これまでは、なんだかんだ二人とも同じフロアで寝ていたじゃない?」

「うん」

「でも、今日から私は一階になったわけで。さっきまで電気を常夜灯にして横になっていたんだけど、何ていうか落ち着かなくて。それで、つい来ちゃった」

「なるほど」

 僕はそう言う。それ以外に、何と返していいか分からない。

 田辺さんはそんな僕の様子を見て笑っている。彼女はすでに僕の性格を熟知しているから、僕が返事に困っているのもよく分かっているはずだ。

「迷惑だった?」

 彼女の問い掛けに、僕は首を振る。

「いや、そんなことはないよ。サロンの暖房は効いている?」

「うん、バッチリ。でも人間って不思議ね。ベッドで寝始めたころは、こんな広い空間で眠るなんて無理、って思ったものだけれど、今となってはその逆。サロンで寝ようとすると、こんなに囲まれたところは息苦しい、なんて思っちゃうんだから」

 彼女の言うことはよく分かる。住めば都、というやつかもしれない。

「何飲んでいるの?」

「温かいウーロン茶。飲む?」

「あるの?」

「ポットと、茶葉をいくらかここに置いてあるんだ。カップもあったはず……」

 僕は保険相談窓口の隅にある棚をごそごそといじる。そこは半ば、僕の小物置き場と化していた。

「用意がいいね。私がいつでもここに来られるように準備してくれていたんでしょう?」

「そのとおり、よく分かったね」

 そんな軽口を叩き合いながら、僕は彼女の分のお茶をこしらえる。カップにお湯を入れ、そこにティーパックを投入する。それだけ。

 再び二人並んで、彼女のホットウーロン茶が出来上がるのを待った。

 ラジオは、ビル・エヴァンズ特集からソニー・ロリンズ特集へといつの間にか変わっていた。

「ラジオ、いいわね。こんなにおしゃれだとは思わなかった」

「最近はテレビがやかましく感じるようになっちゃってね。ラジオくらいが僕にちょうどいいんだ」

「分かる気がする。私も、最近はエンタメ小説よりも、静謐な純文学の方が読んでいて落ち着いたりして」

「純文学なんか読めたの?」

「どういうことよ」

 彼女がふざけて僕の肩をぺしぺしと叩く。

 そうこうしているうちに、彼女のお茶が出来上がった。僕はティーパックを小さな袋に入れ、口を縛ってゴミ箱へ入れておく。

「ありがとう。手間を掛けさせちゃってごめんね」

「全然。温かいものを飲めば、気持ちも休まるよ」

 彼女は一口、ホットウーロン茶をすすった。僕は隣で、彼女の深い呼吸を聞く。

「私たち、いつまでここにいることになるのかしら?」

 僕は黙って首を振る。それを考え始めるときりがない。それに、こんな時間に不安を喚起する必要もないだろう。彼女が余計に眠れなくなるだけだ。

 彼女にしても、僕が具体的な日数を予想できると期待しているわけではないだろう。つまり、先の見えない不安を、彼女は共有したいだけなのだ。

「不安になっているの?」

 僕は直接的に尋ねる。こういうことは変に遠回しにしない方がいい。

「ええ。主に食事のことね。冬が来ればいよいよ缶詰中心の食事になるわ。私たちが乗り越えられるのはそこまで。次の春もここで過ごすとしたら、と考え始めると、心臓がドキドキしちゃって」

「分かるよ。ごめんね、食事のことは君に任せっきりだから、余計に悩ませてしまっているのかもしれない」

「いいの。これは誰のせいでもないんだから。ただ、私が勝手に不安になっているだけ」

 もしかしたら、何かしらの覚悟を決めるときが来るのかもしれない。僕はそんなことを考える。でもそうなったとき、僕は何としても彼女だけは守り抜きたかった。

「でも」

 彼女が言う。その言葉は、どこかきっぱりとした調子を帯びている。

「あなたがいてくれてよかった」

「それは、一人でなくてよかったということ?」

「まあ、そういうことね。私一人だったら、こんな環境耐えられなかったと思うもの」

 僕はお茶を口に含む。それはほんのりと温かさを保っていた。

「それは僕も同じだよ。感謝している」

 普段口に出せないことを伝えるのに、夜という時間帯は最適だった。それと、この暗がりも。

 彼女が肩をぶつけてきた。

「何だよ」

 振り向くと、彼女はにやにや笑っている。

「そういう台詞、恥ずかしくない?」

「言うなよ」

 二人して笑う。

 僕と彼女の夜はこうして更けていった。

 やがて来る、冬の時代を前に。


 僕は夢を見る。僕は一人で、暗闇の中を歩いている。不思議と恐怖は感じていない。

 僕は手に持った懐中電灯で辺りを照らす。

 そこは広いクリーニング店らしい。大きさも色も様々な衣類が、上から下まで所狭しと吊り下げられている。

 僕は辺りを見回すけれど、出口が分からない。

 右、左、右、とやみくもに進むうち、自分がどこからやって来たのかも分からなくなってしまう。

 田辺さんはどこだろう?

 唐突に僕は理解する。僕は彼女を探しに来たのだ。彼女はこの広いクリーニング店に迷い込んでしまって、僕は彼女を連れ戻したい。

 彼女の名前を呼びかけたいのに、僕の喉は震えてくれない。声の出し方を忘れてしまったのだ。

 僕はさらに、奥へ奥へと進む。

 最後に僕が出たのは、一面にスーツが並んだ行き止まりの路地だった。これ以上、進むことはできない。

 わずかに後ずさった僕の後ろから、誰かの声がした。

「思い出せ」

 僕は振り向かなかった。全てを思い出したからだ。

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