Side-B(2) これから訪れる過去

 僕は数週間、彼女のためにせっせと三食分の食事を用意し続けた。

 日に日に、ミユキ嬢は回復した。

 果物の次に、粥やスープが食べられるようになり、やがては軟らかい煮物を頬張るようになった。同時に食欲も増していく。

 ベッドで上半身を起こしていることが普通になり、そのうち杖をついて歩き始めた。交換所にはしばらく僕が代わりに通っていたが、それも自力でこなし始めた。

 彼女はよくしゃべるようになった。

 病んだ肺の喘鳴はすでに聞こえない。代わりに彼女は、交換所にいる人間の愛想が悪いだの、足が悪くなければ畑をいじくりたいだの、よくもまあそれだけ話すことがあるものだと感心するほどにいろいろな話をしていた。

 と言っても、その頃彼女は自炊をしていたし、それに伴って僕の訪問頻度も下がっていた。だから人恋しかったのかもしれない。とにかく、僕が顔を出すと彼女は嬉々として紅茶を入れ、飽きることなく話し続けた。

 それで僕が辟易したかというと、実はそうでもない。一緒にいる妖精は時折げんなりした様子を見せたが(裏を返せば、それは僕自身がげんなりするときも間々あるということに他ならないのだが)、僕は他人の長話を聞くことについてそれほど苦と思わなかった。

 僕は気の利いたことを言える方ではないし、それならば聞き役に徹する方が性に合っている。それに、彼女は愚痴めいたことを口にしてばかりだったものの、その内容も量もまあ常識的と言っていい範囲に収まっていた。

 そんなふうにして、僕らの茶会は不定期で開催されていた。


 天気のいい日は、外にテーブルと椅子を運び出して(こういったことは主に僕の役目だった)、外でお茶を飲むこともあった。

 彼女の家の庭は広かったし、青々とした長い芝が続いていて、品のよい中庭という雰囲気だった。もとより、どこまでが誰の敷地かなんて線引きは、この街であまり意味をもたないのだ。やろうと思えば、街路の中心でお祭りだってできる。誰もやろうとはしないけれど。

 お茶会に近所の人を誘おうと画策したこともあった。ミユキ嬢にとって、僕との一対一の関係を続けるよりも、話のできる相手を増やしていった方がよいだろうと思ったのだ。しかし、彼女はそれを嫌がった。

「あなたが親切心で提案してくれているのは知っているわ。本当にありがたいと思う」

 彼女はそのとき、そう言った。

「でも、私はそういうのが本当に苦手なの。知らない人と話すなんて場面になると、何か話さなきゃって気持ちだけがぐるぐる渦巻いて、そのくせ言葉なんてこれっぽっちも出てこない」

 そうは見えない、と僕は言った。

 少なくとも、僕と話す彼女は饒舌だ。それに、僕とだって長い付き合いというわけじゃない。たまたま彼女のやって来た家のお隣さんが僕だったというだけだ。

 そう伝えると、彼女は笑う。

「あなたはいいのよ」

「どうして?」

「半分死んでいるところを見られたようなもんでしょう?」

 つまるところ、彼女は他人に対して、自分の弱みを見られるのが嫌らしい。たとえば、口下手なところや、何か失敗をしているところ、何かがうまくいかないところ。

 そして、彼女の衰弱しきった姿を目にした僕になら、むしろ何を見られたっていいのだそうだ。

 僕には、彼女の言うその感覚がいまいちピンとこない。でも、彼女がそう言うなら、無理強いして他人を巻き込む必要もないだろう。

 そうして僕らはたまに、二人だけのお茶会を開く。

 しゃべるのはほとんど彼女だ。僕は彼女の愚痴や発見や推測や情感に耳を傾け続けた。


「風が涼しくなってきたわね」

「夏がもう終わるんですよ」

「次に、春が来るわけね」

「ええ」

 強い日差しを雲が覆っている。もしかしたら半日後には雨でも降るのかもしれない。

 雨は面倒だが、連日の猛暑に汗を流していた身からすると、この涼しさがなんとも嬉しい。

 僕はアイスティーを口に含み、チョコレートの袋をごそごそまさぐった。

 そんな僕の様子を、ミユキ嬢はにこにこしながら見ている。はたからは、祖母と孫が談笑していると受け取れるかもしれない。

「ここに来てどのくらい経つかしら?」

 僕は首をかしげる。

 彼女がここに来たとき、菖蒲湯の季節だったことは記憶している。ただ、ここでは季節が逆回しだからややこしい。

「十か月ほどですかね?」

「身体もすっかり元気になったわ」

「これからもっともっと元気になりますよ」

「不思議な感じね。こうやって、わずかずつ私たちは若返っていくのね」

「そうです」

 ミユキ嬢が老婆であることには変わりがない。でも、ここで何年と経つうちに、きっとしわは薄くなり、髪にはつやが戻っていくのだろう。

「外に出るのは怖いわ」

「みんなそう言います」

 ミユキ嬢は白くて長い髪を数回撫でつけた。

「変な感じがする。私は老婆で、今までの人生を記憶しているわ。だけど、ここでは時間が逆に流れている。だから、私たちは時が来ると――つまり、一番最近の記憶の時期が近付いてくると、外に出なきゃいけない」

 そう。

 ここで過去は、過ぎ去ったものではないのだ。過去はこれから訪れるものなのだ。

 人はみな、外に出ることを恐れている。

 特に、ネガティブな記憶を抱えている人はそうなる。でも、過去を無視することはできない。これから訪れる過去を、逆回しで生きる僕たちはなぞっていくしかないのだ。

 みんな、まだ大丈夫、まだ大丈夫とごまかしながら暮らしている。きっと今春ではなくて次の(つまりさらに一年前の)春だ、なんてせりふは何度聞いただろう。

 そして、あるとき、気付くのだ。

 ――時が来てしまった。

 もう街を出なければいけないと。

 いなくなったツムラさんたちも同じだったのだろう。

「いきなり重役会議だよ」

 と笑って出ていった人もいる。

「まずいなあ、修羅場だよ修羅場」

 と言って出ていった人もいる(どんな修羅場なのかは絶対に教えてくれなかった)。

「俺、とりあえずこの後、車にはねられるんだよね」

 と青ざめて出ていった人もいる。

 ミユキ嬢の、一番新しい記憶は何なのだろう? 彼女は何をするために、この街を出ていくことになるのだろう?

 尋ねてみたいが、それは一種のタブーだった。本人が語る以外に、他人が口を出すべきことではない。

「私は、まだしばらくこの街にいることになりそうだわ。強がりではなく、本当にね」

 僕の心を知ってか知らずか、ミユキ嬢はそう宣言する。

「あなたは、外に出たとき、どうだったの?」

 僕は心持ち身を固くする。

 いつかは聞かれることだ。この街にいるということは、これから外に出るか、外に出て戻って来たかのどちらかだ。見た目にも若い僕は、一度外に出て戻ってきた人間(かなり少数派だ)だと思われてばかりだった。

「実は、ないんですよ。外に出たこと」

 僕は、なんてことないであるように(それを態度で示すために)、手のひらを振って見せる。

「ないの?」

「ええ。たぶん、こんなふうなのは後にも先にも僕だけだと思います。僕にはもともと、外の記憶がありません。すべて、この街の中で完結しているんです。どうしてって言われても困っちゃうんですけど」


 お茶会がお開きになった後、僕は自分の家で、少し記憶について考える。

 他の人には外の記憶があり、時が来れば外へ出て、その記憶を追体験していく。

 僕にはそれがない。この街で過ごしている記憶だけだ。だから外へ出ることもなく、この街の中で、ゆっくりと若返っていく。

 僕はきっと(きっとではないのかもしれない。記憶はすでにあるのだ)、この街で菖蒲を刈りお茶会に参加し新たな移住者の世話を焼きながら、やがて少年になり幼児になり、そして何も分からなくなっていくのだろう。

 本棚を眺める。

 そこには赤茶色の背表紙がずらりと並んでいる。僕がこれまで、この街でしたためてきた日記帳だ。

「いつ見ても、とてつもない量だと思うわ」

 妖精が言う。僕は少し誇らしい気持ちになる。

「たいしたことは書いていないんだ。いつも似たようなことばかり」

「たしかに、読み返すのはおすすめしないわね」

「なんだって?」

 軽口をたたいて、僕らはひとしきり笑い合う(つまり、僕は一人でしゃべって、一人でひとしきり笑っていることになるのだろう)。

「あんた、最近、よくミユキおばあさんと一緒にいるわね」

 妖精はミユキ嬢のことをミユキおばあさんと呼ぶ。僕としてはどちらだってかまわないのだけれど。

「こんなこと言うのは酷なのかもしれない。でも、やっぱり、私は深入りしない方がいいと思っているわ」

「深入りしない、ね。それは彼女のため? それとも僕のため?」

「もちろん、あんたのため」

 僕もよく分かっている。

 誰かと仲良くなったところで、僕がこの街から出ることはない。でも、相手は必ずいつかこの街を出ていく。そして、二度と顔を合わせない。

「ありがとう。でも、人との距離は、自分で考えて決めたいんだ」

 僕はそう言う。妖精は驚いたように目を見開く。

 僕自身も驚いている。僕はどうしてそんなことを口にしたのだろう。いつもなら、「そうだね」なんて曖昧な返事をして、それですべてがうやむやになっていくはずなのだ。

「まあ、ね」

 僕は取り繕うようにそう続ける。

「いずれ来る別れは寂しいけれど、そのために日記をつけているんだよ」

 そして、赤茶色の背表紙たちを指さしてみせた。

 妖精は何も言わなかった。


 そして僕は、妖精へ宣言したとおり、ミユキ嬢との交流を続けた。

 彼女は少しずつ、でも着実に、若く、美しくなっていった。

 彼女の会話は、相変わらず雑然としたものだった。季節の移ろいに感想をもってみたり、やはり交換所の人間について愚痴を吐いてみたり、これから来る過去のことを不安に思ってみたり。

 不安。

 彼女は、外の世界に対して強い不安を感じているみたいだった。彼女と話していると、どんな話も円を描くようにそこへたどり着いた。

「何度もこんな話をしてごめんなさい。でも、やはり、私は外でやっていけないと思うのよ」

「やっていけない、というのは」

「もちろん、記憶はあるわ。それをなぞるだけでいいっていうのは気が楽よ。覚悟さえ決めれば、レールは敷いてあるんだもの」

「ええ」

「でも、やはり怖いの。私が怖いのは、他人よ。他人からどう思われているのか、あるいはどうとも思われていないのか、常にその恐怖に怯えている」

「たとえば他人から嫌なことを言われたりとか、人間関係のことですごく嫌な思いをしたりとか、そういう記憶がおありなんですか? 言いづらかったら無理をしなくても大丈夫ですが」

 僕の問い掛けに対し、ミユキ嬢はゆっくりとかぶりを振った。

「ないのよ」

「少しも?」

「ええ。ないの」

「そういったエピソードはないけれど、でも他人が怖い?」

「そう。これから他人に嫌な目に遭わされることなんてない、って分かっている。これから私自身がどんなことを経験していくかも分かっている。それについては覚悟を決めている。それでも、他人が怖いの」

 僕は、彼女と言わんとするところがまったくつかめない。彼女の言葉をそれでも咀嚼しながら黙っていると、彼女は苦笑いしながら言う。

「変なことを言ってごめんなさいね。でも、本心からそう思うの。私が恐れているのは、これから起こることじゃない。これから過去の記憶をなぞっていく中で、私自身が、他人への恐怖に耐えられるのかどうかに怯えているのよ」

 どんな感じなのだろう、と僕は想像する。彼女は記憶に沿って、いろいろなことを経験していくだろう。当然、多くの人間たちと関わることになるはずだ。それは例えば、会社でのやり取りかもしれない。親類とのやり取りかもしれない。他愛のない義務的なやり取りかもしれない。

 彼女は分かっている。相手が暴言を吐くことなどないことを。同時に、自分がコミュニケーションをひどく違えて、相手を不快にさせることなどないことも。記憶のとおりに、彼女は受け答えし、笑みを返していく。それだけだ。

 それでも、彼女の心臓は早鐘のように脈打っている。他人からどう思われているのだろう。変に思われていやしないか。そんなことありはしないと分かりつつも、彼女の内側で、呼吸はじわじわと苦しくなっていく。

「それがどんな気持ちなのか、僕には分かりません」

 僕は正直に白状した。ミユキ嬢は当然という顔で、にっこり頷く。

「でも、感覚としては分かると思います。間違えのない答えは分かっているのだけれど、それでも不安で苦しいのは、たしかに辛そうですね」

 ミユキ嬢は大きく頷き、「さすがね」と返す。

「そのとおり。辛いの、怖いの、悲しいの。でも、時が来れば、ここを出て、外の世界へ乗り込まなくちゃならない。正直、逃げ出してしまいたいわね」

 自分の過去から逃げ出す。僕らはそれが不可能だと知っている。過去は変えられないのだ。

 彼女はゆっくりホットティーを飲み干す。上品な指が、微かに震えている。

「他人が怖くなるような体験はなかったって、さっき言ったでしょう?」

「ええ」

 ミユキ嬢はぽつりぽつりと話す。普段の彼女からは考えられない朴訥さで。

「他人が怖くなるような体験はないわ。誓って本当よ。でも、他人のいなかった体験はあるの」

「他人のいなかった体験?」

「そう。私一人。ずっと孤独。そんな体験。それが根底にあるからこそ、私は他人が怖くなってしまったのね」

 ミユキ嬢はゆっくり目を閉じる。眉間にきつくしわが寄っている。

「それは、どんな?」

 ゆるゆると首を振る。

「ごめんなさい。まだ言えないわ。言えるときが来たら、必ずあなたに伝える。約束ね」

 わかりました、と僕は返す。まだ、彼女には準備ができていないのだ。その話を僕にする準備も。外の世界に踏み出す準備も。

「でも、これだけは分かっておいて。私は、すごく寂しい思いをするのよ」

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