Side-A(2) ショッピングモールの夏

 僕らがショッピングモールから解放される最小の期間、三か月が過ぎ去った。

 結晶化現象が収まる気配はなく、未だに救助の見通しは立たないままらしい。

「すまないが、もうしばらく耐えてくれ」

 店長はそう言う。

 僕たちの体調を気にして、店長は定期的に連絡を寄越してくれた。しかしその頻度は、わずかずつ減っていった。

 ここ最近では、結晶化現象についてテレビのニュースで見かけることもなくなっていた。

 僕らはあらゆることから取り残されているのだ。


 目を開けると、パイプと電気配線の連なりが見える。掛け布団代わりのタオルケットをつかみ、上体を起こす。グレーのソファの上だ。赤茶色のカーペットに足を下ろすと、ごわごわした感触が足を包む。いつものように、保険相談に関するポスターや看板が僕の目を刺激する。寝起きにあまり小難しい情報を見るものではない。僕は大きく欠伸をする。

 枕元近くに置いてある加湿器の電源を落とす。夏を迎えてどうなることかと思っていたけれど、館内の空調を付けたままにしておけば暑さで苦しむことはなさそうだった。ただし乾燥は防げないため、睡眠時には加湿器が手放せない。

 ここの空調は暑さに強く、寒さに弱い(暖房機能に多少の不具合があるまま、強引に使い続けているのだ)。だからもし冬をここで迎えることがあれば、十分な準備が必要になるのかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕はスリッパを突っ掛けて階段を降り、一階の手洗いに向かう。

 特に取り決めをしていたわけではないけれど、一階の手洗いは僕、二階の手洗いは田辺さん、というのが最近のすみ分けになっていた。何度か出入り口でばったり会ってしまい、気まずい思いをしたことがあったからだ。

 用を足した後、鏡の前で歯を磨く。歯ブラシと歯ブラシスタンドは、一階のトイレに置きっぱなしにしている。僕専用の洗面所というわけだ。歯磨き粉が切れてしまったので、また補充しておかなければならない。

 空になった歯磨きチューブをもち、僕は手洗いを出た。食品売り場の手前に置いてあるゴミ袋に、役目を終えたチューブを投げ込む。そのまま袋の口を縛り、バックヤードへ向かった。

 薄暗い通路を奥へと進むと、ほのかに腐臭が鼻をつく。ゴミ置き場にしている搬入口からだ。

 僕らはそこを「悪臭部屋」と呼んでいた。大量の廃棄食品たちがひどい臭いを放っている(夏になってからはなおさらだ)。僕は息を止めて扉を開け、ゴミ袋を投げ入れた。ゴミ袋はガサガサした音を立て、うず高く積み上げたお仲間たちの上に乗っかる。

 この三か月間、僕らは日中の時間をほとんど費やして、残っている食品の消費期限をリストにまとめた。それを見れば、どの食品をどのくらいの時期に食べておくべきかが一目瞭然だ。同時に、廃棄すべき食品も分かる。

 そんなふうにして、僕は定期的に、この「悪臭部屋」へ廃棄食品を投げ込みに来ていた。

 バックヤードを引き返し、「悪臭部屋」とは反対側の突き当りまで進む。

 若干の抵抗感を抱きながら、女子更衣室へ入った。これだけショッピングモール内の生活に順応しているというのに、女子更衣室へ踏み込むという行為だけには慣れない。

 ロッカーの並んだ先に、シャワールームが一つだけある。シャワーカーテンで仕切られただけの質素な作りだけれど、僕らにとってかなり重要な場所であることは間違いない。

 服を脱いで、身体を洗う。昨夜、田辺さんが使ったであろうシャンプーの甘い香りがほのかに鼻をつく。無心だ、と自分に言い聞かせる。

 身体を清潔にしてタオルで丹念に拭った後、ロッカーの一つを開けてスポーツウェアを着こむ。それから、これまで着ていた寝間着と濡れたタオルを洗濯板で洗う。

 洗濯は、このショッピングモール生活でうまくいかなかったことの最上位かもしれない。洗濯機を使えるようにしようと悪戦苦闘したのだけれど、水道や排水口へうまい具合につなげられる場所がなく、徒労に終わってしまった。

 洗い終えた衣服を持って保険相談窓口へと戻り、ハンガーラックにそれらを掛けていく。

「おはようございます」

 いつの間にか、田辺さんが近くまでやって来ていた。

「おはよう」

「お湯が沸きました。朝食はいつでも食べられますよ」

「ありがとう」

 僕らは食事をなんとなく一緒にとっている。僕としては、いつも用意をしてもらっているわけだから、「後で食べるよ」なんてことを言えるはずもないのだ。その結果、僕は規則正しい生活リズムを保つことができている。きっと食事の時間がなければ、僕は好きなときに寝て好きなときに起きる怠惰なルーティンを送っていただろう。

 いつものうどん屋のテーブルで、僕らは向かい合う。僕はもともと朝食をとっていなかった。だから、今でも朝にはそれほど食指が動かない。田辺さんもそのことをよく分かっていて、最低限の準備にとどめてくれる。今日僕の前に用意されているのは、即席スープ一杯だ。

「今日はオニオンスープですよ」

「これであの『旅のスープ』シリーズはコンプリートかな?」

「いえ、あと一種類あったはずです。ガスパチョだったかな? トマトの冷製スープの」

「それも楽しみだ」

 僕らはそんなふうに雑談する。三か月という期間は、僕らが親密になるには不足していたが、それなりの話ができる関係に至るには十分だった。

 彼女は僕と真逆で、朝にたっぷりの食事をとり、昼と夜は軽めに済ます。今彼女の前には、僕と同じスープのほか、茶碗一杯分の米、冷凍食品のおかず(弁当でよく見るミートボールやほうれん草だ)が並んでいる。以前は加えてヨーグルトや納豆があったのだが、それらの消費期限はあまりにも短すぎた。その空白を埋めるように、彼女は時折、お米をお替りした。

「毎日、退屈だね」

 僕がそう言うと、彼女は首を振った。

「私は働かなくていいので気が楽ですよ」

「それは間違いない」

 働かなくていいのは最高だ。これまで出勤日の朝などは、眠い目をこすりながら泥人形みたいな気分で支度をしたものだ。しかし人間とは不思議なもので、働かなくていいと分かった途端に、朝の目覚めも頭の回転もよくなる。僕は今、心身ともに健康だった。

 とは言え、退屈という大きな敵が僕らの前には立ちはだかっていた。このショッピングモールから出られない今、楽しみを見つけて持続するということは、僕らにとってとても重要な意味をもっているのだ。

「今日はどう過ごすんですか?」

 田辺さんがそう尋ねる。

 僕は斜め上を見上げるようにして考える。

「午前中は、いつもどおり掃除かな。今日は二階の玩具売り場とゲームコーナーを中心にモップ掛けだね」

「午後は?」

「ううん、実はゲームコーナーにもだいぶ飽きてきちゃってね」

 僕はゲームコーナーで、クレーンゲームやメダルゲームの腕を磨くことに一時期はまっていた。けれど、小さなモールではゲームの種類にも限りがある(ここにクレーンゲームとメダルゲームは一機ずつしかないのだ)。致命的なのは、鍵でゲームの金庫を開けて、硬貨を取り出すことができるところだ。「金を払っている」「勝っている/負けている」というひりひりとした感覚を失ったゲームコーナーは、ほとんどの魅力を失っていた。

「再びテレビゲームに舞い戻るかなあ」

「あ、いいですね。私も最近やっていないから」

 一階の展示用テレビにテレビゲームをつなぎ、いくつかのソフトをプレイしていた。ついつい長時間続けてしまって生活の質に差し障りそうだったので、一時的に封印していたのだ。しかし、そうも言っていられないレベルで、僕らは時間を持て余していた。

 田辺さんは、二階にある本屋で文庫本を失敬して、よく読んでいた。小さな本屋だから、彼女の集中力を考えると(信じられないことだが、食品の管理や料理をしていない時間のほとんどを彼女は読書に費やしているのだ)、棚にある本を全て読み切ってしまうのも時間の問題かもしれない。彼女はアウトドアショップから持ってきたハンモックがお気に入りで、そこに寝そべってページをめくる姿は、何というかとても彼女らしかった。

「最近、筋トレはいいんですか?」

 田辺さんが無邪気に聞いてくる。僕は、いやあ、と返事を濁した。

 腹筋台、フィットネスマット、バランスボール、そういった器具がスポーツ用品店には取り揃えられていた。以前「腹筋を六つに割る!」と宣言した(夕飯のビールで酔っぱらった結果だ)のを、彼女はまだ覚えているのだ。

「継続は力なり、ですよ」

 いたずらっぽく言う。

「分かっているんだけどね。ほら、腰を悪くしたりすると困るだろう?」

 言い訳だという自覚はある。田辺さんもよく分かっていて、こうしてからかってくるのだ。

「それにしても」

 僕は言う。とにもかくにも、話題を変えねばなるまい。

「もう世の中はすっかり夏のはずなのに、なんだか実感がないね」

「そりゃあ、空調を利かせっぱなしですからね」

「この前テレビで猛暑のことを取り扱っていてびっくりした」

「この夏の暑さはすさまじいらしいですよ」

 季節が変わった実感がない。僕らはここで、シャッターを開けることもできず、幽閉されているのだ。唯一外部の様子をうかがえるのは三階の立体駐車場に面した窓だけ。そこだって屋根があるせいで暗く、見えるのは結晶ばかり。遠くの方へ目を凝らすと、わずかに夏の日差しを目視できる(気がする)。

「夏らしいことをしたいね」

 つい、そんなことを口にしていた。

「夏らしいこと、ですか」

「うん」

「たとえば?」

「バーベキュー」

「お肉が無いですね」

 分かっている。最初の一か月が過ぎる頃、僕らは最後の冷凍肉を食べた。普通に食べるのがもったいなかったので、僕らはバーベキューをした。

 さすがにうどん屋のキッチンで、ホットプレートを稼働するのは気が引けた。油が跳ねるからだ。かといって、それ以外の場所で煙を出し、火災報知機でも誤作動させてしまったらかなわない。

 僕らは喫煙ルームに目を付けた。僕らは二人とも煙草を吸わない。一か月の間に、いやな臭いもだいぶ薄くなっていた。僕らはそこへホットプレートを持ち込み、換気扇をフル稼働させながら肉を焼いた。

 今となっては懐かしい。

「お祭り系の粉物はどう? お好み焼き、焼きそば」

「麺も卵も期限切れで処分しました。小麦粉も怪しいですね。密封して冷蔵しておかないと、虫がすぐ湧くんで」

 ううむ、と泣きたくなる。

「かき氷」

「それならできそうですね」

「あ、でもかき氷機がもしかして無いか?」

「あー、無かったかもしれないです。さすがに春には発注もかけていないので……」

 こうなればやけくそだ。

「あれは? ビニールプール」

「どこでやるんですか?」

「階段の踊り場とか。その辺の水道からホース引っ張ってきて……」

「私は入りませんよ?」

 田口さんがいぶかしげに笑みを浮かべる。

「それに、どうやって片づけるんですか?」

「うーん、楽しそうだと思ったんだけどな」

「肝試しは?」

「いやですね。やっと安眠できるようになったのに、夜のモールを懐中電灯で探索、なんてことをしてまた眠れなくなるのは勘弁ですよ」

「それは俺も同感だな」

「でしょう?」

 結局、夏らしいイベントについてはおいおい考えていくことになった。いずれにしろ、時間はたっぷりあるのだ。


 夕方、僕はテレビゲームのコントローラーから手を離し、準備を進めることにした。

 田辺さんは二階のハンモックで、相変わらず小説へ没頭しているに違いない。夕食まで時間はまだまだある。今がチャンスだった。

 思えば、僕は別に夏らしいことをしたいわけではなかったのだ。普段しないようなことをして新鮮な気分を味わいたい、ただそれだけ。何より、その「新鮮な何か」によって、田辺さんの喜ぶ顔を見たかった。

 僕は今から、サプライズ大作戦を決行する。

 必要な食品がちゃんと残っている(なおかつ消費期限も問題ない)ことは、すでに分かっていた。後は、道具だけだ。

 調理道具の中から必要なものを探す――OK。

 掃除用品の中から必要なものを探す――OK。

 残るはだけだが、行楽用品を探ったところ無事に見つけることができた。ちなみに、かき氷機もいっしょに発見した。

 僕はそれらを全て丹念に洗剤で洗った。さて、ここからが一番大変だ。


「田辺さん」

「はい」

「夕食にしない?」

「え、もうですか?」

 ハンモックから上体を起こした田辺さんは怪訝な顔をしていた。当然だ。

 料理のできない僕が夕飯を誘いに来たということは、つまり「そろそろ夕飯にしないか」と催促に来たのと同義だろう。すなわち、田辺さんの脳内では、僕に対する失望やいら立ちや疑念が渦巻いているに違いない。

「実は作っちゃったんです」

「え? 作ったって?」

「僕が、夕食を」

 ぽかんとした田辺さんに箸と器を押しつける。

「はい、こっちこっち」

 階段を下り、所定の場所に彼女を立たせた。

 彼女は、僕の準備した装置をあっけにとられて見つめている。そうして、僕の企みを察したのだろう、にやりと笑いかけてきた。

「いつの間に、こんなの準備したんですか?」

「さっき」

「変な人ですね」

「でしょ?」

 僕は二階に回り、装置を起動させる。

 電子音と共に、装置から水が吐き出された。その水は、設置しておいたパイプの中を通っていく。

「さあ、『巨大流しそうめん』の始まりだ」

 普段なら赤面ものの台詞だろう。正直なところ、流しそうめんを準備しながら缶ビールをあおったせいで、僕はあんまり正気ではなかった。

 行楽用品の中から発見した自動そうめん流し機(正式名称は知らない)を二階に設置し、そこから一階まで、あの手この手でパイプをつなげたのだ。流しそうめんのキット一つではパイプが足らなかったため、僕は在庫の三キット分を全て使用していた。

 エスカレーターの手すりにビニールひもで括り付けた部分もあり、壁にガムテープで固定した部分もあり、見た目にはあまり美しくないかもしれないが、耐久性と面白さは保証できるだろう。

 田辺さんのもとに戻ると、目の前にある最後のパイプから水がちょろちょろと溢れ、巨大なポリバケツへと流れ込んでいた。僕が掃除用品から拝借したものだ。これだけの容量があれば、二人で流しそうめんを完食するまでにバケツを取り替える必要もないだろう。

「そろそろかな?」

 僕の言葉とタイミングを合わせたように、自動そうめん流し機が、最初の一玉を吐き出した。思いがけないスピードで、そうめんがパイプを下って来る。

「さあ田辺さん、どちらがたくさん食べられるか競争ですよ」

「何ですかそれ」

 田辺さんは笑っていた。

 そうして僕らは、満腹になるまでそうめんを食べた。それなりの量を準備したはずなのに、装置は空っぽになった。

 田辺さんは、片付けを手伝うと言った。でも、僕は自分一人でやると言い張った。サプライズの美学である。勝手に思い付いて勝手に始める以上、後始末まで自分一人で負う覚悟が大切なのだ。

 彼女がシャワーを浴びて就寝の準備を進める間、僕はパイプを外し、それらとバケツを洗った。思った以上に水が階段やエスカレーターにこぼれていたので、それを雑巾で拭う。

 僕は満ち足りていた。ここ久しく味わっていない感覚だ。独りよがりかもしれないけれど。


「ありがとうございます」

 いつの間に近付いていたのか、田辺さんが僕の脇に立ってそう言った。僕はちょうど、階段とエスカレーターの掃除を終え、雑巾を片付けているところだった。

「全然。夕食の計画もあっただろうに、勝手にごめんね?」

「いえ、楽しかったです。あんなに笑ったのは久々」

 まだ水気を含んだ髪を、首から下げたタオルで拭きながら彼女は言った。

「この後、私は髪を乾かしたら寝ちゃいますけど、シャワー浴びますか?」

「いや、そこまで汗をかいたわけでもないし、いつもどおり朝に浴びるよ」

「分かりました」

「もう消灯しちゃっても大丈夫?」

「お願いします」

 彼女は、おやすみなさい、と言って二階に上がっていった。やがて、遠くからかすかにドライヤーの音が聞こえてきた。

 僕は掃除道具の整理を終えると、裏手に回って照明のスイッチを操作した。いつものように、化粧室の付近だけを残し、他は消灯する。

 一階は真っ暗になった。僕は懐中電灯のスイッチを入れる。

 消灯後は、いつもこうして自分の寝床へと戻る。しかし、今日は違った。

 何か声のようなものが聞こえた気がしたのだ。

 階上から、ドライヤーの音はまだ聞こえている。つまり、田辺さんではない。

 ――肝試しは?

 朝食のときに自分の発した言葉がよみがえってくる。懐中電灯で暗闇を探索する。僕が今やっているのは肝試しのようなものだ。

 声のした方に少し近づいてみる。クリーニング店だ。

 クリーニング済の衣類たちが、ビニールに包まれてラックに掛かっている。暗い中では、人体のような何かがぶら下がった精肉工場を連想させた。

「思い出せ」

 また声が聞こえた。男の声だったと思う。

 さっと何かが目の前を走り抜け、いくつかの衣類がわずかに揺れた。僕は声も出せぬまま、尻もちをついた。

 懐中電灯で、僕はクリーニング店を照らし続けた。しかしそれ以上、声も聞こえなかったし、何かが現れることもなかった。

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