Side-B(1) 街と、空飛ぶフェリー
僕の暮らす街には、湖がある。
湖のほとりには木造の小屋がいくつも並んでいて、それが誰によっていつ建てられたものなのか、みんな知らない。この街には出入りが多いから、ある人が街の外へ出ていけば、空いた小屋に新しい人が住み始める。そうやって、街の中身は少しずつ流動していく。
この小さな、湖のほとりにある街で、あらゆることはのどかに営まれている。ある者は釣り糸を垂れ、ある者は薪を割り、ある者は一日を井戸端会議に費やし、それでも寝食に困る者はない。この街に貨幣はなく、必要なものはもっぱら物々交換で手に入れる。どんなからくりがあるのか知らないけれど、街のはずれにある交換所では、その辺の枝葉を拾っていけばその日困らないだけの食料や物資を受け取ることができた。つまり、毎日の散歩がてら、ガラクタを拾って交換所へ通えば、生活に困ることはないわけだ。その不等価交換について疑問を呈した人は、少なくとも僕の記憶する限り、これまでいない。
そして不思議なことに――これが一番重要なのだけれど――この街では、時間が緩やかに逆行している。
夜が明け始めると、西の空からオレンジ色の太陽が昇り始め、そのうち太陽が真上に上がり、やがて東の空でさっぱりとした朝の光を放ち始める。そしてまた、夜がやって来る。
街についての説明は、こんなところでいいだろう。この街の人口がどのくらいで、どんなシステムで経済が成り立っていて、どうして時間が普通と違う流れ方をしているのかなんて、知りたい人がいるとは思えない。
僕はこの街で最古参の部類に入る。だから、僕が説明できないことは他の人も説明できないだろう。そして、そんな説明は望まれていないのだ。
僕の暮らす街には湖がある。そして、時間が緩やかに逆行している。
単純に言うと、そういうことだ。それ以上でも、それ以下でもない。
これは僕が彼女と出会う話だ。
「出会う」というのは適切でないかもしれない。僕は何度だって彼女と出会い直す。何のためにそんなことをするのか、出会い直すとはどういうことなのか、ここで一口に説明することは難しい。
だから、やはり彼女との初対面から話を進めるのがよいと思う。
初めて出会ったとき、僕は若者で、彼女は老婆だった。僕は、自分にしか見えない妖精との会話に一日の大半を費やし、彼女はベッドの上でフェリーを待っていた。
菖蒲湯の季節だから、僕は半日を掛けて菖蒲を刈る。村には年寄りが多く、必然的にそういった役目は僕のもとへ回って来るのだ。
湖のほとりにある草むらに分け入ると、うっすらと菖蒲の香りに包まれる。菖蒲の香りを言葉で表現するのはとても難しいのだけれど、ボートの上で毛布に包まれているような気分になる。
一人になると、妖精が話しかけてくる。
「去年も一人で菖蒲を刈っていたじゃない。この街の連中は人使いが荒いんだから。腰が痛いだかなんだか知らないけど、自分でやれって思わない?」
妖精は陽に透ける羽を動かし、僕の周りを飛び回りながらそう言う。ほとんど半透明のワンピースから覗く肢体はひどくなまめかしいのだけれど、親指ほどのサイズであるせいか、僕はあまりその辺りを意識したことがなかった。
「そう言わないで。たまたまそういう巡り合わせだったってことだよ」
僕はほとんどささやき声で返事をする。
「ほんと、あんたってお人よしね」
妖精の言葉に、僕は少しうれしくなる。他の人から見えない(はずの)部分をねぎらってもらえるのは、当然悪い気がしない。
でも僕は知っている。嫌というほど。
――妖精なんているわけがない。
世界中の「妖精に話しかけられる」経験をしたことのある人間の中で、僕は極めて自覚的な部類に入るはずだ。少なくとも自分ではそう思っている。
この世に妖精などいるわけがない。僕が見ているこのかわいらしい女の子は、僕の頭が作り出した虚像だ。そして彼女の話す言葉は、僕が一人二役で会話をしているだけのこと。
先ほどの会話だって、僕の自問自答に他ならない。「なんで自分ばかりに仕事が押しつけられるんだ」と考えた後に、「まあでもしょうがないか」と思い直す。そんなありふれた思考過程を、ファンタジックな会話劇で再現しただけなのだ。
僕の頭の中にしかいない妖精と、とりとめない言葉を交わしながら、僕は菖蒲を刈り終えた。青々としたそれを竹籠に放り込む。やはり、ボートの上で身体を包む毛布の香りがした。
菖蒲を何本かずつ束にして街の人たちに配っていると、庭で布団を干しているツムラさんが声を掛けてきた。
ツムラさんは白いひげをたっぷり蓄え、いつも白いタンクトップ姿でパイプ煙草をふかしている。本人曰く芸術家らしいのだが、絵を描いているところも楽器を演奏しているところも見たことがなかった。
「新しい人が来たらしい」
「新しい方、ですか」
「左様。しかも、君の家の隣にね」
初耳だった。言われてみれば、ここ数日、空き家であるはずの隣家に人の出入りがあったような気もする。
「無理にとは言わないが、近所のよしみで少し面倒を見てあげるとよいかもしれない。どうやらまだ、ベッドからも起きられないようだからね」
「そうですね。交換所へ代行する人も必要でしょうし」
「君には普段からお願いごとをしてばかりだ。すまないね。ただ、こういったことには一番適任だと思うんだ」
ありがとうございます、と返しつつ、僕は内心驚いていた。どちらかというと偏屈で気性の荒いツムラさんが、僕のことをいたわっている。嵐でも来るのではないだろうか。
ツムラさんは真昼の月でも探すように空を仰いだ。パイプから立ち上る薄紫の煙が、彼と空の間で迷子になっている。
「街を出ることになった」
唐突に、ツムラさんはそう言う。不意を打たれた僕は何も言えない。何かを言わなくてはと思うのだけれど、口にする前に言葉が散らばってしまう。それこそ、パイプの煙みたいだ。
街を出る。僕はそんな人を何度も見送ってきた。期待をもってここを出ていく人はめったにいなかった。そして、そのうち戻ってくる人もいれば、戻ってこない人もいた。
「もう少しいられるだろうと高をくくっていたんだが、行かねばならないらしい。時が来てしまったんだ」
それからツムラさんも、僕も、二人して黙りこくってしまった。僕は何度も「お元気で」と言おうとした。でも、それはどうしても僕の中から飛び出ようとしてくれなかった。
ツムラさんは、僕のそんな状態をよく理解しているようだった。ゆっくりと煙を吐き出しながら、何度かうなずき、僕の肩を叩く。
「この街を、よろしく頼む」
僕は悟った。この偏屈で野暮ったくてそれでも情に厚い芸術家は、もうここへ戻ってこないのだと。もう二度と、会うことはないのだと。
そうして、ツムラさんは街からいなくなってしまった。
入れ替わりに、僕は彼女と出会う。言うまでもないことだけれど、ツムラさんの言っていた「新しい人」こそ彼女だったのだ。
彼女の名前はミユキという。
ツムラさんが街を去ったことと、そのツムラさんが彼女の面倒を託していったことで、僕は妙な使命感をもっていた。いつものちょうど二倍、ガラクタ拾いに精を出す。いつものちょうど二倍、交換所で日用品と食料をもらう。そして、彼女の家へ行く。
建付けの悪いドアを開けると(このドアは、窒息しそうなカラスの鳴き声みたいな音を立てた)、重くほこりっぽい臭気が僕を包んだ。
彼女はベッドに横たわっていた。土気色の顔で天井をにらんでいる。この老婆の有様を見たら、狼だって食べやしないだろう。
彼女の胸が浮き沈みするたびに、カーテンの擦れるような音がした。もしかしたら、肺を病んでいるのかもしれない。それは仕方のないことだ。新しく来た人はたいていどこかを病んでいる。よく覚えていないけれど、ぼくだって同じだったはずだ。
「こんにちは」
努めて明るい声を掛ける。
彼女はこちらを見もしなかった。ただひたすらに、浅い呼吸を繰り返している。シャ、シャ、シャアア、と彼女の胸が鳴る。
「まだ起きるのがしんどいかと思って、その、いろいろともらってきました」
僕はベッドの脇に、ティッシュペーパーや野菜の袋を置く。
彼女は天井を見上げている。
「どこかに片づけておきますか?」
返事はない。僕は内心、頭を抱えた。ここまで反応がない人は初めてだ。深入りをあきらめて立ち去るか、それとももうしばらく様子を見るのか、どうすればよいのだろう。
結局、僕は前者を選んだ。
「また、声を掛けに来ます」
そう言って彼女の家を後にする。彼女の家のドアに住むカラスは、やはり窒息しそうな声で鳴いた。
関わってほしくないのかもしれない。誰だってしんどいときには、波が過ぎ去るまで放っておいてほしいものだ。
「しばらくそっとしておいたら?」
妖精もそう言う。
「病人にあまりこういうことは言いたくないんだけど、あまりにも失礼じゃないかしら。ずっと無視だなんて」
腰に手を当て、憮然とした表情を浮かべている。
「まあまあ」
僕はそう言う。
「体調が悪いんだよ。治ったら、きっと話もしてくれるはずさ」
そう口に出してみるけれど、確かに、彼女の態度は閉口ものだった。もちろん、ツムラさんに言われたとおり、最低限の世話は続けるつもりだ。でも今のところ、僕はこれ以上彼女の家に深く踏み込むつもりがなかった。時折訪ねて、食事をとっているか、必要なものはないかを確認するだけでいいだろう。
その考えを妖精に伝えると、彼女は小首をかしげた。
「あたしはそれで構わないんだけど、あんた、思ったよりドライなところもあるのね」
これはこれで不服らしい。でも構わない、妖精は僕自身なのだから。
「お邪魔します」
翌日、僕はいくらかの品物を持って、再びミユキ嬢の家を訪れた。
前の日と変わらない、陰気で埃っぽい空気。ベッドの脇には、僕の置いた日用品や食料が手つかずで残されていた。僕は、誰にも聞こえないため息をつく。
「交換してきたものを置いておきますね。それと、痛みそうなものは片づけておきます。冷蔵庫を触りますね」
相変わらず返事はない。彼女はベッドの上で、土気色の顔を歪め、天井をにらみつけている。そこに親の仇でもいるみたいに。
彼女の胸が浅く上下している。そしてその度に、シャ、シャ、シャアアと肺が鳴る。
僕は冷蔵庫の上蓋を開け、交換所でもらってきた巨大な氷をそこに入れ込む。しばらくすれば、冷蔵庫の温度はひんやりと保たれるはずだ。
次に、冷蔵庫の前扉を開ける。冷蔵庫にはリボンのように連なった花の柄が描かれていて、わけもなく懐かしい感じがした。
トマト、えんどう、林檎、そういった野菜や果物を、僕は順不同に(つまりはやみくもに)入れ込んでいく。今はただの箱に等しい冷蔵庫も、もうしばらくすれば内側が冷えてくるだろう。
これで、僕は今日のところの役目を終えたことになるはずだ。あとはカラスの鳴き声がする扉を抜けて、気ままに過ごせばいい。
そう分かってはいるのだけれど、何かが僕を引きとめた。
それは彼女の呼吸音かもしれない。
熟した果実の香りかもしれない。
「帰らないの?」
妖精が話しかけてくる。僕は返事をしない。代わりに冷蔵庫を開け、甘い香りのする梨を手に取る。
フルーツナイフを手に取って、ベッドわきの椅子に腰掛けた。
「勝手なことをして申し訳ありませんが」
僕は言いながら、梨の皮をむいていく。
「何も食べないのはさすがによくないんじゃないかと思って。梨は水分も豊富ですから」
自分が食べるときよりも、果実をいくぶん小ぶりにカットしていく。これならば、ミユキ嬢も食べやすいかもしれない。
「結局、あんたってお人好しなのよね」
妖精があくびをしながら言う。
梨のかけらを楊枝で口元へ運ぶと、ミユキ嬢は口を開けた。驚くべきことに、彼女はそのまま梨を丸々一つ平らげてしまった。この街に来てから、おそらく何も食べていないのだ。だから、空腹なのは当然とも言える。
相変わらず体調は悪そうだ。胸からは耳障りな音が聞こえてくるし、顔色も濁っている。ただ、食事をしたことで、彼女を包んでいる死の気配がかなり薄らいだ気がした。
僕は食器を洗い、ごみを一つの麻袋にまとめる。
「夜にでも、また来ます」
僕はある種の覚悟を決めた。少なくとも彼女が回復するまでは、三食の面倒を見るのだ。それは僕にとって、時間が拘束されるということでもあった。食事を準備する手間が、これまでの倍になるということでもあった。それでも、すでに乗り掛かった舟なのだ。今から手を引くことなどできるわけがない。
扉の取っ手に手を伸ばしたとき、いつもの呼吸音に混じって、声が聞こえた。
「フェリー」
ミユキ嬢の声は、思っていたよりも低く、落ち着いていて、かつ明瞭だった。
「フェリーを待っているのよ」
僕は彼女の方を振り返る。ミユキ嬢はわずかに、僕の方へ顔を向けていた。
「フェリーですか?」
彼女はゆっくり頷く。
僕は窓から、湖の様子をうかがう。少なくとも僕がこの街にいる間、湖をフェリーが巡回しているという話は聞いたことがなかった。
僕は少し逡巡したが、それを正直に伝えることにした。
「海みたいに見えますが、あれは湖なんです。渡ったからといって、特に何もないような湖。だから、フェリーも船も僕は見たことがありません」
ミユキ嬢はゆるゆると首を振る。
「違うわ。フェリーは、空を飛んでくる」
空飛ぶフェリー。彼女はベッドの上で、それを待っている。
僕には、その意味するところが全く分からない。けれど、それ以上、彼女の発言を否定することは気が引けた。
「そうですね。来るといいですね」
少し突き放したような言い方になってしまったかもしれない。でも、それ以外に僕はどうしても反応の仕方を思い付けなかった。
僕は扉を開けて外へ出る。春の日差しが柔らかく身体を包んだ。
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