湖畔のゆりかご

葉島航

Side-A(1) ショッピングモールの春

 いつもの朝だ。

 開店前のショッピングモールは静まり返っている。

 気だるい平日の空気。僕はいつものように照明と空調のスイッチを入れ、館内を回りながらそれらが問題なく作動していることを確認する。ついでに、迷子になっているショッピングカートを本来の置き場へ押しやり、出入り口付近へ吹き込んだ砂や葉を片付け、いくつかの陳列を整えておく。

 十五分もあれば、一通り館内の点検が終わる。ここはそれほど大きなモールではない。どちらかというと地域の人たちが日用品の買い出しに訪れるようなところだ。

 だから、朝の開店準備はほとんど僕一人で終えてしまう。

 僕はここの店長でも何でもなく、一介の社員として働いている。真面目なのと朝が早いことだけが取り柄で、いつのまにかこういった面倒な業務を担当することになった。

 でも僕は朝の準備が嫌いではなかった。正直なところ、こうやって静かなところで決められた作業に集中できるのは、慌ただしい会計作業やクレーム対応と比べてずっといい。僕よりもずっと後に出勤してくる社員さんたちは、ずぼらではあるけれど、接客に関しては僕の数百倍と言える実力をもっていた。つまり、適材適所というやつだ。

 かたん、と音がする。田辺さんが値札でも落としたのだろう。

 今この店にいるのは、僕と田辺さんの二人だけだ。田辺さんは社員ですらなく、アルバイトの一人。物静かだけれど、てきぱきしていて頭の回転も速い。そして、僕と同じように、朝早くの業務を任されているわけだ。

 ショッピングモールと一口に言っても、会社で言う部署みたいに、業務は細かく分けられている。田辺さんは食品・日用雑貨のフロアを任されていた。彼女は朝早く出勤し、新鮮な野菜や果物の陳列を調整する。

 ほとんど挨拶程度の会話しかしたことがなかったけれど、僕は勝手に、彼女へ仲間意識みたいなものを感じていた。

 さて、と僕は肩を回す。次はシャッターと搬入口を開けなければならない。開店にはまだしばらくあるが、陽の光を店内へ通しておくのだ。開店前に外部から人が入れないように、自動扉の電源は開店時間ギリギリに入れることになっている。

 と、電話が鳴った。こんな時間に電話が来るなんてめったにない。

 電話はバックヤードの管理室に設置してある。そこから、古めかしいベルの音が響いているのだ。

 何か重要な連絡かもしれない。僕は小走りでスタッフ用の扉をくぐり、管理室へ向かう。青果コーナーで商品を並べていた田辺さんが、怪訝な顔でこちらを見ていた。

 管理室に駆け込んだ僕は、黒い受話器を取り上げた。

「はい」

「私だよ」

 声で分かった。このモールの店長だ。

「至急確認したいことがあってね。シャッターは開けたかい?」

「いえ、まだ」

「よかった。いいかい? シャッターを開けてはならない。自動扉の電源も、入れてはだめだ」

「どういうことです?」

 店長は、いいかい落ち着いて聞いてくれ、と言った。その割には、口調はそれほど深刻なものでもなかった。

「ほんの数分前に、極めて局地的な結晶化現象が起きた」

「結晶化現象?」

「そう。今、君たちのいるモールとその周辺が、結晶に包まれているはずだ。後で、三階の立体駐車場を見に行ってみるといい。でも、決して外に出てはいけないよ。君たちも結晶になってしまうからね」

 何が何だか分からないが、大事になっているということだけは理解した。

「電気、ガス、水道のインフラには問題がないと聞いている。現象がある程度沈静化すれば、自衛隊が結晶を崩しながら救助へ向かえる。君たちには、それまでそこで籠城してもらうほかない。そちらには今誰がいるのかね?」

「田辺さんと僕の二人だけです」

「なるほど。後ほど、そういった状況も警察へ伝えておこう。もちろん、モール内にある物品は好きに使って構わない。現象の鎮静化には、最短で三か月はかかるという見通しだそうだ」

「つまり、僕たちは少なくとも三か月以上、ここで生活をしなければならないということですね」

「理解が早くて助かる。これからも定期的に、そちらの様子を電話で確認するから」

 そうして店長からの電話は切れた。

 結晶化? 自衛隊? 籠城?

 先ほど聞いた単語たちが頭の中でぐるぐると回っている。いまいち現実味がない。

 ともかく、今の話を田辺さんにも伝えなければならない。

 僕は彼女の方へと向かった。


 案の定、話を聞いた彼女はぽかんとしていた。そして、僕もまだ同じような顔をしていたはずだ。

「ひとまず、三階の立体駐車場を見に行ってみましょう」

 そう彼女は言った。

「外の様子が分からないまま、あらゆる情報を鵜呑みにするのは危険かと思います。店長のふりをした愉快犯が電話を掛けてきた可能性もあるわけですし」

 やはり彼女は頭の回転が速い。

 僕らは階段で(エスカレーターをまだ作動させていなかったのだ)三階へと向かった。

 ショッピングモールに当たるのは一、二階だけで、三階はフロア全てが立体駐車場になっている。三階の出入り口にも当然シャッターが下りているが、出入り口の両脇がガラス張りになっており、駐車場内の様子を見渡すことができた。

「何、これ」

 田辺さんが放心したようにつぶやく。

 僕も同じ思いだった。

 薄暗く、黒く汚れたコンクリート張りの駐車場だったはずだ。それが今や、一面真っ白になっている。氷漬けにされたように。

 トムとジェリーのアニメみたいだ、と僕は思った。たしか、ジェリーが部屋一面を水浸しにして、冷凍庫の冷気でそれを凍らせ、スケートリンクにして遊ぶ話があったはずだ。そのスケートリンクに、今の駐車場はとてもよく似ていた。僕が考えられたのは、そんなどうしようもないことばかりだった。

 駐車場が真っ白に結晶化しただけでなく、地面からはいくもの突起が飛び出している。逆さまになった巨大な氷柱の乱立。この付近一帯がこの状態であれば、確かに自衛隊が助けに来るのにも時間が掛かるだろう。

 駐車場の隅にはスタッフ用の駐車スペースがあり、二台の軽自動車が停まっている。僕の車と、田辺さんの車だ。その二台は、巨大な結晶の中に閉じ込められていた。今の人類が氷河期を迎えたら、きっと遠い未来に、こうして氷の中から車が発掘されるのかもしれない。

「とにかく今分かったのは、店長の電話は本物だったってことですね」

 僕が言うと、田辺さんが「ええ」と返す。

「電気も水道もガスも大丈夫だって言っていたから――そうだ、テレビだ」

 僕は踵を返し、一階へと走った。田辺さんも後を付いてくる。

 このモールの店舗は少し不思議な配置になっていて、一階には食料品売り場と並ぶように家電販売店が入っている。僕が入社するずっと前からそうなっているらしく、ベテランの社員に理由を聞いてみても「さあ? 昔からそうだったからねえ」とにべもない。

 家電販売店の中心に、テレビの販売スペースがあったはずだ。アンテナを設置してあるから、チャンネル数はそれほど多くないもののテレビ番組を視聴可能だった。ワールド・ベースボール・クラシックなんかが開催されたときには、地元民がテレビの前に人だかりを作って(大した人数ではないのだけれど)、歓声を上げたりしているのをよく見る。そういう緩さが、田舎のショッピングモールのよさなのかもしれない。

 閑話休題、僕はテレビの電源を入れる。いくつかのチャンネルを切り替えてみたが、どの局でも局所的結晶化について取り扱っていた。

 僕らはしばらく、テレビの前で情報収集に勤しんだ。店長から教わった内容と合わせ、いくつか分かったことがある。

 一、結晶化には、このショッピングモールと周辺の民家二軒、公園、市民会館が巻き込まれている。今のところ死者はおらず、民家二軒の住人もたまたま外出中だったらしい。公園、市民会館に人はいなかった。つまり、この地域に取り残されているのは我々だけだ。

 二、現象が落ち着くまでは三か月以上を要し、その期間内に対象地域へ踏み入ると(僕らからすると「外に出ると」だ)、もれなく結晶に包まれてしまう。自衛隊が救助方法を考えているが、当面動き出せないだろう。重機もヘリコプターも、固まって終わりになるのが目に見えている。

 三、原因は不明。気象庁やら災害対策本部やら科学者やら、さまざまな肩書の人々がテレビで仮説を叫んでいたが、どれも根拠には欠けるらしい(それに、話の内容が高度すぎて、どうにも僕には理解できなかった)。今のところ同様の現象は他の場所で確認されておらず、予兆もない。

「三か月。場合によってはもっと」

 田辺さんが言う。

「まずは食料の確保が必要ですね――当面は問題ないと思いますが、カップ麺なんかも意外と賞味期限が短かったりするので、確認しておかないと。それから、本当に水道が使えるのかどうかのチェックと、シャワーをどうするかと……」

 彼女はまだ大学生だったはずだ。華奢な肩を抱え込むようにして、腕を組んでいる。食料品売り場のエプロンに、白いシャツ。ほっそりとした身体を奮い立たせるように、彼女は現実的な課題をいくつか口にした。

 僕は「確かに」とうなずいた。

「シャワーはバックヤードの更衣室にあったはずです。でも、男性用の方は壊れて水しか出なかったんじゃないかなあ。水道が使えるのかどうかと併せて確認しておきます」

「じゃあ、私は食品の方を」

 それから僕らは、当面の生活を確保するために、何かを調べたり、二人でルールを取り決めたりした。田辺さんは淡々とそういった作業をこなしていたから、何を考えていたのかよく分からない。僕は、不謹慎ながらこの状況を楽しんでもいた。

 幼い頃、台風で実家の近隣一帯が停電したときのことを思い出す。寝室からリビングへ布団を運び、そこに僕は寝転んでいた。傍らのテーブルでは父と母が電池式のラジオを聞いていて、ランタンの明かりが二人の姿をぼんやりと映していた。そのときの気分がよみがえってくる。

 このときは二人とも知らなかったのだ。このショッピングモールで、一年間過ごすことになるなんて。


 僕らはまず、生活の様式を固めることに腐心した。やはり男性更衣室にあるシャワーは壊れていたため、壊れていない方を共同で使用することにした。基本的に、田辺さんは夜、僕は朝にシャワーを使う。ニアミスを防ぐためだ。

 水道は問題なく使えた。バックヤードのほか、食料品売り場の中にもいくつか手洗いが設置されている。僕らはやかんを拝借し、毎日お茶を沸かすことにした。飲料水を多めに確保しておくに越したことはない。

 一階のテナントにうどん屋が一軒入っていたので、調理器具やコンロ、冷蔵庫はそこのものを活用させてもらう。基本的に料理は田辺さんが担ってくれるという(僕に作ることのできるレパートリーが相当限られていたためだ)。

「料理は嫌いじゃないし、大丈夫です」

 彼女は言った。とは言え、料理は女性の仕事、なんて時代ではない。僕が料理をできないばかりに、彼女にしわ寄せが行くのは嫌だった。

 そう伝えると、彼女は「じゃあ、何か力仕事が必要なときはお願いしますね」と微笑む。

 二人して、そういう時代じゃないな、と笑った。

 結局、掃除関係を僕が担当することになった。モップ掛けや掃除機掛けは普段からやっていたし(もちろん日中はパートの清掃員さんが担当していたのだが)、僕も掃除そのものは嫌いではない。ただ、広さが問題だった。小さなモールとは言え、一人で掃除をするには限界がある。いくつかの区間に分けて進めることが必要かもしれない。

 ある程度の役割分担を終えると、僕らは食品の整頓に乗り出した。

 田辺さんが数日分の食材をすでに取り分けてくれている。後は、日持ちのしない食品を早めに片づけておかなければならない。

 これが思った以上に大変な仕事だった。田辺さんが、野菜、果物、肉、海鮮、そういったものを片っ端から大袋に詰めていく。僕は台車にそれらを載せ、バックヤードへ運ぶ。

 僕らがゴミ置き場として選んだのが、普段トラックなどが乗り入れる搬入口だった。今はシャッターが閉まっているが十分な広さがあるし、何よりバックヤードの端にあるのだ。この先、ゴミが悪臭を放つようになることは目に見えている。極力、そういったものは居住スペースから遠ざけておきたかった。

 僕は搬入口の端からゴミ箱を並べていった。


 昼食の頃合いになっても、まだ十分の一も片付かなかった。

 僕らは出来合いの弁当を食べる。僕は肩と腰が限界だったので、田辺さんに断って少し身体を休めた。

 田辺さんはその横で、豚肉の薄切りをラップフィルムに並べていた。

「気休めですけど」

 彼女は言った。

「お肉なんてすぐ傷んでしまうんで、いくらか冷凍しておこうかと思って」

 僕がありがとうと言うと、彼女は首を横に振る。

「冷凍するとは言え、もって一か月くらいなので、そこからはお肉料理が難しくなります」

 なるほど、と思った。ショッピングモールだから食事の心配はいらない、と勝手に思い込んでいたが、実際にはかなり厳しい闘いになるのかもしれない。傷んだ食品を口にして食中毒でも起こすようなことがあれば、助けの来ない今の状況にあっては命取りになりかねない。

 田辺さんも同じことを考えているのかもしれなかった。彼女は押し黙って、肉をラップに並べ続けた。


 午後いっぱい使って作業を進めたが、全体の三分の一にも達していなかった。搬入口の床にはゴミ袋が敷き詰められている。これからは、上へ上へと重ねていかなければならないようだ。

 僕らは代わるがわるシャワーを浴びる。僕は朝に入る取り決めだけれど、あれだけの作業の後でさすがに我慢できなかったのだ。シャンプーやボディソープは商品から拝借した。

 ここから数日は、食品の処理に費やすことになるだろう。そう考えると少し憂鬱な気分になる。しかし一方で、やるべきことがあるというのは幸せなのかもしれなかった。

 夕食として、田辺さんが牛肉のステーキを振舞ってくれた。

「一番高いお肉を使っちゃいました。どうせ廃棄になるんで」

 そう言って田辺さんはぺろりと舌を出した。

 僕らはうどん屋のテーブルで向かい合っていた。

「お米とみそ汁もありますよ。あ、みそ汁は即席ですけど」

「お米なんていつ炊いたの?」

「お昼にちゃちゃっと。最初はこのお店の炊飯器を借りようと思っていたんですけど、大きすぎて使い勝手が悪かったんで、家電屋さんから一つ持ってきちゃいました」

 思った以上に、彼女はしたたかなのかもしれない。

 そう考えてから、僕は内心首を振った。僕らはこれから少なくとも三か月、ここで暮らすのだ。物品を使うことに毎回迷っていたら、いざというときに自分の首を絞めかねない。

 田辺さんは、普段キャップにしまっている髪を下ろしていた。毛先がわずかに濡れている。いつものシャツにエプロン姿ではなく、グレーのスウェットを身に着けていた。もしかしたら、彼女の部屋着はそんなふうなのかもしれない。

 僕はシャワーを浴びてから、モールの制服を再び着用していた。食事の後、二階フロアで寝間着を見繕う必要があるだろう。

 僕らは黙々と肉を口に運ぶ。僕はこの先のことを考える。今晩のこと、明日のこと、一週間のこと、一か月間のこと。きっと田辺さんも同じだろう。

 ふと、彼女の家族のことが心配になった。携帯電話で連絡を取り合っただろうか? 僕は早くに両親を亡くしているし、今は恋人もいない。僕のことを気にしているような親族もいないはずだった。

「家族には連絡を取れた?」

 そう尋ねると、田辺さんは苦笑気味に頷く。その表情を見て、僕は少し身構えた。もしかしたら、触れない方がよい話題だったのかもしれない。

「ええ、大丈夫です」

 田辺さんはそう答えた。苦笑に近い表情は、もう消えている。僕はこれ以上深入りしないことを決めた。

 そんなふうにして、僕らの初日の夕飯は終わった。


 部屋着としてスポーツウェアを選んだ。薄手のジャージを羽織り、僕はソファに腰掛ける。

 僕らは二階をそれぞれの寝室にすることとした。

 二階フロアの西側に、寝具売り場がある。その展示の中にベッドがあった。安物だけれど、おそらくこのモール内で一番安眠できるだろう。田辺さんは、そこで夜を過ごすことになった。

 僕は、保険相談窓口に大きめのソファがあるのを見つけ、そこを拠点にすることにした。フロアの南側にあり、田辺さんの寝所とは適切な距離を保っている。適切な距離とはつまり、お互いに見えない、聞こえない距離ということだ。

 枕代わりのクッションに、毛布を一枚持ち込む。

 一階、二階のどちらも照明を落としてあり、お手洗いのある辺りだけを点灯させていた。

 階下から、冷蔵設備のブウーンという音が鈍く響いてくる。

 広い空間ではうまく寝付けないことを、僕は初めて知った。生き物としての本能だろうか。捕食者たちは、こちらが無防備になったところをどこからでも襲うことができる。そんな不安が付きまとう。

 ソファに横になりながら、自分の呼吸音に耳を澄ませる。今日はいろいろなことがあって、眼が冴えるのは仕方ない。少しずつ慣れていくのだ。

 ふと、田辺さんは眠れているのだろうか、と思った。眠れていないに違いない。彼女の場合、眠りを妨げる敵は、空間の広さや不慣れな環境だけではないからだ。

 

 彼女にとって、よく知らない男が同じ空間にいる、というとても具体的かつ現実的な不安があるはずなのだ。その状況下で、すやすやと眠れる方がおかしい。

 その事実に重い当たり、僕はわずかに罪悪感を抱く。どうしようもないことなのだけれど。

 仰向けになる。暗い中に、無機質なパイプや電気配線が並んでいる。今までモールの天井なんて気にしたことがなかったけれど、思った以上に殺伐とした景色だ。

 明日はラジオでも持って来よう。そうすれば少し気も紛れるかもしれない。

 そんなことを考えながら、いつしか僕は眠りに落ちていく。

 夢の中で、誰かの声を聞いた気がした。その誰かは、「思い出せ」と言っていた。

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