第4話 初めての外出と初めての殺し
いつの間にか、貯蔵していた保存水の在庫が半年分を切っていた。これに関しては完全に私の見積もりが甘かったとしか言えない。生活用水を余分に使い過ぎたり、夏場に水分を取り過ぎたり……とにかく、考えられる要因は大量にある。当初は四年持つ予定だったのに、いつの間にか倍近くの水を使用していた。
食事に関しては切り詰めればいい。でも、水はそうはいかない。何をするにも、水は欠かせない存在だ。どうにかして、補給する必要がある。それは一時期的に、外に出なければならないということを意味していた。
自宅から最寄りの川までの最短距離は実に三百メートル、往復で六百メートル。そこまで遠い距離ってわけじゃない。でも……血肉を求めて彷徨い歩く亡者の群れの中を駆け抜けると考えたら、気が遠くなるほどの距離だ。結局、外に出る決断を下すのに、更に一か月近くかかってしまった。
そして、ついに覚悟を決めた。このままでは太陽に焼かれたナメクジのように、干からびて死んでしまう。どうせ死ぬなら、足掻いて死ぬべきだろうと。
それに万が一、ゾンビと遭遇しても……対抗手段はある。それは地下の貯蓄庫に、眠るように段ボール箱の中で収められていた。多分、この生物災害がなかったら、家にこんな物騒なものがあるなんて想像もしなかったはず。
世間一般ではその武器は〝クロスボウ〟と呼ばれているものだ。弓の一種だけど、弦が固定されて、バネの力を利用して矢を飛ばす。殺傷能力は……頭蓋骨を容易く貫通するほどだ。こんな危険なものがよく市販されていたと思う。規制をされていてもおかしくない代物だ。
恐らく、対ゾンビという意味では日本で入手できる範囲で最上級の遠距離武器ということは間違いない。これより上となると、猟銃くらいしか思い浮かばないけど……静音性を考慮したら、こちらの方が上まである。弾薬である矢を使いまわせる点もグッドだ。
一体、父はなぜこんなものまで購入していたのか、その真意は分からない。まさか、ゾンビパニックまで想定していた? んなわけないか。まあ、多分……緊急時の自衛手段として、私にも扱えるものを用意してくれたんだと思う。本当に……父には助けられてばかりだ。
クロスボウの全長は六十センチ程度。女子が携行するにはやや大きいサイズだが、盾にもなると思えば悪くはない。でも、扱うには二つ問題があった。
まず一つ、命中精度だ。自慢ではないけど、私がこの手の弓に触れたことなんて、小学校の頃に自然学校で行ったアーチェリー体験が最後だ。試しに何回か試射したけど、五メートル先の止まってる的でさえ当てるのは難しい。実戦で使うなら、練習が不可欠になる。
そして、もう一つが
それからはクロスボウを取り扱うための特訓をした。ひたすら的に向かって試射、基礎体力兼装填速度を上げるための筋トレ、実戦を想定した模擬訓練……時間だけは有り余っていたから、そこまで練習は苦じゃなかった。むしろ、目標ができて楽しかったくらい。更に一か月後、万全とはいかないけど、どうにか形にはなるくらいの腕前にはなった。ここでようやく、私は変わり果てた外の世界へと踏み入ることになる。
念入りに準備はした。DJ飯田の情報ではゾンビに噛まれる可能性が特に高いのは関節部分。手首、足首、首元……これらの部分を率先して狙う習性があるらしい。そこで、手足に何重にも布を巻き付けることで、簡易的な
近接武器も忘れてはいけない。クロスボウが必ず命中するとは限らない。距離を詰められた時のために、腰に刃渡り二十センチの刺身包丁を装備する。いざとなれば、これで脳天をぶっ刺す。
また、ゾンビは嗅覚が発達している可能性も高い。防臭剤をよく服に振りまいて、体臭をできる限り消す。もっとも、これは気休め程度だけど。川への経路は何度も頭に叩き込んだ。焦らず、慎重に、周囲を警戒しながら、迅速に向かう。片道十分、水の確保に五分、帰宅に更に十分。合計二五分で作戦は完了する。そして、ついにその日がやってきた。
一年と数か月ぶりに、外に出た時の感想は太陽の眩しさに驚いた。窓から日光を眺めることはあったけど、基本的には貯蔵庫の地下で過ごしていたら、どうしても目が暗所に慣れてしまった。夏真っ盛りということもあり、燦燦とした日光が眼球を刺激する。
でも、太陽の恵みを有難がってる場合じゃない。まずは周辺確認。ゾンビの姿を念入りに探す。自宅の周辺には……奴らはいなかった。作戦続行。小走りで私は川へ向かった
住宅街の様子は……まるで映画に登場するポストアポカリプスの世界のように、荒廃した雰囲気が醸し出されていた。でも、惨禍の痕跡は残っている。電柱に突っ込んでいる車。明らかに致命傷を負ったと思われるが、その持ち主が消えている血痕。道路に放置された干からびた臓物。
しかし、周囲には人の気配どころか、物音ひとつもしない。一体、ここに住んでいた住民はどこに消えてしまったんだろう。そんな疑問を思い浮かべていたまさにその時……前方三十メートルほどの距離に、動く影があった。
ゾンビだ。一目見て、直感した。その予想は正しく、成人男性と思わしき体格のいいゾンビがヨタヨタとこちらに向かって歩行をしていた。顔をよく見ると、顎の肉を食われたのか、下唇が消失しており、歯茎が剝き出しになっている。
そのグロテスクな姿は本能的な恐怖を抱いてしまう。ほんの一瞬、逃走という選択肢が頭を過ったけど、川へ向かうにはこの道を通るしかない。周囲には他の敵影はいない。一対一、初戦にしてはこれ以上にない好条件だった。
まずは相手の
名前の通り、ゾンビの中には走れるやつがいるってこと。この個体差についても詳しいことは何も分かっていない。腐敗の速度によるものなのか、元の運動神経が関係しているのか、ウイルスが変異したのか。とにかく、相手が走行者だった場合は厄介だ。数は少ないけど、一瞬の油断が命取りになる。
クロスボウを構えながら、私は徐々にゾンビに接近する。やっぱり、初めての実戦ってこともあって、遠距離狙撃はなるべく避けたかった。確実に当てる距離で、一発で仕留めるのがベストだ。十メートルほどの距離にまで近づいた時点で……ゾンビが私の存在に気が付いた。
『ウゥ……』と低い唸り声を出し、白目を剥き、両腕をこちらに向けながら、ゆっくりとゾンビは歩み始める。運がいいことに、そいつは歩行者だった。
私は深呼吸をして、クロスボウの照準を目の前のゾンビに合わせる。ゆらゆらと不規則に頭が揺れていたけど、そこまでのズレじゃない。素人でも、充分に偏差を見極めることができた。そして、引き金を引く。
ピンッ
ビシュン
弦が振動する軽快な音と同時に、矢が空を切る。刹那、ゾンビの頭部に一本の〝棘〟が生えた。この時、私は初めて……ゾンビを殺した。
いや、殺したって言い方はおかしいか。元から死んでるんだし。
躊躇や罪悪感といった感情は特になかった。ただ、心にあったのは上手くいったという少しの達成感だけ。正直、自分でもここまで何も感じないとは思わなかった。これまで他人に暴力を振るった経験なんてないのに、いともたやすく撃ってしまった。果たして、これが私の持つ元々の性分なのか、それともこのイカれた世界で私もイカれてしまったのか。今となっては真相なんて分からないけど。
ゾンビの頭から矢を引き抜いて、回収用の矢筒に入れる。べっとりと白玉みたいな脳味噌が矢に付着していたけど……使い切りにするわけにはいかない。あとで川の水で洗えば汚れは取れる。
初戦に勝利した私は再び川を目指す。ここまで来たら、もう目と鼻の距離だ。そこから数分で、無事に目標地点である川に到着した。
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