第5話 予測不可能回避不可能

 持参したタンクに川水を入れる。移動に影響が出ない範囲だと……五リットル前後が限界。それ以上は私の体力と筋力に差し支える。用心に越したことはない。その時、ついでに水分補給もしようかと考えたけど……やめておいた。どんな細菌がいるのかも分からないし、腹痛を起こす可能性がある。最低限、一度火は通しておかないと。もしも、この川水にウイルスが紛れ込んでいたら、私は一巻の終わりってことになるけど、そうなったらもうどうしようもない。最悪の可能性は無視することにした。

 これで半分の作業は終わった。あとは帰宅するだけ。でも、この帰り道がもっとも危険だと言える。行きと違って、リュックの中には五キロのタンクが入っている。いざとなれば、タンクを捨てて逃走することも視野に入れて、私は警戒しながら自宅へと戻った。しかし、そんな心配に反するように、結局、その日の帰り道にはゾンビに遭遇することはなかった。

 初めての遠征を終えて、無事に自宅に戻った時には……どっと疲れを感じたのをよく覚えてる。結局、その日はすぐに眠ってしまった。


 さて、水を回収したのはいいけど、ただ一度、五リットル程度の水を獲得しただけでは根本的な解決になっていないというのは既にお分かりのはずだ。つまり、これからは定期的に、最低でも一週間に一度の頻度で、私は川に向かわなくてはならない。

 いや~……それからがキツいのなんのって。五、六人程度のゾンビの群れに遭遇するわ、走行者タイプに噛まれかけるわ、川の水を飲んでめちゃくちゃお腹壊すわ……この二年間で、色々なことがあった。でも、幸運が重なって、何とか私は生き抜いてきた。


 そして、あの日常が崩壊した日から……三年以上が経過した。私こと、赤羽雪音も成人を迎え、御年二二歳。普通なら、大学四年生になっていたはずなのに。今では立派な生存者(サバイバー)。本当に、なんでこんなことになったのやら。

 水を補給するようになって二年、ゾンビとは何度も遭遇したけど、結局他の生存者を目にすることはなかった。まあ、私の生活圏内は自宅から川への三百メートル以内だし、一度も生存者と出会わなくても何の不思議もないけど。

 でも、時々……不安に思うことがある。もう、この世で生き残っている人間が私だけで、他は全員死体になんじゃないかって。そう思うと……途方もない虚脱感に襲われることがある。このまま生きて何になるのか。私も、あいつらの仲間になった方がいいかもしれない。

 ――なんて、ね。それだけは絶対にない。死んだら、そこで全て終わりだ。この文字通りに腐った世界でも、多少はまだ幸福を感じる時がある。本当に、些細な幸福。例えるなら、四つ葉のクローバーを偶然発見した程度のものだけど、その瞬間こそ、一番の生を実感できる。私はまだ生きていいって、誰かに肯定されているような感覚が……確かにある。だから、自分で命を絶つような真似は絶対にしない。死ぬ時まで、足掻いてみせる――そう、思ってたんだけどな。


 *


「……はぁ」

 なぜか、これまでの人生がテレビ番組のように頭の中で流れて、やっと回想が終わった。なんで急に、こんなことを思い出してしまったんだろ。これじゃまるで――

「……走馬灯」

 ぼそりと、呟く。その瞬間、自分で言ったことを後悔してしまった。できる限り、考えないようにしてきた。どうにかして、助かる道はないか。治療法はないのかって。あぁ、当事者になって、やっと分かった。


 〝死〟という現実は――受け入れたくない。


 そっと、足の甲に付けられた傷跡に触れる。傷は浅い。でも、確かにあのゾンビの歯は私の肌に食い込んだ。確実に、Z-ウイルスは私の体内に入ってしまった。

 油断はしていない、と言ったら嘘になる。でも、あんなの予期しようもない。どうやっても、私はあそこで噛まれる運命だった。逃れられない死の運命……ってやつかな。


 いつものように、川に水を回収しに行った時の出来事。もうその頃になると、ただ水を取るだけじゃなく、簡易的なペットボトルの罠を使って海老や小魚を取るようになっていた。やっぱり、缶詰よりは生物なまものの方が美味しい。サイズは少し小さいけど、海老の塩焼きが何とも言えない絶品で……って、そんな話はどうでもいいか。私はペットボトルの罠を回収しようと、川の中に足を踏み入れた。その時、足に何か、衝撃を感じた。

 そこにいたのは――下半身どころか、上半身すらもほぼ残っておらず、胸元から上しかないゾンビだった。そのゾンビが、私の足に向かって噛みついていた。

 一体、いつからそいつは川底に沈んでいたのかは分からない。偶然、橋から落下して流れ着いたのか。それともずっと前から人間が来るのを待っていたのか……どちらにしても、皮肉なことに、罠を仕掛けられていたのは私の方だったわけだ。

 すぐに腰元の包丁を取り出し、ゾンビを仕留める。まだ靴を履いていたら、何とかなったかもしれない。でもその時の私は……川に入るということで、素足になっていた。戦々恐々としながら、ゆっくりと足を確認する。確かに、そこには……噛まれた跡があった。

 本当に、最悪だ。世界中探しても、こんな形で噛まれた者はいないだろう。今日この日、私が世界でもっとも不幸だったと断言できる。偶然、川にゾンビが沈んでいて、偶然、素足になった瞬間に噛まれるなんてこと普通ある?


 ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない、ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない――はぁ。不幸ってやつは本当に、確率論なんて無視して起こる。もう逆に笑えてくる。ハハッ。


「……いや、全然笑えないわ」


 あぁ、もう駄目だ。ここ数時間で、完全に冷静さを失ってる。一度、休憩した方がいい。そう判断した私は布団の上で横になり、仮眠をとることにした。

 願わくは――今日の出来事が、いやこの生物災害こそが夢でありますように。そう思いながら、私は目を閉じて、夢の世界へと旅立った。

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