黄昏を照らす者達Ⅰ
どれほどの間走り続けていたでしょうか。
とにかく無我夢中で走りました。
気づけば太陽は水平線によって切り取られ、赤い半球がぼんやりと海に浮かんでいました。
呼吸を落ち着かせてその場に腰を下ろしました。
ここは何処だろう。
人が居ない場所へ行きたかったので、街とは反対方向の南に進んできました。
砂浜は岩肌へと変わり、眼下に白波の打ち付ける断崖になっていました。
じきに夜が来る。
こうして私はまた1人の時間を手に入れました。
夕日を眺めていると頬がひりつきました。
血を吸って重くじっとり湿ったローブは不快で、脱ぎ去りたかったですが両腕とも今は使い物にならないので諦めました。
赤い腕は…今は使いたい気持ちではありませんでした。
こうしていると、孤児院を抜け出した日のことを思い出しました。
自分の居場所を失って、走って、走って、そうして1人になる。
結局のところ、私はあの時のままでした。何も変わってなどいませんでした。
バケモノとして陰に生きる覚悟もなければ、人間と共に陽の下に暮らせる程器用でもない。
自分自身と向き合うのを拒み、果てに大切な人を傷つけた臆病者で半端者の人でなし。
いっそこの崖から身を投げて仕舞えば楽になれるでしょうか。
私は立ち上がって下を覗きました。
高さも結構あるし吸血鬼の私でも…。
生まれ変わったら普通の人間として生きられるのかな。
この心底憎い吸血鬼の身体と決別できるのかな。
潮風は心なしかいつもより冷たい感じがしました。
淵のところに立ってみました。
後一歩前に出れば真っ逆さまです。
自然と足がふらついて、吸い込まれる様に…
———そんなん、大バカじゃん!!
瞬間脳裏にある言葉が湧いて思わず後退りました。
———ミナと今日、出会ってすっごく嬉しかったの!!
———勝手に離れていくなんて許さない。
———貴方の過去も未来も私が一緒に向き合ってあげる。
彼女の声が…。
———楽しい思い出、いっぱい作ろう、ミナ!
———私はミナの家族で、お姉ちゃんだから!
最愛の人の声が…。
——もう一人で戦わなくていい。
——私があなたの居場所になるから。
——私たちがあなたを護るから。
——美味しい料理もいっぱい作ってあげる。
————だから一緒にいよう、ね?
「——うぅ、ウルカ。ウルカぁ…ウルカぁあ」
ボロボロと大粒の涙が溢れてきました。
ウルカとの記憶も溢れてきました。
「ウルカぁ…会いたいよぅ」
私はウルカを傷つけてしまいました。
ウルカに牙を突き立て汚そうとしました。
貴女の善意を臆病な強情で踏みにじってしまいました。
私は本当にウルカの側にいる資格なんて有りません。
でも、私がそう口にすれば、貴女は必ずそれを否定して一緒にいようと言うでしょう。
私の驕りかもしれません。
ですがウルカはそういう人でした。
打算抜きで私を心の底から受け入れてくれる人でした。
貴女のそういうところ、お姉ちゃんにそっくりでした。
嗚咽が治まりません。
ウルカに会いたい。
その優しさに甘えたい。
あの場所へ帰りたい。
自分で抜け出してきたのに、なんと調子の良いことかと、思います。
ウルカに会いたい。
抱きしめて欲しい。
そして——
———その血を啜りたい。
ゾッとしました。
この醜く、忌々しく、悍ましい、吸血鬼としての原初の欲求に。
私の居場所を奪い、私の大切な人を奪ったこの思考に。
吸血、それは私の犯した最初の罪でした。
私という存在に深く根を張るどうしようもない大罪。
夜風に吹かれてだんだんと自分のなすべき事が分かってきました。
今まで逃げ続けてきた、この罪に向き合わなければなりません。
これは私がこれから先、生きていくのに必要な事でした。
あの場所に帰り、ウルカの隣に居させてもらうのに避けては通れない事です。
太陽は既に没して辺が黄昏に染まります。
お腹も減ってきました。
渇望は抑制剤の効果でまだ大丈夫だけど、夜までに何か動物を捕まえなきゃいけないですね。
冷えてきたので一先ず暖を取るために薪が必要です。
放浪生活中はいつもこんな感じでした。
取り敢えず生きるのに必要なことをする。
考えに耽る時間を取るためには目先のことを片付けなければなりません。
明日になったらまず初めにお店に戻って、先生に謝らなければいけません。ウルカを傷つけてしまったこととお店をメチャクチャにしてしまったこと。そして少しの間家出をすることを伝えます。
許して、くれるでしょうか。分からない。
でもやってみなければ分かりません。
あそこへ戻る為に、私が私と向き合うために、出来ることはなんでもやらなきゃいけません。
その時、ウルカとは顔を合わせない様にしないと。
本当はきちんと謝って仲直りがしたいです。
でも今ウルカの顔を見ればまたあの欲求が襲ってきてしまいます。それだけは避けなければなりません。
切り落とした右腕の再生は時間がかかるので、一先ず左腕だけ使える様に治しました。
それにしても、あの時一瞬だけ正気に戻ることができて本当に良かった。
もしもあのままウルカに噛み付いていたらと思うと怖いです。
おそらく身を投げていたでしょう。
やるべき事が分かったら気分も少しは持ち直すことができました。
さてと、完全に夜になる前に準備をしなくては。
湿ったローブを脱いで腰を上げました。
そして振り向いた先には、人がいました。
ランタンを手に、こちらをじっと見つめていました。
灯りが黄昏の闇を払って、その顔を照らし出します。
それは、私が今、一番会いたくて、一番会いたくない人でした。
「ここに居たんだね、ミナ」
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