渇きⅡ

 壁の振り子時計の針は4時10分を指している。

 海に面した方の窓にはオレンジに輝く太陽が収まっていて、そこから放たれる同色の西陽によって店内は満たされていた。


 先生が帰ってくるまで大体2時間、ミナが抑制剤を飲んでから凡そ4時間経った。

 そろそろかな。


 私は先生の論文を参考に簡易魔法陣の設計をしていると見せかけて、ミナの顔を横目でずっと監視していた。

 いつもなら私の研究ノートのページが昼から一切変わっていないことに気づいて「ちゃんとやりなさい」とお叱りを受けるところなのだが、今日は全く気付いていない様子で読書に耽っている。

 本人は問題ないと言っているが問題ありありだ。


 西陽のせいで分かり辛いが、ミナの顔色はすでに結構悪い。

 本を読んでいる様でさっきからページが進んでいない。

 集中力の低下は渇望の症状が発現しかけている証拠だ。


 ミナの様子をそうして伺っていると、不意に読んでいたパタリと本を閉じた。栞、挟んで無いけど。

 そうしてカウンターの引き出しを開ける。


「——あれ、ない…」

「ん?どうしたの、ミナ?」

「抑制剤が、どうして…。入れておいたはずなのに…」

 徐々にミナの顔が青ざめてくる。

「どっかに入れ違えたとか…」

「そんな、まさか、確かに戻したはずなのに」

 引き出しをガサガサやるも小瓶は出てこない。

 ごめんミナ、そこに抑制剤は無いよ。


「わ、私も探すの手伝うね…」

 とりあえず勘付かれる前にミナから距離を取ろうと立ち上がろうとするが、何故だか椅子から腰が上がらない。

 なんか身体が重いぞと思ったらミナが後ろから私の両肩をがっしり掴んでいるのがわかった。

「…えっと、ミナ?」

「————てください…」

 ちょ、ミナの声がちょっと怖い

「教えてくださいっ!!抑制剤の場所!!」

 恐る恐る振り向くとミナにすごい剣幕で怒鳴られた。

 いつもの冷静さはカケラもない。

 てゆかやっぱりバレてた!


「わ、私は何も…」

「とぼけないでください!!何処に隠したんですか!早く、教えてください!!」

 ミナってこんなに怒るんだ。

 あまりの圧に屈しそうになるが私だって譲れないんだ。

「い、嫌だ!」

「ウルカ!どうしてですかっ!!」

「もう薬飲んじゃダメ!だってミナ苦しそうにしてるじゃん!!」

「抑制剤が無いからこうなってるんじゃないですか!」

「そうじゃないの!とにかくアレはもうやめて!私の血を吸って!!」

「何でそんなわがまま言うんですか!!嫌だって言ってるじゃないですか!!」

「ミナだってわがままじゃん!てゆか自分で言ってたじゃん!いいから私に噛みついてよ!ほら!!」

 私はローブを脱ぎ捨て、首筋を曝け出した。


「ぜっっったい嫌です!!」

 うぅ、そこまで言われると悲しいけど…

「もーう!嫌じゃないっ!何で私じゃダメなのさ!」

 涙が出そうになりながら(もう出てると思うけど)ミナに向き合う。ここまできて引き下がれるもんですか!


「そう言うわけじゃなくてっ……うっ、ぐぁ…」

 ミナが苦しそうに頭を抱えて壁に寄りかかった。

 私は咄嗟に駆け寄る。

「だ、大丈夫!?ミナ!」

「——ち、近づくかないでくださいウルカ!」

「嫌だよ!」

「なんで、貴女はそこまで…」


 ミナは見たことない様な顔をしていた。

 表情は苦痛に歪んでいるのに、眼だけは爛々と真っ赤に輝いていた。

 半開きで涎の溢れる口には明らかに普段よりも大きな犬歯が2つ覗いていた。

 自分の頭を右手で押さえつけながら、片手を突き出して私を静止させようとしている。

 私はその手を両手で強く握る。


「私はミナの家族で、お姉ちゃんだから!」

「だからぁ!!それが嫌なんですよ!!!」

 ミナが私の手を勢いよく振り解く。

 冷静さを欠いているからか力の加減が全く出来ていない。

 私は投げ飛ばされる様な形で床を転げ、店の反対側の壁に頭をおもいきり打ち付けた。

 商品棚が揺れて魔道具とか薬瓶が落ちガシャンと割れて散らばった。

 いてて…頭がクラクラする…


 視界がぼやけてよく見えないがミナは呆然としていた。

 あぁこれは、マズい。今のミナはただでさえ不安定なのに。何とか一旦落ち着かせないと。

「あぁ、私、なんて事を。ウルカ…ウルカ!大丈夫ですか。け、怪我は…」

「大丈夫だから、早く血を」

「私が…私のせいで…」

 違う。私のせいで、こうなっているのに。

 ミナは何にも悪く無いのに、自分のことで精一杯の筈なのに私のことを心配している。

 心が痛い。

 でも…


 ミナは頭を抑えながら私の元へフラフラと寄ってきた。

 私は力を振り絞って、そんなミナに飛びついた。

 私を受け止めたミナは体勢を崩して、2人で床に倒れこんだ。

 目が回って身体が動かせない。身体中が痛い。でもミナの方が何倍も辛い思いをしている。

「わたしから、離れて…ウルカ、お願い…」

「ごめんね、ミナ。でもその頼みは聞けない。ぜっっっったい嫌だよ。離れないから」


 私はもうすでに色々間違えてしまったと思う。

 正直ここまで抵抗されるとは思わなかった。ゴネれば行けるかなくらいに思っていた数分前の私を引っ叩いてやりたい。

 だがこうなってしまった以上、ここでやめてもどのみちミナは自分を責めるだろう。何も解決せずただ徒にミナを傷つけて終わってしまう。

 ならばせめて、ミナに私の血を無理やりにでも飲ませて渇望を完全に治す。

 ミナは嫌がるだろうが、私にできる事はこれくらいだ。

 もしかしたら私の血を飲むことで、吸血嫌いが克服できるかもしれない。


 ミナは縋るようにブラウスの裾を掴んでゆっくりと這い寄って来ていた。

 言っていることとやってる事が逆だ。

 吸血鬼の本能が理性を上回っている。


 そうしてミナは私に覆い被さった。

 その顔はどこまでも辛そうに見えた。

 目元に涙を湛えていた。

 獣みたいに喉をグルルと鳴らしているのがわかった。

 ミナはゆっくりと私の両肩を掴む、しっかりと。逃げられないなと思った。

 私は手を伸ばしてミナの長く滑らかな髪の毛を退け、頭を撫でた。なるべく安心させる様に、優しく、優しく。

「———ごめんね」

 ミナが掠れる声で言ったのが聞こえた。

 私はミナの頬に触れた。温かかった。

 ——これで本当に良かったのかな。



 燻んだ木板がぎしりと鳴いた。

 急に周りの音が遠かった気がして、聴こえるのは目の前の、腹を空かせた猛獣の様な彼女の苦しそうな呼吸音だけ。

 肩を押さえ付ける手に力が篭る。ちょっと痛い。

「——いいよ、ミナ」

 私はなるべく優しく、囁く様に言った。


 ミナはゆっくりと私の首元に頭を寄せる。

 髪の毛が素肌を撫でてこそばゆい。

 首元に涎が落ちて肌を伝うのがわかった。

 彼女の吐息が耳元で、すぐ間近に聞こえる。体が強張る感じがした。

 来たる痛みに備える。



「——お、ねえ、ちゃん…」


 小さな小さな声が聞こえた。




 瞬間、ヒュンと風を切る様な音がして何か赤いモノが視線を横切った。

 上半身に飛沫が降りかかり、左肩辺がじんわりと温かく濡れていくのが分かった。


 見れば私を押さえつけていたミナの右腕が肘のあたりでスッパリと横にズレているのが分かった。

 鋭い刃物で両断された様な断面からは血が溢れてくる。

 右手の支えを無くしたミナはバランスを崩し私の上に重なった。


「ミナァ!!!」

 何が何だかわからず叫んだ。

 ミナはブワッと顔をあげる、その目には先ほどまでと違う、正気の色が見てとれた。


 ミナは大きく口を開けたかと思うと、未だ私をがっしりと掴んで離さない自分の左腕に思い切り噛みついた。

 グシャっと肉を裂くような音がして口元から血が吹き出した。


「何してんの!?ミナ!!」

 何度も、何度も、執拗に自分の腕に噛みついた。

 色白の柔肌に鋭い犬歯を繰り返し突き立てて裂いた。

 その度に血が流れ、ミナは苦痛に顔を歪ませた。

 身体が言うことを聞かないんだ。

 腕は未だ私の肩を痛いほどに掴んで離さない。

 でもこのままじゃミナの左腕が千切れて落ちる。


「ミナぁ!!やめて!!もうやめてよぉおおお!!!」

 私はジタバタと持てる力全てを持って暴れた。

 ミナをなんとか退けようとするも全く動かない。

 近くにあった商品棚を蹴飛ばした。

 衝撃で棚の物が崩れ落ちて床を散らかした。

 色んな物が落ちて、その中に小さな小瓶の破片と白い錠剤が見えた。

 あれは!

「ミナっ!!抑制剤!」


 私の言葉に反応したミナは辺りを見渡す。

 そうして抑制剤が視界に入ったかと思うと、右腕の断面から真っ赤な触手のようなモノが現れ、散らばる錠剤の方へ伸びて床にベシャリと衝突した。


 時間が止まった様だった。

 ミナは動きを止め、血の滴る音だけがピシャリピシャリと静かに響いていた。

 少しすると、触手がスルスルとミナの腕の中に戻っていく。

 同時に私を押さえつけていた左腕も解放された。自分で噛みつき、ズタズタになっていてだらりと垂れ下がっている様な状態だった。

 わたしもミナも藍色だったローブは血に塗れ紺より更に濃い色に染まっていた。


 ミナはふらりと立ち上がる。未だ血がポタリポタリと垂れて床の水たまりに落ちていた。

「———ミナ?」

 所々赤く染まった銀色の髪で顔が隠れて表情が分からない。

 凄まじく嫌な予感がした。

「ごめん」

「ミナ?ちょっと…」

「ごめんなさいっ」

 そういうとミナは走り出した。

「ミナ!!待って!行かないで!!!」

 玄関を勢いよく開けると外へ駆け出して行った。


 追いかけたかった。

 しかし腰が抜けてしまって力が入らなかった。

 取り返しのつかないことしてしまったのかもしれない。

 玄関へ続く血痕を眺めていると、どうしようもない焦燥と絶望が襲った。



 血塗れの私はメチャクチャになった店内に独り残された。

 赤い斜陽が床にできた水溜まりに反射してキラキラと輝いていた。

 開け放たれた扉の向こうには夜の訪れをつげる深い藍色の空がどこまでも広がっていた。


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