第9話 鬼上司は気持ちを振り回してくる
最近している仕事がうまくいっていない。失敗続きでさらに気持ちが落ち込んでいた。
やり直し三回目のサンプルをようやく乾燥機に入れられたのが定時を回っていたのでなんとなく気が抜けた。乾燥まであと一時間、暇を持て余していた。
暇だからってボーッとも出来ず、何件か入っていたメールをチェックしていた。
安全関係や転送メールが多いが報告書の承認のメールが目に留まる。
(なんの報告書だっけ)
最近報告書を上げた記憶がない。それくらい今は失敗続きの試験しかしていなかった。報告書を開けて木ノ下さんと一緒にした試験だったのを思い出す。
(あぁ……これまだ報告されてなかったんだ)
ぼんやりとその時の記憶を呼び起こす。
先に試験を終えた私は、報告書の作成をどうしたらいいか尋ねると作っておいてほしいと頼まれた。作成して先に値を記入し、電子印を押して木ノ下さんにメールで転送しておいた。
納期はまだ先だし、木ノ下さんの結果が出ないと承認までは回せないが、自分の担当業務が終わるととりあえずホッとした。誰かと並行して仕事をするときは進捗が遅れると焦る分なおさらだ。特に相手は木ノ下さん、待たせたくなかったしミスがないようにしたかった。
あれからも相変わらず木ノ下さんの薬品管理はズボラな時が多くて正直イライラした。在庫数と台帳が合ってないは日常だし、自分が薬品を専用で使いたいときは付箋を貼って専用化を申し出ても勝手に外されているときもある。
嫌がらせなのか本当に迷惑なのか、ダメならちゃんと口で言ってくれたらいいのに木ノ下さんは黙ってそういうことをする。怒りたいときにもあえて人がいる場所を選んでわざと声を上げてくる。それももうずっと前からあることで慣れたけれど、最近はなんだか無性にイライラした。
やることの低レベルさも、やっている仕事の雑さも、それを全然悪びれもせず自分は仕事をしているとアピールする態度もやたら鼻についた。そう思うのは私の心に余裕がないからなんだろう。
ここ数日、気持ちがずっと落ち着かなかった。
些細なイライラと悶々、そしてうまくいかない仕事。その状態は仕事を辞めたくなる気持ちに拍車をかけた。
仕事をじゃない、派遣を辞めたい。
二年ほど前から悩んで考えていたこの気持ちはまるで心の中で飼う風船みたいに、日を追うごとに膨れてはしぼんでを繰り返していた。
今風船が大きく膨らんでいる。
頑張れない、その気持ちが胸を占めているとき。
負の波が襲ってきていると感情的になりやすいし、それにより精神的に不安定になる。久世さんがいつか本社に戻るかもしれない、その気持ちが空気を膨らますキッカケになった。
一緒にいるほど辛くなる。仕事を任されるほど嬉しいのに、泣きたくなった。
欲しかった信頼を自ら手放そうとする悔しさと虚しさから苦しくて逃げたくなった。
そう、私は逃げるのだ。
仕事にも、久世さんにも。
その逃げたい気持ちが余計に悲しい。
いろんなことを言い訳に結局は逃げる、その事実が情けない。
開かれた報告書を閉じようとしたとき何気なく見た電子印。名前と一緒に日付が記載されるのでそれを見てぼんやりした思考が急にはっきりとする。その横に押された私の電子印も同じ日付で胸がドクンと鳴った。
(勝手に押し換えられた?)
胸が無駄にバクバクしてくる。
私は報告書を転送する前に自分で自分の電子印を押した。その電子印の日付が木ノ下さんと同じ日になるわけがない。
電子印は社員番号さえ押せばだれでも勝手に開けて押せるものだけれど普通は押さない。印鑑を引き出しから出して勝手に押すのか?行為は同じことだ。
自分の仕上げた期日と先に仕上げた私の期日が合わないのが気に入らなかった?
派遣の私が社員の木ノ下さんよりはやく終わらせていたと思われたくない?
黒いドロドロした感情が湧き出してくる。
こんなこと、些細なことじゃないか。勝手なことするんだな、そう思ってやり過ごせばいい。
ずっとそうやって飲み込んできた。
でも。
(もう無理、馬鹿にされるのはもうたくさん)
会社のことならいい、決まりやルールのことならいくらでも飲み込んでやる。
それは私にはどうしようもできないことだからだ。
でも私のことを好き勝手されるのはたまらない、私のしている仕事を無断で踏み荒らすな。それだけはどうしても許せない、私は私の仕事をしている。私にだってやり通したい仕事がある、気持ちが――あるんだ。
引き金になるには十分だった、胸の中の風船が――パンっ――と、割れた。
事務所に行こうとしたのと同時だった。実験室に久世さんが入ってきたのは。
目が合った瞬間に私の異変に気づいたのか声をかけてきた。
「どうした?」
「……」
身体が沸騰したように熱い。
悔しくてむなしくて、悲しい。手が、震えている。
「なにがあった?」
なにかを、いつも察してくれる。それがうれしくて今は辛い。
「……辞めたいです」
自分の声の震えに驚いた。全身が震えているのだと声を出して気づいた。
「仕事、辞めさせてください」
久世さんは何も言わない。
「エンジニアリングの方に……先に言わないとだめですよね、すみません、手続きはそちらからしないと……「待って」
腕を掴まれた。許しも何も聞かずいきなり掴まれた。
「ちょっと、奥行こう」
そのまま実験室まで強い力で引っ張られて扉を閉められる。
静かな部屋だけど空調の音が耳につく。扉を閉めたら完全に二人きりになって別の震えも襲ってくる。
「なにがあったの?」
心配するような、でも苛立ちも感じる複雑な色を含んだ声だった。
「……もう、ずっと考えてたことです」
「いつから?」
「……二年前です」
二年の言葉が予想外だったのか眉を顰められた。
「更新まではまだ時間が残ってるんですけど……今している仕事はきちんと終わらせます。それが終われば……「待って」
なんだかさっきと同じようなことを繰り返している。
「ちょっと待って。勝手に話を進めないでほしい」
「契約満了までは難しいですか?」
「そんな話はしてない、理由を聞きたい」
まっすぐ見つめられて胸が締め付けられる。
「……もう……辞めたいと思っただけです」
「言えないってこと?」
「……」
「言いたくないってこと?」
「……」
何も言えない私に苛立ったように聞いてくる。
「辞めます、はいそうですかとは言えない。納得させて?俺のこと」
「納得してくれます?久世さんに……わかるわけないし」
「聞かなきゃわかんないだろ、言え」
強い口調にムッとした。
「それパワハラですよ」
「言えないのは俺が理由ってこと?」
(そうだよ、久世さんのせいだよ!)
「もうっ……嫌になっただけです!自分がバカみたいで……勘違いして……もうしんどいっ……」
認められることがどんなに救われて頑張れるか。
求められることがどれだけ嬉しくて応えたくなるか。
全部久世さんが教えてくれた。
「……好きなのに」
久世さんに見つめられたらもうだめだ。避け続けた瞳に見つめられたらどうにかなる。胸に刺さった棘が見つけられない、そこはもう完全に抜け落ちて失くしてしまった。ただ今は傷になって塞げないほど大きな痕が付いている。
そこに、触れてこないで。触れようとしないで。
触れてほしくないの。
触れられたくないの、だって――、触れられたら自分がどうなるかわからない。
「……仕事……大好きなのに……受け入れられない自分が嫌になる……私が……もう私を受け入れられない……」
視界が歪んで泣きそうになるのを必死でこらえながら私は気持ちを吐き出した。
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