第3話 年下の部下は噛みついてくる

本社の品質管理から移動してきて慣れないことも多かった。


大学で化学をやっていたとはいえ、いきなり試験ばかりもしてられないし、前課長の引継ぎから溜まりまくってる報告書の承認をするのにデータを見たりしていたら時間がいくらあっても足りなくて。


部下の誰かに仕事を振るしかないのに適任がいないのが悩みの種だったが、依頼を回せば二日に一件くらいのペースで報告書を回してくる派遣の彼女に目を付けた。


測定値のばらつきもなくデータのまとめかたをみても無駄がなくてなによりミスがない。過去の試験結果を見たら値の精度の高さと再現性に驚いた。

実際業務で一番依頼試験件数を捌いているのが彼女だし、社員はほかの業務や案件を抱えているとはいえそれらの進捗状況が良いわけでもない。


つまり他の業務に手いっぱいで試験にまで手が回らないというわけではないのがわかる。そう思うと彼女の捌いている量が半端じゃなく多くてそれだけ仕事が早いのだろう。

試しに一度彼女に仕事を投げつけたら翌日には必ず報告をくれたので、仕事ができる子なのだと数週間で確信した。



「あの」

事務所で声をかけてきた彼女はどこかイラついているように見える。


(普段は割とスンッとしてるのに案外顔に出やすいんだな。おもしろ)


「なに?」

周りは結構俺に怯えて意見なんか言っても来ないのに興味深い。


「急ぎならそれを優先するのでちゃんと指示いただけませんか?」

「別に急いでないよ」

面白いくらいに応えてくるから投げつけてるなんて言ったらブチ切れそうだな、と思いつつ本音で返す。実際急ぎの案件でもない。


「空いた時間っていわれるとやりにくいんですけど」

「優先度は自分の仕事重視でいいよ」

「そういわれてもです」

「でも捌けてるじゃん」


いい返してくるから被せるように返すと噛みついてきた。


「ついでみたいにはできません!」

事務所内も変な空気になって、思わず吹き出しそうになる。

とりあえず人目もあるから実験室に連れて行くとしぶしぶついてくる。


依頼の内容を説明していると依頼書をでかい目がじっと見つめている。

確かに彼女にはサンプル名さえもろくに伝えていなかった。彼女が文句を言いたくなるのもわかる。これからは正式に依頼として渡してやろうと決めた。



「負けん気強いよな」


笑って言ったら明らかにムカッとした表情でまるで殺気だった猫みたいだった。


それと同時にどこかでこの子を懐かせてみたいとも思った。部下として面白くて育ててみたくなった瞬間だった。

それから隙を見ては仕事を振ったり割り込ませたりして俺のできない仕事をうまく捌かせているとさすがにキャパが埋まってきたのか彼女の進捗が止まりだす。


いつもだいたい定時であがる彼女が事務所に上がってこないので時計を見ると18時半を回っていた。


「おつかれ」

「あ、おつかれさまです」

実験室で黙々と作業している彼女、実験台にはフラスコが恐ろしいくらい並んでいる。


(あれ、俺こんなに仕事押し付けてたかな)


「これなに?」

フラスコを手に取ってサンプル名を確認すると俺が渡した試験サンプルだ。


「なにってなんですか?」

睨まれた。


「いや、ごめん。俺のふったやつ?」

聞くとまた睨んでくる。



「ほかにありました?」

「ないです」

「ですよね」

俺にこんな風に言い返してくるのは同期か彼女くらいだ。


「俺がこんな量のサンプル試験してる時間あると思う?」

開き直ると笑われた。


「ないですよ?ないでしょうけど……これなにもないですよ」

振っといてひどい、そういう割に全然嫌そうじゃない。


「ごめん、助かってる、本気で」

そう言うと照れたのか俯いた。


「ちょっと量が多いのと、明日装置の測定が混んでるから早くても明後日の夕方にしか結果出ません」

彼女が手を止めずに話し出す。


「了解」

当たり前だけど仕事の話しかしない、それがなにより心地いい。


「そういえば、有給消化してる?エンジニアリングの方から電話きて消化させるように言われたんだけど」

「……この状況で休みの話とかします?」


「いや、そうなんだけど……思い出したから」

「ふふ……じゃあ落ち着いたらまとめて取ります」


「え、まとめて取られるのはちょっと困るんだけど」

「えぇ?まとめてとり……た、い、っとできた!完成です!」

ずらっと並んだフラスコに彼女も満足げに微笑む。


「これであとは測定です。はぁ、疲れた!」

あはっ、と笑った顔が疲労感を感じさせないほど晴れやかで、仕事への前向きな姿勢が見て取れた。



「おつかれ、遅くなったな」

時計はもう19時になろうとしている。


「ちゃんと残業つけろよ?」

「はい」

俺の命令のような言葉に笑った。



「あれ、ちぃちゃんまだ残ってんの?」

声の方に二人で振り向くと2グループの内田がいた。



「お疲れ様です、久世さん試験!お願いしたいんですけど!」

依頼書を両手で差し出して深々と礼をする。態度で露骨にみせても内容次第だ、紙を受け取って一瞥する。



「……これ、うちにある装置だと<5以下しかみれないけどやる意味ある?」

「え!でもこの他社との比較で以下でもデータ欲しいんです。お願いします!」


「納期は?」

「……月末……とか?」

「…月末ねぇ…」考えてると彼女と視線が合った。


「スケジュールある?」

聞かれて目を丸くする彼女だが、実験台の引き出しからファイルを取り出した。


「ちょっと見せて」

彼女のそばにいき紙を覗き込む。



「……連休とりたいんだっけ?」

覗き込んだ視線を彼女に向けると「えっ?」と、目が合う。



黒い漆黒のような瞳は吸い込まれるように澄んでいる。


「いいんですか?」

その瞳が少し興奮したように揺れた。


「内田の仕事なければとれるかな」

「え!」それに内田が声を上げた。



「連休欲しいです」

嬉しそうに彼女が言うから内田に言う。


「だって。月末納期は無理だわ」

「「え!」」

二人の声が重なった。


「そんなぁ~」

泣きそうになる内田に、彼女が困ったように微笑む。


「久世さん、本っ気で意地悪いですよ」

「休みはいいけど、連休は諦めてくれる?」そう聞くと「貸しにしますよ?」と、挑発的な目を向けてきた。


「どっかで連休取らせるわ」

「絶対ですよ?」もう、とふてくされたように言うけど絶対連休を取ろうとなんかしてない気がする。


「やった!ちぃちゃん神!」

「ウッチーのせいだからねぇ」

内田とはくだけて話すんだな、とぼんやりと思った。


歳も内田との方が近いのか、その時初めて彼女自身のことを考えた。

仕事する部下ではなく菱田千夏という一人の女性のことを意識した瞬間だった。



彼女が俺とあんな風に距離を詰めて話をすることはきっとない。

真面目で芯が通った彼女は俺の前では徹底して部下の顔で仕事をしているから。




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