第2話 鬼上司はたまに優しさを見せてくる
実験室の隣はミーティングルームになっている。測定装置や資料、共通パソコンなどが置かれたりしていて仕事中行き来することは多いが。
「今はいかないほうがいい」
高田さんに言われて足を止めた。
「どうしました?」
「井上君が久世さんとお話し中……」
お話し中という名の説教中とも言える。
ガラス越しからそっと様子をうかがっていると井上さんが必死に話をしようとしているけれど冷たく一括されている様子が見て取れる。
(こわ……)
井上さんは必死のプレゼンもむなしく、書類を突き返されて肩を落としていた。
「今度の技術発表会のことだろうね。添削厳しいからなぁ、久世さん。私も早い目に資料作っておかないとやばいわ」
「大変ですねぇ……」
肩を落として実験室を出て行った井上さんの悲しそうな背中を見送りつつそうつぶやくと高田さんが肩を叩いてきた。
「菱田ちゃんがいてくれて仕事だいぶさばいてくれてるから大助かりだよ?試験してたら資料まとめる時間なんかないからさ。依頼に追われるだけだもん」
そう言われてあいまいに微笑む。
派遣の私の仕事は依頼を捌くこと、言えばそれだけだ。
責任のある薬品の管理や在庫のチェックもしない、発表会や自分でテーマを決めて研究することもない。毎日の仕事の中で依頼をさばくのは大事なことだ、それがここにいて大半の仕事でもある。
でも、日に日にそれだけでは満たされなくなってきているのも本音だった。
私には責任のとれる仕事は何一つないのだと、五年勤めだしてその現実を突きつけられている。
このままでいいのか、これからどうしていきたいのかを悩んでいることは誰も知らない。誰にも言えずにいる。言える相手がいないだけとも言えるが。
なんだか虚しいのだ、ずっと、だんだん……満たされずにいる。
「アルコールを排水に流すのってどうなんでしょう」
ぼんやりとつぶやいた言葉に井上さんが振り向く。
「あんまり……よくないよね」
「産廃の廃液ボックスにいれたらどうですか?」
「ボックスってあった?」
「ありますよ?あんまり使ってないですけどあの棚に」
あるだけ、みたいに場所だけ占領していたそれを戸棚から取り出して井上さんに見せると「いいじゃん」と乗り気になる。
「これからはそこに廃液として捨てて産廃処理にしようか」
「ボックス内に容量が分かるように記載もしていかないとですね。薬品ファイルにアルコール廃液のタグ作って記入していきましょうか」
「そうしよう、木ノ下さんには僕から伝えておくよ」
木ノ下さんは薬品管理を任されている社員さんだ。
「お願いします。じゃあ洗浄に使った廃液は今日からここに戻すようにしますね」
「うん、お願い」
井上さんと二人で話して決めたことだから深く考えなかったが、木ノ下さんに呼び出されて怒られた。
「これってどういうことかなぁ?」
廃液ボックスの残量が増えていることへの指摘だ。
「どうって……アルコールをそのボックスに戻したので書き直しました」
「なんでここに戻したの?」
井上さんは木ノ下さんに伝えてくれなかったのか。
「アルコールを排水に流すのはどうかなって……」
「どうかなって判断をどうして菱田さんがしたの?」
「あの、私だけが判断したわけじゃなくて……「菱田さんは薬品の管理とかはできないんだから勝手に変えられたら困るのよ」
木ノ下さんは私のことずっとよく思っていない。私が、というよりは派遣をだ。
「……すみません」
「とにかく、勝手なことはしないで。そもそも私に連絡しないのもおかしいし。これは直しておくから、今後は気を付けて」
そう言いながら記入した値を線で引いて訂正印を押されてしまった。
(ボックスの中身の量の確認もしないで訂正するんだな……なにそれ)
胸の中でつぶやくけれど言葉にはできない。彼女からしたらボックス内の廃液量なんかどうだっていいのだ。派遣社員が勝手に書き直した値が気に入らない、それだけのこと。
「なにが管理……」
実験室で一人をいいことに吐き出した。
管理もなにもない、漏れやミスも多いしやってるだけ感がすごいのはもう日常で慣れている。確認もチェックもない。それでもいつも忙しいと走り回ってるような人。それでも私とは違う。
彼女は社員で、私は派遣。
任される仕事が全然違う、悔しくてもそれが現実だ。
社員さんに与えられた責任のある仕事、それが大変なことはわかっている。
与えられてないから余計にそれを感じている。
でもそれを盾にされて忙しいとアピールされると悔しくなる。
私ができないんじゃない、派遣にできないだけなんだと何度も言い聞かせる。
派遣で働く以上この感情から抜け出せない。その悔しさが年々心を蝕みだしてきた。
「なにしてんの?」
いきなり声をかけられて心臓が飛び跳ねた。久世さんだ。
「あ……なんでもありません」
思わずファイルを背中に隠してしまう。
「なに?」
「なんでもありません」
「なに隠したの?」
「か、くしてませ、ん」
「嘘つくの下手だな」
背中に隠されたファイルをさらっと長い腕が攫って行った。
「なに?なんかあった?」
ぺらぺらとファイルをめくりながら聞かれるが答えられない。
「なんでも……ありません」
「……わかんないことあれば聞くよな、菱田さんなら」
その言葉に胸をきゅっと掴まれた気がした。
「木ノ下さんて事務所?」
「ですかね。さっきまでここで在庫チェックされてましたけど」
「そっか、入れ違いになったな。頼んでほしい試薬あったんだけど……このファイル今使ってた?借りていっていい?」
「どうぞ」
そういうと同時に17時のチャイムが鳴った。
「あ、じゃあ私、お先に失礼します」
「……うん、お疲れ」
探るようにじっと見られるといたたまれなくて、逃げるように実験室を後にしたのはいろいろ気づかれたくなかったからだ。
木ノ下さんに指摘されたことも、自分が感じた惨めな気持ちも、派遣でいることの悔しさも。
気づかれたくない。誰にも言えないこの気持ちを久世さんのような人には一番知られたくない。
「……わかんないことあれば聞くよな、菱田さんなら」その言葉が耳の奥で鳴り響いている。
私の言葉より派遣の行動として線を引いた木ノ下さんの後に、私自身のことを見てくれようとする久世さんの言葉が胸に刺さった。
その微かに感じた棘のような痛みのもとに気づかないふりをして帰り路を急いだ。
翌朝実験室に降りて行ったら珍しく久世さんがいた。
「おはようございます」
「おはよう」
パソコンをしている手が止まって手招きされる。
「立場的にもだけど、単純に周りだけが把握して自分が知らないとか性格的にも嫌なんだよね」
いきなりそう言われて首を傾げた。
「なんで言ってくれなかった?」
ファイルを目の前にかざされて息をのんだ。
「隠すくらいなら言えばよかったのに」
「別に隠したわけじゃ……」
「何でも飲み込むのが正解じゃないよ」
「そんなつもりじゃないです。木ノ下さんの言い分がもっともなので私が言うことなんかなかっただけです」
「木ノ下さんの言い分が真っ当だって本気で思ってる?」
(思ってないけど)
「井上とも話して決めたことじゃないの?」
「そうですけど!」
昨日収めたはずの気持ちがまた湧き上がってきて声が無駄に荒れてしまった。
「そう、ですけど。言う前に話が終わったので」
「とりあえず、改善提案書にまとめて出して?」
「は?」
(とりあえずってなに)
「改善提案、出せるだろ?」
なんの話をしているのか。
「前から思ってたんだよ。菱田さんってさ、何気に仕事の行程とか手順自分なりに考えて変えてるだろ。だから同じ精度が出せてる。なんで改善提案出さないの?」
「そんな、わざわざ文書にするようなことはしてません」
「それは勘違いだわ、文書にしろ。自分で考えて変えたことがプラスになるならそれは改善。どんなしょうもないことでもだ。これは業務命令、改善提案に出せ」
「ええ?」
「自分の出してる試験の精度の高さ自覚してる?」
(え?)
「なんで俺がわざわざ自分の測定頼んでると思ってんの?」
にやりと聞かれてもわからない。
「私が……測定しかできないから?」
「本気で言ってる?」はは、と笑われた。
「菱田さんにだから頼んでるんだよ」
その言葉に胸が跳ねた。
「言っちゃ悪いけど、木ノ下さんには頼まない」
これは内緒ね、と囁くように言ってファイルを渡された。
「ちゃんと書き直しといて。確認もしない訂正なんか認められるわけない。アルコールの廃棄は産廃扱いにするのも俺が了承した。これからは揉めたらちゃんと報告するように」
言い終わると同時に実験室の扉が開いてメンバーがぞろぞろと入室してきた。
昨日感じた胸に刺さった小さな痛み、その痛みの棘を抜いちゃいけない、あの時どこかでそう思った。
でも今確信した。
この棘は抜いたら深い傷になる、きっと取り戻せないような痛みを伴ってしまうと。
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