ゆびさきから恋をするーsense of distance
sae
第1話 鬼上司は仕事を山ほど振ってくる
穏やかだった実験室は最近ピリピリしている。理由は一つだけれど、誰もその事実を口にもしない。精神的に弱めで体調を崩しやすくて休みがちだった課長はついに本格的なお休みに入ったらしい。そして多分もうこの部署には帰ってこないらしい。らしいらしいというあいまいな表現はそれもみんなが口を噤んでいるから。
理由は正式に配属になった新しい上司のせいだろう。
「菱田さん、遠心分離機に入ってるサンプル、100ミリに定容しといてくれない?」
「……急ぎですか?」
「早いとなおいい」
「……了解しました」
そう返事した私に愛想みたいな「よろしく」だけをこぼして実験室を出て行った。
(忙しいのはわかるんですが……私の仕事の都合は聞かないのかい?)は、当然言わない。
久世さんは隙をついたように私に仕事を振ってくる。毎回手が回らないのに無理ですよ!みたいなときではなく、なんとなく仕事の目途が立った時や一息つけるなみたいなときにタイミングをはかったように投げてくるのだ。
(これはむしろ計算?わかってやってる?)
いつもこちらに断る理由がないときにばかりを狙ってくるから余計に腹が立つ。
この会社に勤めだして早五年ほど経とうとしていた。
ここは大手ガラスメーカーの一部上場企業、そこの技術・開発部研究部署。
別に理系の頭は持ち合わせていないけれど本体企業の子会社から設立されたエンジニアリングから派遣されて勤務している。
部署内にも派遣社員は数人いているが所属している5グループには私だけ。社員の男性が三人、女性の社員さんが二人、そのうち一人は時短勤務だ。
そこに新しく本社からのエリートがやってくると聞かされたのは三週間前。休みがちだった課長と並列して仕事をしていくとなんとなく聞いていたが、課長が本格的に会社に姿を見せなくなって気づいたらその一週間後には直属の上司の名前が変更されていた。
本社からやってきたその人、久世さんは長身で足も長くて顔も小さいモデル体型と切れ目のクールな印象のまぁイケメンで。配属されて数日は座っているだけで周りの女性社員たちの視線を虜にしてピンク色のため息をこぼさせていたけど、口を開くと愛想はないし話したら話したで辛口で冷たくて。
仕事の話をしにくる若手社員なんかは辛辣に言いくるめられたりして、久世さんに仕事を持っていくときは下準備とタイミングを入念にしないといけないとぼやいていた。
「かっこいいけど怖い人」
ときめきかけていた女性社員も、みんな口をそろえてそう言った。
そうして気づくと、周りは久世さんと一定の距離をとって仕事をし始めていた。
威圧的、そう言っていたのは2グループの内田君だったか。
「めちゃめちゃ怖いじゃん、久世さん。ちぃちゃんよくあの人の下で仕事してるよね」
「そんなこと言ったって私にはどうしようもできないし。別に仕事してれば何って言われることないよ。ねぇウッチーそれいつ終わるの?」
「あと10分」
(10分か……なんか待ってるには長いな)
ここで待ってる間にさっきの久世さんの仕事ができる、そう思ってサンプルを持って片付け始める。
「もう行っちゃう?もうすぐ終われるけど」
「10分惜しいしあとでまた来るね、おつかれさま」
内田君ことウッチーは入社三年目の若手社員。堅い人が多い理系の部署にしてはどちらかというとチャラいタイプ。出会った時から気さくに声をかけてくれるので今ではあだ名で呼びあえる仲にはなっている。
でも基本は慣れ合わないようにしている。
社員と派遣、その立場はいろんな人の考え方と見方があるからだ。
実験室に戻って言われていた遠心分離機のサンプルを四本取り出す。
蓋に書かれたサンプル名をガラスフラスコに書き写して100mlに定容する。これがなんの依頼でなんの試験なのかはわからない。
教えてほしい、とまでは言わないけれどお前が知る必要はないだろ、そう言われている気になる。
基本事務仕事の多い久世さんがたまに自ら実験しているレアなサンプル。本社では品質管理の部署にいたと聞いた。大学で化学を専攻していたので試験は慣れたものだとも聞いた。どれも人づてに聞いたことばかり。私が久世さんと直接くだけた話をすることはない。必要もないはそうだけど、そんなに距離を詰めれる間柄でもないのだ。
(派遣は黙って俺の言う仕事をしとけ、みたいな感じかな)
私と久世さんは派遣とエリート上司、ヒエラルキーの下層と上層にいるような交わることのない雲の上のような人なのだから。
「久世さん」
定時になったので事務所に向かってパソコンと向き合っている上司に声をかけた。
名前を呼んだら顔を上げてくれたが、イケメンにまっすぐ見つめられてたじろぎかけた気持ちをグッと飲み込む。
そんな気持ちは当然バレたくないので、なるべく平常心を装って話しかけた。
「先ほどいわれたサンプル定容して実験台に置いてあります」
「ありがと。今日測定してたサンプルの中にBi入ってたよね?標準液まだ残ってる?」
「残ってます」
「じゃあ同じ濃度域でいいから明日空いた時間に測定かけてもらっていい?」
「あの」
思わず口を挟んだ。
その声が思いのほか大きく出て事務所の人たちが一瞬こちらを見た気がしたが言った以上止められるわけがない。むしろ言うために声をあげた。その様子に久世さんもパソコンの手を止めて体の向きを私に向けた。
「なに?」
どうぞ言ってくれ、みたいな態度に余計カチンとくる。
「急ぎならそれを優先するのでちゃんと指示いただけませんか?」
「別に急いでないよ」
「空いた時間って言われるとやりにくいんですが」
「優先度は自分の仕事重視でいいよ」
「そういわれてもです」
「でも捌けてるじゃん」
(それは意地でもやってやろうと思ってるからなんだよ!)は、言わない。
「ついでみたいにはできません!」
気持ちが高ぶって噛みついた。
事務所内も心なしかシンッとしてしまって、後悔はないがやってしまった感はある。
周りの(あ~ぁ、偉そうに言ってるよ)感が、すごい。
派遣の私――が偉そうに上司に噛みついた。確かに偉そうだ、でも、久世さんだって上司だからって偉そうにして顎で使っていいもんじゃない。
「……ちょっと下いこうか」
久世さんが静かに席を立ってソッと背中を押された。怒ってる風にも見えないが感情は全く読めない。実験室に行ったらどんな冷たい言葉を投げつけられるだろう、内心はドキドキしている。
(やっちまった……)
「今日用事は?」
聞かれた言葉が予想外で一瞬ためらうものの特に用事はないことを告げると、「じゃあ、しっかり残業つけろよ?」そう言って実験室の扉を開けて中に入った。
久世さんが紙を一枚持ってくると実験台にそれを置く。並べられたサンプルフラスコを振りながら言ってきた。
「やってもらってたのはこれ。本社からの依頼試験で他社との比較サンプル、試作品だよ。急ぎじゃないけど値が出るのは早ければ早いほうがもちろんいい」
「……はぁ」
「測定してほしいのはBi2O3。まぁほとんど出ないと思う。測定したら計算までしてくれたら助かる」
「……わかり、ました。じゃあ、明日午前中に測定しておきます」
「ん。助かる」
フッと笑われてドキリとした。
ドキリはなにもときめいたわけでなはい。
びっくりしたほうが勝つ。
「納得した?」
「え?」
「ほんとは意地でもさばいてやろうと思ってるだろ」
そう言われて思わず息をのんだ。
「それは……言われたことは、やれる範囲したい性分で……」
「負けん気強いよな」
そう言って笑われた。
(これって、馬鹿にされてる?)
「とりあえず、よろしく。おつかれ」
依頼書を渡されて久世さんは実験室を出て行った。
(ムキになってやるってわかって振ってたってこと?めちゃくちゃ意地悪くない?!やっぱり腹立つ!!)
この日を境に久世さんは堂々と依頼書を持ってきて追加の仕事を私に振るようになってきた。
そのおかげで私は分刻みで仕事に追われることになったのである。
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