39 シナモン
実家に着くと、シナモンは保冷剤の入った小さな箱の中にいた。僕はそっと羽毛を撫でた。固く閉じられた目は、もう開くことはない。あのさえずりも聞こえてこない。母親は泣き腫らしていたようで、目が真っ赤だった。父親は言った。
「十時に、霊園の人が迎えに来る。お花買ってきたから、入れてあげよう」
僕たち家族は花を千切り、シナモンに添えてやった。好きだった青菜も一緒だ。インターホンが鳴り、父親がそれに出た。現れた職員さんは、深く礼をした。
「お子様をお預かりいたします」
父親が箱を渡すと、職員さんは丁重に受け取ってくれた。そして、車に乗って、シナモンは行ってしまった。母親は玄関で崩れ落ちた。僕は背中をさすった。自分よりも動揺している人がいると、かえって冷静になれるものだ。それに、僕は昨日のうちに泣ききった。
「父さん、母さん。紅茶でも飲もうよ」
ティーバッグを三つ取り出し、カップにお湯を入れた。しばらく三人とも無言だった。僕は作り笑顔をして言った。
「シナモン、十年もよく生きてくれたよな。お陰で楽しかったよ」
それから、思いつく限りのシナモンとの思い出を話した。僕がペットショップの鳥かごから動かなくて困らせたこと。テレビのペット紹介のコーナーに写真を出したら採用されたこと。父親も母親も、次第に笑顔を浮かべていた。母親が言った。
「シナモンがうちの子になってくれて本当に良かった。母さん、葵が家を出てから寂しくてね。シナモンには癒されてたの」
「うん、そっか」
父親が言った。
「国税に受かったら、こっちには帰ってくるのか?」
「いや、配属先は基礎研修の最後に知らされるみたいなんだ。だからとりあえずは今の所に荷物置いといて、配属が決まったらどうするか考えるつもり」
国税は、地域ごとのブロックがあり、その中での転勤だ。七瀬のように、一年目から田舎に飛ばされるケースも無くはないらしい。そうなれば、実家に帰ってくるどころではなくなる。僕は続けた。
「それに僕、きちんと自立したいから。自炊もやってるし、できれば一人暮らしは続けたい」
母親がスン、と鼻をすすってから言った。
「そっか。そうだよね。葵も大人だもんね。彼女はいないの?」
「いや、いないよ」
「良い子居たら連れてきなさいね?」
「期待しないでよ。僕は女の子を好きになったこともないよ」
「あら、そうなの? でもこれからじゃない。職場で出会いがあるかもよ?」
父親と母親は職場結婚だったと聞いていた。母親は寿退社して、今はパートをしている。僕も七瀬の存在がなければ、両親のように誰かと結婚する未来を夢想していたかもしれない。母親はさらに言ってきた。
「公務員同士の結婚なら、収入も安定していいじゃない。産休育休だって取れるし。そのときは、母さん育児手伝うからね?」
「もう、気が早いってば」
とても七瀬のことを言い出せる空気ではなかった。僕がもっと歳を取れば、母親も諦めてくれるだろうか。僕は紅茶を飲み干した。
「じゃあ、僕戻るね」
最後に、シナモンの鳥かごに手を触れた。エサの殻がまだ散らばったままだった。母親のことだ。きっとこれを処分する気にはなかなかなれないだろう。家に戻る前に、僕はスーパーに立ち寄った。牛肉とピーマン、それに細切りにカットされたタケノコを買った。今夜はチンジャオロースにする。
「ただいま。お別れ、してきたか」
仕事から帰ってきた七瀬がそう言った。
「うん。心配かけたね。もう大丈夫」
「そっか。俺も、猫がいなくなったから、気持ちはよくわかるよ」
二人で並んで夕食をとった。僕はなぜかお喋りな気分だった。
「シナモンを小学校に連れて行こうとしたことがあってさ。自慢したかったんだ。父親にめちゃくちゃ怒られたよ」
「ははっ。葵って、どんな小学生だったんだ?」
「勉強はできたけど、運動はパッとしなかったよ。だから、中学でも高校でも部活入らなかった」
「俺は中高陸上部だったんだ」
「へえ? 初めて聞いた」
七瀬は短距離走の選手だったらしい。彼は背がそこまで高くないから、球技は避けたかったのだとか。先輩後輩の序列が厳しく、それが嫌で辞めそうになったことは何度もあるらしい。
「まあ、そのときの経験が今活きてるけどな。国税も上下関係激しいし」
「僕、部活やってなかったからなぁ。入ってついていけるかな?」
「今はかなり緩くなったよ。昔は先輩にお茶いれたり灰皿掃除したりしてたみたいだ。俺もよく知らないけど」
その日は僕の部屋で身を寄せ合って眠った。セックスをする気にはなれなかった。七瀬もそれをわかってくれていたようで、僕に無駄に触れてこようとはしなかった。
先に七瀬が眠ってしまったので、カメラロールのシナモンの画像を見ていた。ありがとう、僕たちの家族になってくれて。僕はシナモンが安らかに眠れるよう祈った。
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