30 二杯目のマティーニ
長かった夏休みも終わり、僕は二十一歳になった。七瀬がフレンチのディナーに連れていってくれた。その後は当然、亜矢子さんの店だ。彼女は僕の誕生日を覚えてくれていた。
「葵さん。誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
僕たちはビールを注文した。七瀬が言った。
「葵と出会って一年だな」
「うん。あの日は本当にびっくりしたよね」
当時のことは、鮮明に思い出せた。あの夜僕は七瀬に膝枕をされたんだっけ、と考えると、今さら気恥ずかしくなった。
「七瀬はあのときから僕をいいなって思ってくれてたんだよね?」
「そうだよ。単純に顔がタイプだった。話してみて、余計に可愛いなって思った」
「けど、諦めようとしてた」
「うん。このまま、普通のお隣さんとして過ごすだけで満足しようって自分に言い聞かせてたさ」
何か一つでもボタンのかけ違えがあれば、今の状況は起こらなかった。ということは、七瀬と付き合ったことはやはり運命なのだと感じた。
僕はこの先、七瀬以外は要らない。彼としか、将来を考えられない。彼も同じ事を思ってくれていたらいいのだけれど。
亜矢子さんがビールを差し出してくれて、僕たちは乾杯した。そして、二人同時にタバコに火をつけた。亜矢子さんが言った。
「葵さんもぐっと大人っぽい顔つきになられましたね」
「そうですかね?」
去年と比べると、確かに僕は色んな経験をしてきた。公務員試験の勉強も忙しいし、充実していた。それが顔にも表れるようになったのだろうか。だとしたら、嬉しい。
「僕は早く本当の大人になりたいです。今は親の稼ぎで生活していますし。就職して、自立したいです」
「実はわたしも、もうすぐ独立するんです。今は雇われなんですよ。来年から、個人営業になります」
亜矢子さんの店は、どうやらいくつもの店舗を経営している法人のうちの一つだったらしい。そういう営業形態もあるのか。七瀬が言った。
「じゃあ、来年は独立祝いですね」
「そうですね。税金のこととか、大変になりますけど……イチから勉強したいと思っています」
ますます、亜矢子さんには国税を目指していることを言いにくくなってしまったな、なんて考えながら、僕はグラスを傾けた。それから、七瀬はこんなことを言った。
「マティーニ、貰おうか。あの日も飲んだだろう?」
「そうだったね」
亜矢子さんはオリーブを取り出した。初めてここに来て以来、マティーニは飲んでいない。僕にとっては特別なカクテルの一つになっていた。
「どうぞ」
あれから僕も酒に強くなった。とはいえ、このお酒が酔いやすいのは事実だ。チェイサーを飲みながら、慎重に味わった。
この日は七瀬の部屋に泊まることにした。部屋に入ると、七瀬は大きな箱を持ってきた。
「これ、誕生日プレゼント。もう持ってるのは知ってるけど、せっかくならいいやつあげたくてな」
それは、スチームトースターだった。オーブン機能もついているやつだ。今の物は適当に買った安物だったので、欲しいと思っていたのだ。
「ありがとう! でも僕、欲しいだなんて一言も言っていないのに、なんでわかったの?」
「なんとなくな。これで美味いトースト焼いてくれよ」
僕は七瀬を立ったまま抱き締めた。明日の朝は早速これを使おう。でも、食パンがない。僕は言った。
「ねえ、コンビニ行かない? 食パン買いたい」
「いいぞ。行こうか」
ハムとチーズはまだ冷蔵庫にあった。僕たちは、食パンと、ついでにタバコを買った。ベランダで喫煙しながら、僕は言った。
「あーあ、タバコを吸い始めて一年か」
「悪いこと教えちまったな。でもさ、葵の初めて欲しくてさ」
「もう、そんなこと考えてたの?」
「悪い悪い。本当は、セックスも初めてが良かったな。女の味知って欲しくなかった」
そうだ、椿としてからも、もうすぐで一年だ。正直なところ、またやってみたいと思うこともある。だから、僕は本質的にはバイなのだろう。でも今は、七瀬のものだから。あの一件は別として、もう彼女とすることはないだろう。
「七瀬ってけっこう独占欲強い?」
「葵が言うか?」
僕たちは見つめ合った。七瀬の黒い瞳はどこまでも深かった。部屋に戻り、僕たちはベッドにもつれこんだ。
「葵、何して欲しい? 何でもお願い叶えてあげる」
「じゃあ……縛っていい? 心も身体も縛りたい」
「いいよ」
僕は七瀬のネクタイを使い、手首に巻き付けた。抵抗ができなくなった彼を執拗に攻めた。彼の身体がびくんと跳ねた。
七瀬も興奮していたのか、いつもより声が大きかった。もどかしそうに身体をくねらせる様子が、とても扇情的だった。
「七瀬、可愛い」
それから、七瀬は口だけを使って、僕に尽くしてくれた。まるで獣のようだった。全て終わらせてしまってから、拘束を解いた。
「やべー。葵、すっげー良かったんだけど」
「またしようね?」
僕たちはキスをした。最高の誕生日だった。
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