31 距離
季節は移ろい、十一月になった。僕と七瀬は付き合って一年目を迎えた。吐く息は白く、タバコを吸うときは手元がかじかんだ。
僕はいつも通りの日々を過ごしていた。講義を受けて、空きコマに勉強して、公務員講座をこなし、七瀬の待つ家に帰る。
雅司は金髪を黒く染めた。ケジメということらしい。僕も黒染めしなければならないだろう。地毛だといちいち言うこともできないし。
その日の夕食で、七瀬がこんなことを言ってきた。
「なあ、今指導してる子がさ、相談があるっていうんだよ。二人で飲みに行ってきていいか?」
「例の女の子? うん、いいよ」
「その子、徴収希望じゃなかったんだよな。辞めたいって話じゃなきゃいいが……」
飲み会の日、僕は亜矢子さんの店に行った。大和さんが一人で座っていた。
「こんばんは」
「おう、葵くん。久しぶり」
僕は大和さんの隣に腰かけた。彼はウイスキーをロックで飲んでいた。
「いらっしゃいませ、葵さん。ビールですか?」
「はい」
「かしこまりました」
初音さんと大和さんは、入籍し、沖縄で式を挙げたらしい。彼から写真を見せられた。
「わあっ、初音さん、凄く綺麗……」
「天候に恵まれて良かったよ。お陰で楽しめた」
初音さんのドレスは、身体に沿ったラインの、飾りが少ないシンプルなものだった。白いブーケを持って微笑む彼女は天使のようだった。
「それで、今日は初音さんと一緒じゃないんですね?」
「パリへロケに行ってるよ。リール、あがってる」
初音さんのインスタグラムを見ると、エッフェル塔を背景にした動画があった。彼女は結婚を公にしていなかった。知っているのは直接の知り合いだけらしい。
「葵くんは七瀬くんと順調?」
「はい。毎日互いの家を行き来しているんで、同棲とほとんど変わらないですね」
トースターを貰ってから、僕はグラタンなどを作るようになった。七瀬の評判は上々だ。普通のトーストも、もちっとしていて美味しい。食パンを買う回数が増えた。
大和さんとしばらく話していて、ふと七瀬の位置情報を見ると、もう家に帰ってきていた。思ったより早い。
「亜矢子さん、チェックで」
「かしこまりました」
「それじゃあ大和さん、また」
「うん、またな」
僕は七瀬の部屋のインターホンを押した。まだスーツ姿だった彼が出てきた。
「早かったんだね」
「まあ、でも色々あった。入って」
ソファに座り、缶ビールを開けた。僕は尋ねた。
「色々、って何?」
「例の子に告白された。付き合っている人が居るからって断ったけどな」
「えっ……」
僕は言葉を失った。下唇を噛み締めていると、七瀬は言った。
「実は薄々気付いてたんだ。でもまさか、本当に告白されるとは思わなかった。これからちょっと、やりにくいな……」
ことり、と七瀬の肩に頭を預けた。断ったとはいえ、指導する立場だ。これからも彼女は七瀬の傍に居続けるのだろう。それに耐えられなかった。
「ねえ、指導を外してもらうように言ったら?」
「そんなのできないよ。今事務年度は俺が担当だ」
「でも、僕は嫌だよ。そんな女と七瀬が一緒に居るの。ねえ、頼んでみてよ」
「できれば俺もそうしたいが、無理なものは無理だ」
僕は頭を上げ、七瀬の顔を見つめた。
「七瀬。本当はその子のこと好きなんじゃないの?」
「好きだけど、それは後輩としてだって。俺は女は無理だってわかってるだろ?」
「でも、信じられないよ。一緒に居るうちに、ほだされたりしない? ねえ、指導役辞めてよ」
大きなため息をつき、七瀬は僕を睨み付けた。
「あのなぁ葵。いい加減重いんだよ! 今まで我慢してきたけど、仕事の話にまで首突っ込まれると、息苦しいよ! わかってくれよ!」
凄い剣幕だった。僕は謝ることしかできなかった。
「……ごめんなさい」
「いや、俺も大きい声出しすぎた。ごめん」
七瀬はビールを一口飲んだ。彼を怒らせてしまったのも無理はないと思った。そして、「重い」と言われたことが胸に突き刺さった。
「葵。ちょっとさ、距離置こうか」
「えっ?」
「付き合ってから、ほぼ毎日会ってるし、正直葵は俺に依存しているところがある。そういうの、ダメだと思う」
「でも……距離置くって、いつまで?」
「俺の気が済むまで」
そんなの、実質無期限じゃないか。僕は食って掛かった。
「嫌だよ。僕のことが嫌いになったんなら、正直に言ってよ」
「嫌いじゃない。葵のことは好きだ。だから離れて互いのことを見つめ直したいんだ」
七海は僕の背中に手を回した。それを払いのけた。しばし無言の時が続いた。僕は七瀬との日々を思い返した。確かに、依存していたと言われればそうだったと思う。僕はぶっきらぼうに言った。
「わかったよ。離れればいいんでしょ。僕も試験勉強に集中したいし。でも、浮気はナシだから」
「もちろん。俺の位置情報は見てもいい。外出するときは連絡する。それでいいな?」
「うん……」
自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せに倒れた。どれくらいの期間になるかわからないが、七瀬に会えない。隣に住んでいるのに、会えない。じわりと涙がこぼれ落ちた。わかってる。僕が悪いんだ。ネックレスを握りしめた。冷たい感触が僕の手のひらを刺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます