22 昇
僕は三年生になった。公務員試験講座が始まった。まず渡されたのは、大量のテキストと問題集だった。問題集は、辞典くらいの分厚さがあった。これを繰り返し何度も解けということらしい。
講座があるのは夕方。帰るのは七瀬さんより遅くなる。なので、僕は料理の作り置きを始めた。そのための本も買った。
初めての経済原論の講座を終えた日、僕は七瀬さんに寄りかかって言った。
「ミクロ経済学の最初だけやりましたけど、着いていけるか不安です」
「ああ、俺もそうだった。どんどん難しくなるからな。きちんと復習しろよ」
七瀬さんはというと、仕事が忙しくなる時期だということだった。確定申告が終わり、やっぱり納められないという人がたくさん相談に来るらしい。
「まあ、相談に来てくれるだけマシなんだけどな。督促状送ろうが家行こうが無視する奴は問答無用で押さえる」
「やっぱり、楽しそうですね、徴収」
国税の部門は必ずしも希望通りの配属とはいかないらしい。けれど、徴収は希望者が少ないから、七瀬さんの場合はあっさりと通ったとか。
「僕、絶対受かりたいです。頑張りますね?」
「うん。俺も応援してる」
僕は七瀬さんの首に指を這わせた。それから顎を掴み、キスをさせた。
「葵の甘えん坊」
「ええ、僕は甘えん坊ですよ」
こうして睦み合う度、積極的になっている自分が居た。僕はもっと七瀬さんのことを知りたい。よがらせてみたい。そんな欲望が止まらなかった。
セックスを終え、タバコを吸いながら、七瀬さんが言った。
「明日、土曜日だしマリ子さんとこ行くか?」
「いいですね。行きましょう」
「じゃあ決まり。あのラーメン屋行ってからにしよう」
翌日、マリ子さんの店に着くと、他の常連さんたちが何人か居た。七瀬さんは、彼らに僕を彼氏だと紹介してくれた。この場所だと、僕たちはありのままで居られる。マリ子さんが言った。
「で? 七瀬も葵ちゃんも何飲むのよ?」
「ああごめん、まだ注文してなかった。ビール二つ」
しばらくは、常連さんたちから、僕たちの馴れ初めについて聞かれ、それを七瀬さんが話すということをしていた。僕は気恥ずかしくて、あまり彼らの顔を見ることができなかった。
そして、僕がいつも七瀬さんに料理をするという話から、マリ子さんがこんなことを言ってきた。
「葵ちゃん、尽くすタイプなのね」
「だと思います。七瀬さんの望むことは何でもしてあげたいです」
「ですって七瀬。良かったわね?」
七瀬さんは頭をかいて微笑んだ。すると、新たにお客さんが来た。
「いらっしゃーい!
ノボルと呼ばれた男性は、襟足の長い黒髪で、ひょろりと背が高い人だった。ただでさえ二重の大きな目をしていて、七瀬さんを見るとそれをさらに見開いた。
「うわー! 七瀬、久しぶり!」
昇さんは七瀬さんの背中をパシンと叩き、空いていた少し離れた席に座った。マリ子さんが僕に言った。
「昇は七瀬の元彼よ。出禁にした子。昇、この子葵ちゃん。七瀬の今の彼氏」
「えっ、マジ? お前彼氏できたの?」
そう言うと、昇さんは僕の顔をまじまじと見てきた。例の二股騒動のときの人か。心中穏やかで居られなかったが、僕はひとまず笑顔を作った。
「初めまして。中野葵です」
「どーも。オレは
「違う違う。といってもまだ二十歳だけどね」
「若っ!」
昇さんは、七瀬さんと同年代くらいに見えた。彼はタバコを取り出し、ハイボールを注文してから言った。
「七瀬。ここで会うの何年ぶりだ? しばらく来てなかったよな」
「転勤してから来る機会も減ってね」
「それで、今日は彼氏見せつけに来たってわけか」
「そういうこと」
それきり、昇さんは他の常連さんたちと話し始め、僕たちとは会話をすることはなかった。僕と七瀬さんは終電に間に合うよう店を出た。
七瀬さんの部屋に帰ってから、僕は聞いた。
「昇って人とは今は続いてないよね?」
「ないない。元々遊びだったしな」
「僕のことは?」
「真剣だよ。葵のことは、真面目に好きだから」
僕は七瀬さんに抱き付いた。それでも、胸のつかえはおりなかった。
「やっぱり、七瀬さんに元彼がたくさんいるの気になる。僕、不安になる」
「まあ、若いときの話だよ。今は葵が居てくれるからな」
「僕、七瀬さんと同い年に生まれたかった……」
まだ遊ぶ前の七瀬さんと出会えていたら、どんなに良かっただろう。僕は目を閉じた。昇さんの顔付きは、僕に似ていたように感じた。ああいうのがタイプなのだろうか。
今夜はセックスをする気が起こらなかった。七瀬さんはそれを察してか、何も言わずに手を握ってベッドに横になった。そして先に眠ってしまった。
僕は一人、ベッドを抜け出し、タバコを吸った。過去のことなんて仕方がないのに。どうしても考えてしまう自分が居た。
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