10 初音と大和
雅司と椿を送り出した後、僕は部屋に掃除機をかけた。床で寝たので背中が痛かった。今日は何の予定もない土曜日だ。僕は調味料の残りを確認した。みりんが少ない。それから、思いついたいくつかの食材をメモしてから、僕はスーパーに行った。
僕が料理を始めたのは、大学生になってからだ。実家ではろくにコンロにも触れやしなかった。最初は友達を作る気がなかったから、せめてもの慰めとして一人でできる趣味を探した結果、こうなった。何より自炊は食費の節約になる。
昼食はきのこのパスタを、夕食は肉じゃがを作って食べた。そして、一人で外に出た。亜矢子さんの店に行くのだ。
「いらっしゃいませ」
店には一人のスーツ姿のお客さんが座っていた。髪は銀色で、胸元まで真っ直ぐにおろしていた。うつむいていたので、その人の顔はよく見えず、男か女かよくわからなかった。スーツは男物っぽいのだが。僕はその人と離れて座ろうとした。すると、声をかけられた。
「あれ? 初めて見る顔だ。遠慮しないで、ボクの横座りなよ」
「は、はい……」
声は高く、近付いて顔を見ると、女性だとわかった。目も口も鼻も、人形のように整っていた。こんなに完璧な顔の造形の人が実在するのか。そう思わされる容姿だった。
「ボク、初音。君は?」
「中野葵です」
「葵くんね。よろしくぅー」
ハツネという名前にはどこか聞き覚えがあったが、忘れてしまった。僕はとりあえずビールを注文した。亜矢子さんが言った。
「初音さんもうちの常連さんです。もう五年くらいになりますかね」
「そんなに経ったっけ? 亜矢子ちゃんもボクも歳取るわけだ」
初音さんの年齢はまるでわからなかった。二十代でも通るけれど、口ぶりから察するに三十代かもしれない。僕のビールが運ばれてきた。初音さんは口径の広いグラスでおそらくウイスキーをロックで飲んでいた。僕たちは乾杯した。
「葵くんは学生さん?」
「はい。大学二年生です。初音さんは何をされているんですか?」
「モデルだよ。って言っても、そんな大した事ないけどね」
亜矢子さんが言った。
「何を謙遜されているんですか。葵さん、凄いんですよ、この人は。
僕は言われた通りスマホでググった。ファッションに疎い僕でも知っているようなハイブランドのモデルを務めていた。驚いて初音さんの方を見ると、彼女は首を傾げて笑っていた。
「まあ、それ、昔の写真だよ。今はインスタ中心に活動してる」
「僕、インスタグラムやってないんですよね」
「そりゃあ残念。じゃあ、今インストールしてよ」
僕の周りには、どうも押しの強い人たちが集まってくるようだ。初音さんに指示されるがまま、僕はスマホを動かした。そして、美賀多初音をフォローした。
「葵くんも自撮りあげなよ。可愛い顔してるんだし、フォロワー増えるかもよ?」
「いえ、僕は遠慮しておきます……」
たじたじになっていると、とても背の高い男性が店にやってきた。百九十センチくらいありそうだ。ガタイも良く、短く刈り上げた黒髪がよく似合っていた。彼は初音さんの肩を叩いた。
「よう。遅れてすまん」
「いいって。お仕事お疲れさま。ボクは楽しくこの子と飲んでたよ」
その男性は初音さんの向こう側に座った。
「こっちはボクのパートナーの
「よろしく。初音はどうせ迷惑かけただろう。済まないね」
「いえ、とんでもないです」
大和さんはハイボールを注文した。そして、僕は思い出した。初めてこの店に入ったとき、七瀬さんと亜矢子さんが口に出したのが、初音さんと大和さんの名前だったことを。僕は彼らに聞いてみた。
「七瀬さん、ってわかります?」
初音さんが答えた。
「うん、わかるよ! 彼もよく来るからね。最近会ってないけど」
すると、大和さんが初音さんの腕をつついて言った。
「お前がこの前潰れたとき以来だろ。次会ったとき、謝っとけよ」
「はぁい」
僕は七瀬さんとの出会いと、隣人だったということを彼らに話した。ついでに、タバコを教えられたということも。初音さんも大和さんも、喫煙者だった。僕たちは三人でもくもくと煙を出しながら語らった。初音さんが言った。
「へえ? じゃあ葵くん、けっこう自炊するんだ?」
「はい、料理、好きなんで」
「じゃあ大和と話合うかもよ。ボクのご飯、全部作ってくれてるもん」
大和さんは紫煙を吐き出してから言った。
「どうだろうな。初音は好き嫌いが多いからな。だからレパートリーは少ないんだ。そんなに色んなものは作っちゃいないよ」
聞けば、初音さんはタマネギがダメみたいだった。僕は困ったら料理にタマネギを使うので、それを封じられるとなるとかなりの痛手だ。今夜の肉じゃがにももちろんタマネギを使った。それから、料理談義で大和さんと盛り上がり、僕は先に店を後にした。
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