08 デュワーズ
先に目を覚ましたのは僕だった。椿はすうすうと可愛らしい寝息をたてていた。時間を見た。けっこう早い。僕はキッチンに立ち、ゆで卵を作り始めた。
ゆで卵ができたら、それを細かく刻んで、マヨネーズであえた。そうこうしているうちに、椿が起きてきた。
「アオちゃん、おはよう。何作ってるの?」
「トーストに塗ったら美味しいと思って」
僕はトーストを焼き、卵を上に乗せた。インスタントコーヒーも淹れた。椿は上機嫌でトーストにかじりついた。
「んー、美味しい! アオちゃんの作るご飯は最高!」
「なら良かった」
そういえば、椿は実家暮らしのはずだ。親御さんに連絡はしたのだろうか。それを聞くと、こう返ってきた。
「あー、高校のときから色んな男の家泊まり歩いてたからね。もう何も言わなくなったよ。だからいいのいいの」
「そっか」
僕たちは、一限から同じ授業があった。身支度をして、部屋を出ると、エレベーターのところでスーツ姿の七瀬さんと出くわした。
「葵くん、おはよう」
「おはようございます」
椿も軽く会釈をした。エレベーターの中で、僕たちは無言だった。
「じゃあ、俺仕事だから。葵くんも大学頑張って」
「あっ、はい」
大学へと歩きながら、椿が聞いてきた。
「さっきのが例のお隣さん? めちゃくちゃカッコいいね」
「あはは……」
七瀬さんに女の子連れのところを見られてしまった。時間が時間だ。椿を泊めたことは簡単に想像できるだろう。次に彼に会ったとき、どう話せばいいんだ。僕はそのことばかり考えていた。
それから、七瀬さんから連絡がきたのは、その週の金曜日だった。
『今日、仕事終わりに亜矢子さんのところ行くけど、葵くんも来る?』
『行きます』
夜七時に亜矢子さんの店に行った。お客さんは僕が一人目のようだった。
「いらっしゃいませ。また来てくださったんですね」
「はい。今日は七瀬さんと待ち合わせをしてます」
僕はビールを注文した。タバコとライターをカウンターの上に置くと、亜矢子さんは目を丸くした。
「お吸いになられるんですか?」
「七瀬さんから教えられまして……」
「悪い大人ですね、あの方も」
亜矢子さんは灰皿を出してくれた。そして、僕は七瀬さんが隣人だったということを話した。
「そんな偶然もあるものなんですね」
「僕もびっくりしましたよ」
僕はタバコに火をつけた。すると、七瀬さんがやってきた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ、七瀬さん」
七瀬さんもビールを頼んだ。僕たちは乾杯した。
「七瀬さん、お疲れさまです」
「葵くんもお疲れさま。早速だけど、この前の女の子、彼女?」
いきなり聞かれるとは思わなかった。僕は嘘が下手だ。妙に取り繕うことはせず、ありのままを七瀬さんに話した。亜矢子さんもその内容を聞いていた。
「葵くん、やるなぁ」
「流されただけとも言いますけどね」
亜矢子さんは言った。
「まあ、お若いんですし、そういう関係もアリだと思いますよ。避妊さえきちんとしていれば」
「そ、そうですか」
あれから、雅司も椿も、いつも通りに接してきた。セックスなんて、コーヒーを飲むことくらいありふれた行為であるかのように。七瀬さんが言った。
「大学生のうちは、やらかしてもやり直しがきくからな。もっと色んな経験してみるのもいいんじゃない?」
「色んな経験、ですか……」
正直、これまででお腹いっぱいだ。初めてショットバーに来て。タバコを教えられて。女の子とセックスをして。二十歳になった途端、怒涛の経験が僕を襲っていた。これ以上何をしろというのだろう。
ビールが尽きた。次はウイスキーにしようと決めていた。僕は亜矢子さんに、何かハイボールを作ってほしいと頼んだ。
「でしたら、こちらはいかがですか。デュワーズ。ハイボールといえばこれしか飲まないという方もいらっしゃるんですよ」
亜矢子さんは、白いラベルのボトルを見せてくれた。七瀬さんもそれにするようだった。
出てきたハイボールは、とても爽やかで、癖が無かった。ついゴクゴクといってしまいそうになる。しかし、僕は酔うとすぐ眠くなるタチらしい。この前でわかった。なので、ゆっくりとそれを味わうことにした。
「葵くん、今日も俺の部屋、寄ってく?」
「はい。ぜひ」
「ふふっ、お二人は不思議な縁ですね」
僕はまた、七瀬さんの部屋にお邪魔した。
「まあ、もう一缶くらい飲もうか」
「そうですね」
今夜はきちんと自分の部屋に帰ろう。そう思いながら飲んでいた。七瀬さんは小説の話をした。通勤の電車の中で読んでいるらしい。
「お陰で暇がつぶれたよ。読書なんて学生時代以来だけど、いいもんだな」
「よければ、他のも貸しますよ」
ビールが一缶空いた。僕はソファから立ち上がった。
「じゃあ、僕帰ります」
座ったままの七瀬さんは、上目遣いで僕を見てきた。
「そっか。泊まっていってもいいけど?」
「いえ、またお世話になるわけにもいきませんので」
七瀬さんと居ると、どこまでも甘えてしまう気がした。僕だって後ろ髪を引かれたのだが、そのまま帰ることにした。
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