アルバムの中の星降り
庭で鳴くセミの声も届かない薄暗い物置。幽かな光を頼りに中を掃除をしていると本棚を見つけた。様々な分野の学術書から、幼児用の絵本まで。どれも年季が入っているが大切にしまわれていた。その中に目を引くものがあった。背表紙に何も書かれていない本だ。
掃除をしていたメイドは黒縁眼鏡の分厚いレンズ越しに本の表紙を確認した。
「アル、バム……」
カーディガンについた埃を払いながら、明るい廊下に出て中身を確認する。この屋敷の主人である少女が幼少期の姿で写っている。どれも輝かしい笑顔に満ちていて、写真を撮ってもらう事が嬉しいのだという事が伝わってくる。
次のページには主人以外の少年や青年達の写真があった。気恥ずかしそうに映る女性はこの洋館のメイド長だろうか。
「あれ、じゃあこの子は……?」
小柄な金髪の少年が泣きべそをかきながら写っているが、全く見覚えがない。一体誰だろうと悩んでいると「ああ。これはね」という柔らかい男の声が聞こえてきた。
「家令だよ」
「ヒィッ!?」
メイドが驚き後ずさろうとしたが、人にぶつかってしまう。
「あ。ゴメン、驚かせるつもりは無かったんだけど」
肩を支えられる。その手の冷たさに驚きながら振り返ると、そこには首からカメラを提げた黒い髪の男が立っていた。
その容貌は表現し難い。とにかく個性が無いのだ。黒い髪、茶色混じりの黒目という日本人のお手本のようなカラーリング。顔立ちもいわゆる醤油顔というやつで。その上、ワイシャツを着崩して個性をつけようという気概もなく、頭の上からつま先まで何もかもが普通だった。おそらく、一日一緒に過ごしたとしても五日程で「どんな人だったかな」と思い出せずモヤモヤだけを残していくような、そんな存在感の無さである。
メイドもその様な状態に陥っていた。神無月家が所有するこの洋館でメイドのバイトを始めて半年は経とうとしているのに、この男の事が何一つ分からない。
「
「どうして私の名前を!?」
「僕もここの執事だからね、仲間の事は覚えるとも」
メイド――桃が不躾な態度になってしまっても、執事の青年は気を悪くする様子もなく笑っている。
「ほら。これ」
彼は例の写真の少年を指差した。
「……家令って言ってましたけど」
「うん。僕が撮ったから5年くらい前かな」
二人が話題に出しているのは20歳にして家令、つまり主人の不在時に代理人すら果たす早熟な青年のことだ。品行方正で模範的な彼はいつもクールな印象があるのだが。
「めっちゃ泣いてますよね? 別の人じゃないんですか?」
髪色や瞳の色はたしかに家令と同じだが、桃にとっては到底信じられない。
「本人だよ。写真に映ると魂を取られるって本気で信じ込んでたから大泣きしてさ」
当時の事を鮮明に思い出せるのか、青年は口元を拳で隠しながらも笑っている。
「あの人は妖怪の世界で生きてる時間が長かったからね。迷信とか信じてたんだよ」
ここに他のメイドが居なくて幸いだった。ゴシップに飢えている彼女達が聞いたら「可愛い〜!」と大騒ぎして家令を追いかけ回していた事だろう。
「このアルバム、ずっと探してたんだ。どこにあったの?」
「物置の本棚に……」
「そっか。お嬢様の絵本と一緒にしまっちゃってたのかな」
青年は苦笑いを浮かべて「見つけてくれてありがとう」と続けた。
「ただの偶然ですよ」
桃は厚いレンズの奥にある目を伏せる。その表情を見た青年はカメラを構えた。
「アルバム発掘記念に一枚、どう?」
「脈略無さすぎでしょ」
冷静に突っ込む桃に反して青年は「あるよ!」と食い下がってくる。
「写真は撮りたいと思った時に撮るのが大切だからね」
青年は柔らかく笑った。桃は季節外れのカーディガンの袖を握り締めると首を横に振った。
「まだ仕事が残ってるんで」
「あっ芦尾さん」
桃は聞こえないふりをして物置に戻っていく。彼女はカーディガンの袖を肘まで捲った。白い腕には切り込みのような線が無数存在していて――それが突如見開いた。目。眼。瞳。切り込み線の全ては眼であった。眼鏡のレンズ奥にある瞳と同じ抹茶色の瞳は、暗い中で微かな光を集めて視界を確保してくれる。それを頼りに彼女は薄暗い部屋の掃除を再開した。
彼女は百々目鬼。その名の通り、腕に百の目を持つ妖怪の血を引く。
この神無月家の洋館はそんな人外の血を通わせる半妖が過ごす秘密の屋敷であった。
◆◇
その日からというもの、桃の視界にはよくあの青年が映るようになった。食堂のいつもポツンと空いているなと思っていた席には彼が座っており、朝礼で整列するといつも生まれていた謎の空きには実は彼が居たんだだとか――妙に視線の端にチラつくようになったのだ。
彼は目が合う度に手を振って愛用のカメラを見せてくるのだ。無視しようとすると、飛んだり跳ねたりして必死になってアピールをしてくるのでこっちの方が恥ずかしくなってくる。
何故彼が自分に時間を割こうとしてくれるのか分からない。
「……直接言っちゃえば良いんだ」
次に会えた時に「写真には映りたくないんです」と伝えよう。彼だってこの屋敷に居る以上、何らかの半妖のはずだ。妖怪の血が身体的な特徴に現れることは少なくない。それがコンプレックスになっている半妖がこの屋敷に大勢居る事を桃は知っていた。そこを説けば彼も分かってくれるはずだ。
「あ。芦尾さーん」
気の抜けそうな声が聞こえてくる。声のする方へ振り向いてみるが誰も居ない。
「ごめん、こっちです……」
「ヒィッ!?」
逆側の肩を叩かれ桃は悲鳴をあげる。デジャヴを感じた。振り向き直すと、例の青年が立っていた。彼を目の前にし桃はハッとして決意したばかりの言葉を口にしようとした。
「あのっ」
「芦尾さん。今日の夜、暇?」
「あ、はい」
「明日はシフト入ってる?」
「いや」
「本当? 良かった〜」
「はあ」
「じゃあ今夜、寮の409号室に来てくれる?」
青年は「待ってるね〜」と爽やかに笑って去って行く。
「え。いや、ちょっちょっと待って行くなんて言ってないんですけどーッ!」
洋館の廊下に桃の叫びが虚しく響いた。
◆◇
日が長くなったと感じる初夏の夜。セミの鳴き声も無ければ、風も吹かない短夜に桃は409号室の前で立ち尽くしていた。忌み数が堂々と使われているこの部屋は使われていない開かずの部屋だと噂になっている。こんな部屋に呼び出す理由とは何なのか。不安になっていると、突然ドアが開いた。
桃が何度目になるか分からない悲鳴を上げようとすると「今は静かにね」と唇に冷たい人差し指が当てられた。
「夜だから」
離れた人差し指。それを己の口元に当てて目を細めて笑っていたのは例の青年だった。桃はぎこちなく首を縦に降る。
「入って。物が多いんだけど」
青年が部屋の奥に視線をやる。絡まったまま放置されている携帯の充電器、積み上がった本など意外な程に煩雑として生活感溢れる部屋だった。特に目につくのは、写真だ。天井近くに紐を括り付けてそこで乾かされている写真。飾られているのも含めてざっと数えても二十はある。
「本当に写真が好きなんですね」
「芦尾さんは写真、苦手かな」
忌憚ない問いかけに桃はレンズ越しに睨みつける。口ぶりからして、彼は聞かなくても答えを分かっているはずだ。初めて善良であろう彼を意地悪だと思った。
「ここに来た子は、写真が苦手な子が多いよね」
彼は積み重ねていた本――アルバムを開いた。ページをめくって写真を眺める彼の目元は慈愛に満ちている。
「そういう子は皆、口を揃えてこう言うんだ。半妖のパーツを人に見られたくないって」
桃はカーディガンごと自分の腕を掴んだ。そのパーツというのは、桃にとっては目のある腕だ。
「そこまで分かってるのに……どうしてそんなに撮ろうとするんです」
青年はあるページを開いて差し出してくる。そこに映っていたのはやはりこの屋敷で働く仲間達だ。
顔の半分が虫化していながらはちきれんばかりの笑顔を浮かべる大百足の少女。透明人間で服しか映らないが堂々としたべとべとさんの少年。水掻きのついた手でピースをする水虎の青年。
おもむろにその次のページを開く。桃は目を見張った。
今までの人物写真とは全く違うテイストの幻想的な風景写真が並べられていた。紫に焼ける逢魔時の空、雲より上に昇る太陽。特に目を惹かれたのは澄んだ空に浮かぶ満点の星々だった。
桃は感動して言葉が出ないのか、混乱して言葉が出ないのか自分でもわからなくなっていた。
「それはね」
青年は頬杖をついて微笑む。
「僕が心の底から綺麗だと思った写真を収める特別なアルバムなんだ」
彼にとって幻想的な風景と異形の者達は同格に美しいというのか。そんなこと、有り得ないだろう。後者は恐ろしいだけだ。
「僕にとっては君達皆が、綺麗なんだよ」
自分だけに向けられた言葉ではないと分かっているのに、彼の真っ直ぐな瞳のせいで一途な告白をされたかのような気持ちになる。固まる桃の手を彼は掴むとバルコニーへ連れ出した。眼鏡越しでもいつもより多く星があるように見えた。
「知ってる? 今日はね、ペルセウス座流星群が極大になる日なんだよ」
青年の言葉を肯定するように、一瞬空に白い筋が通ったような気がした。だが眼鏡で矯正しなくてはならない程目の悪い桃ではそれは鮮明に見えない。
「さっきの写真も、ペルセウス座流星群が見える頃に撮ったんだ」
先程のアルバムを思い出す。青年が自分達と同じように綺麗だと言ってくれた煌めきが目の前にある。それなのに、この目では捉えられない。それが無性に惜しくて、寂しくて、悔しくて。桃はカーディガンを肩から落とした。
腕にある無数の目が空を見上げた。
流星群の極大。それが腕を介して脳が鮮明に捉えた。
もっと見ていたい。腕を大きく広げた時だった。
「芦尾さん。こっち見て」
青年が後ろからカメラを構えていた。ずっと怖かったはずの大きなレンズが、今自分に向けられている事が嬉しかった。桃は笑顔で振り返る。極大を迎えで空で瞬く星を、桃の全て瞳が反射して地上の流星が煌めいていた。その最高の瞬間が、カメラによって一瞬の永遠として切り取られた。
◆◇
「桃。カーディガンはやめたのか」
「あー。はい。やっぱり夏であの格好は暑かったので」
書類整理を共にしていた家令が何気なく聞いてくる。桃も腕の目で家令を見ながら何でもないように答える。
「そうか。俺は樒さんに口説かれたからやめたのかと」
「は?」
桃が書類をぐしゃ、と握り潰す。廃棄する物で幸いであった。桃は器用に顔を赤くしながら青くし「えっなんでっすか」「てか誰」と動揺する。
「黒髪の存在感が危うい人が居るだろう。樒さん……
桃は頭を抱えた。思い当たりがある。
「最近見ませんけど。その……樒さん」
「……仕方ないな。彼は幽霊だから気を抜くと見えなくなる」
家令は片眼鏡を上げながら桃の奥に視線を向けた。
「芦尾さん。こっち見て」
シャッター音が一つ。
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