孤悲
「さーて、ご機嫌は如何っすか?
長く赤い髪を持つ少年・
白い肌は窓から射す朝日を照り返して淡く光っている。腰まで届きそうな濡鴉色の長い髪は艶を放ち、少し長めの前髪の奥からは薄い色をした緑の瞳が覗く。スラッとした鼻頭。林檎の様に赤い唇。どこを取っても浮世離れした美しさと年相応の愛らしさの両方を湛えている。
「えっと……今日はハーフアップの気分、です」
「了解」
少女・天奈は気恥ずかしそうにしながらも総司に合わせてくれる。
総司は天奈が痛がらないように丁寧に髪を結うと、品のあるハーフアップが完成する。天奈は嬉しそうに目を輝かせて、それを総司は満足そうに見つめた。
「ありがとう……」
「いーえ」
総司の人懐っこい笑顔を見て、天奈は眩しそうに目を細めた。
「じゃあ今日は約束通り書斎を見に行くか」
総司が手を差し出し二人が手を繋いで部屋を出ると、調度品が並んでいる広い廊下に出る。
ここは神無月邸。地元でも特に広い事で有名な洋館だ。神無月家の一人娘・
廊下を進むと、掃除をしている使用人達と出会す。
「総ちゃん、おはよう。天奈ちゃんも」
「はよーっす」
「お、手なんか繋いじまってよ。仲良いですなぁ」
「まーな」
総司と天奈を微笑ましく見守る彼等の中には三つ目や水掻き等、人間ではあり得ないパーツのある者が居る。それもその筈で、彼等は半妖と呼ばれる存在だった。
総司も毛倡妓という妖怪の血を引いており、小学生の頃に保護され神無月家で育ってきた。粗暴なだけの不良少年だった総司は随分と丸くなり、屋敷で働く者達から弟のように可愛がられている。
また、天奈もその例外ではない。
彼女は総司が外で倒れているのを見つけた記憶喪失の半妖だった。目を見張る程の整った容姿に反して全身に怪我を作って、飢えや脱水症状に苦しんでいた。誰が天奈をこの様な目に遭わせたのかは分からない。だが彼女の容姿年齢から鑑みるに親族が加害者なのではないかという疑いが濃厚で、容易に家に帰す事が出来なかった。
総司は自分が連れて来たからという責任感なのか、過保護とも言える程に天奈に構い倒している。屋敷について知りたがっている天奈を案内して回るのが最近の総司の日課だった。
誰からどう見ても総司は天奈に首ったけで、天奈も最初に自分を見つけてくれた総司に心を許している様に見える。互いが精神的支柱になりつつあるのだろう。
◆◇
「ねえ、総司君。どうして総司君はこんなにも私に優しくしてくれるの……?」
書斎に着いてしばらくしてから本を読む手を止めた天奈が問うた。神無月家について質問される事は幾度もあったが、自分について聞かれた事が無かった総司は一瞬言葉に詰まった。
服の裾を控えめに掴まれ「総司君の事が、知りたいの。どうしても」と呟きが聞こえてくる。この手を振り払うだけで彼女が壊れてしまいそうな錯覚に陥る。
「……俺も、親に暴力受けてきた、から……他人事に思えなくて」
今度は総司が天奈の痩せた腕を掴む。壊れやすいガラス細工を扱うように手つきは優しく、天奈の薄い掌を節が目立ち始めた親指でおもむろに摩る。
「痛いのも、腹が減ってるのも、喉が渇いてるのも、アンタの感じてきた苦しみは俺も分かってる……つもり。だからかな、大切にしたいって思っちまう」
服の裾を掴んでいた手が総司の頬に添えられる。総司の真似をするように天奈の親指が彼の頬を優しく撫でる。
「……総司君も辛かったんだね」
「何。優しくしてあげたいのは俺の方なんだけど」
二人の距離は言葉を交わす度に縮まっていく。どちらからともなく額をくっつけ、睫毛と睫毛が触れ合いそうな程近くで見つめ合い。果てには二人を隔てる物は無くなった。
親に愛して貰えなかったという痛みが二人にとっての絆として形を成した瞬間だった。
だが、息を整える総司が見たのは今にも泣きそうな愛しい人の顔だった。
「……悪い。嫌だったか?」
「嫌じゃない……。嫌じゃないから……嫌なの」
首を横に振る天奈は顔を更に婉美に歪めていく。乱れているのに崩れない顔立ちに思わず見惚れてしまう。ずっと天奈を見つめていると惚気から脳が痺れて、彼女の言葉の意味を捉えきれないどころか己の名前も利き手さえ忘れそうになる。視界に靄が掛かった。その自覚が遅れてやってきた頃には既に総司は膝からゆっくり崩れ落ちていた。
天奈は顔を悲しそうに歪めたまま総司を見下ろしていた。
◆◇
次に思考を引き上げたのはダイレクトに響いた痛みだった。
頭を殴られたのだ。総司は目覚めた瞬間に噛み付こうとしたが、口枷がはめられている事に気付く。それどころか目も手足も拘束されて椅子に括り付けられている。頭から流れてきた血が生暖かい。
「起きたか。半妖」
低いバリトンの声が聞こえてくる。全く聞き慣れない男の声だった。総司は怯える素振りを一切見せる事なく「ウゥ……!」と唸る。
「まるで獣畜生だな。いや、半妖などそれ以下か」
声色も口調も見下す男の言葉に総司は額に血管を浮き上がらせて怒る。
「捕まえられたのがこんな少年だけとは。腕が鈍ったんじゃないのか」
男と会話をする声はあまりに小さくて聞き取れない。それは男も同じだったようで「もっと聞こえるように話しなさい」と言う文句の直後にパシン、という乾いた音が聞こえた。人を叩いた時の音だ。
「どうせなら、もっと神無月に打撃を与えられそうな奴を連れて来れば良いものを。家令になった男なんかも居ただろう」
男の詰る言葉は続く。総司は嫌な予感に身震いした後、拘束から抜け出そうと暴れて椅子ごと床に倒れる。
「あ……ま、ぁ……ッ!!」
口枷をつけたまま無理矢理声を上げる。津液が口から溢れて汚すことも厭わない。単なる音でありながら、意味を持つ唸りに気付いたのは見知らぬ男だった。ふ、と鼻で笑うと「ああ。お嬢さんが心配なのかね。最期に感動のご対面くらいはさせてやろう」と目隠しを下にずらした。
倒れてひっくり返る視界の中に天奈が居た。痛む頬を押さえている彼女の髪はぐちゃぐちゃに乱れて、白い肌には所々紫に変色しかかっている痣が浮かんでいる。その姿は総司が初めて彼女を見つけた時とそっくりで、ザワザワと肌が粟立つ。
「随分とお嬢さんに惚れ込んでしまったらしい」
総司の真横でしゃがんできた男を睨みつける。黒の袴を着て、能楽で使うような猿面で顔を隠していた。
その姿を見て総司は確信した。この格好をしている集団が居ると神無月家の上司に聞いたことがあった。
神無月家と対立する神条家。その従者は必ず黒い袴と能面をつけているのだという。男はその内の一人で間違いない。――では彼と居る天奈は?
「弱者同士が群れて、傷の舐め合いをしている姿が滑稽だったから生かしてやっていたんだが。最近のお前達は本格的に羽音が姦しくて鬱陶しくて敵わん。潰させてもらいたい」
天奈が後ろめたそうに身を縮こませていく。
「保護している半妖は22人。その内戦いの心得があるのは5人にも満たないそうだな。つまり、そいつらをまず殺せば後は烏合の衆以下になる」
猿面が口にしたのは、総司が天奈に神無月家について知ってもらおうと教えた事だった。総司が初めて動揺を見せる。
天奈は――神条から送られてきた間者だったのだ。
それを嫌でも突きつけられた総司の体からは少しずつ力が抜けていく。追い討ちをかけるように、天奈は「ごめんね」と言い放った。その表情は痛ましく、今にも泣きそうで――気を失う直前に見た物と同じだった。総司は口枷を噛み締める。
「冥土の土産に教えておいてやろうか」
猿面は総司の頭を踏み躙った後、懐から暗器を取り出して首に突きつける。
「天奈のお嬢さんは――アマビエと八百比丘尼、そして人間の血が混ざっている。君達半妖を救うなどと言い出した神無月 神子の母方のいとこ殿さ」
ゆっくりと総司の喉に刃が食い込んでいき、プツ、と皮膚が小さく破れて血が滴る。天奈は目を瞑って「やめて……」と自分の肩を抱く。
「神条から二人も半妖を輩出してしまうなんて忌々しい事だ。だが、欠陥品でも使える所は使わないと損かと思ってな。天奈お嬢さんには神条家の為にその身全てを捧げて奉仕して頂いている。奔放な神子殿とは正反対にな」
総司は血走った目で猿面を睨みつけた。天奈はずっと「やめて……」と繰り返している。
「色々な男性とすぐ仲良くなるのが特技らしくてね……その時、神条の為になる話を聞いて帰ってくる。まあ、半妖という欠点さえ目を瞑れば良い女だろうし、そういう物なのだろう。内でも外でも引くて数多で困る。紛いなりにも貴き神条の姫がまるで売女だ」
「やめてよ……っ!」
ガキン、と音を鳴らして鉄の口枷が噛み砕かれる。その反動で破片が口に、喉に暗器が食い込むが、その痛みを物ともせず総司は獣の様に咆哮した。総司の赤い髪が炎と陽炎の様に揺らめき、拘束具を破壊する。口に溜まった血を吐き出した総司の表情から理性は感じ取れない。怒りが頂点に達し、総司の妖怪の血が覚醒と同時に暴走した。
本能と怒り、闘争心を剥き出しにした髪の獣は抵抗する猿面を包み込むと握り潰す。バキ、ゴリ、ボキ、と不気味な音を立てて、髪の一部が暗い色に染まった。
だが、彼の暴走は止まる気配が無い。
別の髪の房が天奈に襲い掛かり四肢に巻き付く。華奢な体がミシミシと悲鳴を上げるが、天奈は痛みに耐えながら薄く笑っていた。
「総司、君……」
僅かに獣になった総司が反応を見せる。
「私に優しく、したいって言ってくれて、ありがとう」
「私の代わりに怒ってくれて、ありがとう」
「騙してごめんね……」
天奈が手を伸ばすと、それに釣られて総司も手を掴んだ。総司の瞳に僅かに理知的な色が戻りつつあった。体を引き寄せて、顔を寄せて、唇が触れ合う瞬間――
「どうか私の事を恨んでね。愛しい貴方」
総司の唇がその言葉を飲み込むと、すぅ、と痛みが引いて傷も塞がる。
目の前で細くて白い首が裂けるのが見え、鮮血を浴びた総司は目を見開く。総司が負ったあらゆる傷が鏡写しのように天奈の体に刻み込まれた。
怒りの咆哮は慟哭へと変わった。
◆◇
「さて、ご機嫌如何ですか? 天奈さん」
返事は無い。
総司の目の前で横たわっているのは、死んだように眠っている天奈だった。あの日からもう三年もの月日を感じさせる様に傷は痕を残しつつ塞がっていた。あれ以来、天奈は一度も目を覚ましていない。
「……アンタの声、」
聞きたいよ、と最後まで口にするのはやめた。愛しい彼女が眠るベッドの縁に頭を乗せて目を閉じる。
青少年は孤独に悲しみに暮れて、恋を思い知る。
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