第35話 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛

「そろそろ帰ろうか」


 缶コーヒーを飲み切って、リカに提案した。


「うん。十分涼しくなったし」

「目的は達成された。もうここにいることもない」


 またしてもふたり乗りということになる。今度はリカが前で運転する番だった。


「できる?」

「マサくんにできるなら、私もできるはずだよ」

「では、お手並み拝見と行こうか」


 公演に出るまでの数十メートルは、グラグラ運転もいいところだった。命の危機なんじゃないかと過剰に心配したものだ。


「ビビらないでよ」

「運転の技量は命に関わるんでな」


 さっきのリカ同様、がっしり背中からホールドしていた。背中で感じていた上半身を、今度は手で掴んでいる。


「やけに前までつかむね。そんなに触りたかったんだ、欲しがりさんめ」

「あ」


 からかう口調を受けて、俺は冷静さを取り戻した。いまの状況を客観的に捉え直してみよう。


「気づいていなかったみたいね」

「悪意はなかったんだ、すぐ手を離す」

「焦りすぎ。たかがふたつの塊に、執着することはないの。それに、いま手を離したら本当に危ないから」


 たかだか胸をがっちりホールドしたからって、なんたる失態を晒しているのか。自分の中の奥手なところがひょっこり現れている。格好がつかない。


「じゃあ、遠慮なく」

「鼓動、いっぱい感じてね」


 発進。公園から出た。


 グラグラ運転ではなかった。前までの運転が嘘のように、安定性がある。


「習得が早い!」

「私を舐めないで。舐めるのは……いけない、きょうの私、品のないことばかり口についちゃう……」


 リカが男なら、セクハラと見なされかねない失言ばかりしている。露骨で下品な言葉を嫌うタイプだとわかっている以上、不思議なものだ。


「なんだか、人が変わったみたいだよ」

「これも私の本性のひとつなんだと思う。しょうもない下品な言葉でマサくんをからかっちゃう、悪戯心」

「本性のひとつ、ね。いまさら失望はしないよ。リカはリカだ。見せたくないような一面があったとしても、俺は受け入れる。そんなことじゃ、リカを嫌いにならないよ」

「懐が深いのね」

「かわいいものじゃないか、ちょっと下品なくらいなら。プラトニック・ラブともいかないだろう」

「私たち、高校生だものね」


 現に、リカの家で唇を重ねた。もっとも多感で肉体的にも成熟してきた時期だ。そういったことを口にしたり、望んだり、おこなったりするのは自然である。


「まだまだ若いな」

「とはいえ、付き合い自体は十数年。熟年夫婦みたいな節もありそうだけど」

「あるっちゃある」


 気心が知れていて、おおよその性格はわかっている。リカが突飛なことをしても、受け入れられる土壌がある。ちょっとした意図であれば推察できる。


 熟年夫婦というのは、的確な表現だろう。


「よかった。私だけの勝手な思い込みかと」

「思い返せば、熟年夫婦らしいと実感するさ。倦怠期ではないだろうから、完全なる熟年夫婦らしさはなかろうが」

「倦怠期、ね。きてほしくないけど、断言できないな。私だけじゃなくて、マサくんの考えもあるから」


 こうしてふたりでいられるのは、あの女と訣別を果たしたからだ。不幸という名の蜜を味わい、黒い幸せに浸っている。


 共通の敵を失った俺たちに待っているのは、これまでと同じ関係だろうか。ある種の張り合いを失い、刺激がすくない関係なのか。


 一年先も、一ヶ月先も見通せない。はたまた、一週間後も危うい。あしたという直近の未来でさえ、一光年先に思える。


 だからこそ、きょうという日が終わってほしくなかった。なにも考えなくてよく、ただ喜びを受け入れるだけのきょうが。


「あぁ。俺は変わりたいのか変わりたくないんだか、わからなくなってきたな」

「どういうこと?」

「目指したいのは永続する幸せだ。裏切りに遭い続ける日々との訣別だ。反面、永続する幸せは飽きを招く。倦怠期だ。だからといって、刺激を求めたくはない。余計なことはいらない。そんなジレンマに、俺はある」


 強欲だ。変わってほしくないが、変わらないゆえの飽きを避けたい。その際、刺激は欲しくない。わがままもいいところだ。二兎追う者は一兎もえず、だ。


「人の悩みは尽きないね。私たちは、人間を超越することはできない。矛盾した欲求を同時に果たせることはない。残酷な現実が立ちはだかっている以上、妥協から逃れることはできない」

「妥協、か」

「変わらない日々、私も望みたいな。滞った時間の中で、マサくんとともにいたい」

「リカ……」

「けどね、マサくん。取り巻く環境は変わるわ。環境の変化は人を変える。同じ関係性ではいられない。高校の卒業がいい例よね。マサくんの願いは、そのまま叶えられるわけじゃないの」


 リカは振り返った。目からハイライトが消えていた。これから、長い言葉が待っている。そんな確信があった。


「立ちはだかる壁は、人を強くする。でも、私たちに強さはいらない。木崎のような壁は不要なの。目指すべきは、幸せに堕ちること。余計なものを削ぎ落とし、手の平におさまる幸せを、綺麗に磨いていく。最終的にどこに辿り着くかはわからない。でも、そんな日々をマサくんと過ごせたらいいなって思ってる。熟年夫婦になるまで一緒にいられたら、幼馴染として至上というものよ。長い時間をともにすることで、私たちはもっとお互いを知ることができて、同一の存在に近づく。そんな愛の結晶が子ども。マサくんは何人産みたい? いやその前に結婚よね。もちろん仮の話よ? 挙式は小規模でいい。籍を入れたことを、実感できる儀式であればいいと思う。そしたら新婚生活があって、まーくん呼びにでもなるのかな? 近所の人には、リカさんって紹介するのかな。いずれ仕事が軌道に乗って、充分な資金が出来たら、働かなくていいの。ふたりで過ごして、子供を育てる。私はマサくん、マサくんは私。その究極系がふたりの子。素晴らしいとは思わない? もちろん傀儡にはしない。けれど、私でもありマサくんでもあるという事実は揺るがないわ。いずれ子どもが大きくなったら、その子たちに面倒を見てもらう。歳を取ったらだろうけどね。最終的には、その子たちに看取られてあの世にいくの。私でもあり、マサくんでもある子がね。あくまでこれは妄想だけど、幸せなことだと思わない? 私は強く思う。求めるものを減らし、強度を上げる。一部の変化を許容することで、本当に守りたいものを変えない。半永続的なものにする――そんなふうに、私は考えてみたり……あ、もう家だね。そろそろ降りなくちゃね」


 遮る暇もなかった。なぜか、恐怖はなかった。悪意のない、重い愛だったからだろう。


 やはりか、と改めて思った。


 リカはヤンデレなのだ。それも、とびっきりの。



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