第32話 唇を重ねて

 ふと、お互いの目があった。沈黙の間に、俺の体はぐつぐつと煮立っていた。


 さきほど膝を撫でられたせいもあって、体は敏感になっていた。凛花の姿が、よりいっそう綺麗に見えた。


 とろんと蕩けた目には、ふだん見せない色気があった。自分が女性であることを喧伝するかのような目だった。


 視線は降りていった。整った鼻筋、そして艶っぽい唇。閉じられていて、軽く突き出すようなそれを見て、ごくりと唾を飲まざるを得なかった。


 鼓動が早まっている。聖母だと思っていた凛花は、いまやひとりの女性だった。


 木崎のことで、俺の頭は複雑だった。終わったはずなのに、まだ尾を引いている。忘れようにも、ムカムカして落ち着かない。


 この気持ちを、どこかにぶつけたかった。そうせずにはいられないくらい、俺は落ち着きを失っている。


「いいよ、正俊。ずっと待ってたんだから」


 唇に手を当て、首を傾ける。


 その仕草が決定的だった。


「んっ……」


 気がつくと、凛花の唇を奪っていた。幼馴染とはいえ、重ね合わせたことはなかった。


 無我夢中だった。ひとりよがりの、荒々しいものだった。息苦しさに、途中でやめてしまった。自分の口から垂れたよだれが、自分のしたことを再認識させた。


「はぁっ……正俊、やってくれたね」

「あぁ、俺、なんてことを」

「後悔することはないわ。いったでしょう、待ってたって。もぅ、我慢しなくていいんだね?」


 今度は、凛花の方からきた。自分と凛花の唾液が入り混じり、ひとつになっているという事実だけで、十分興奮した。唇だけでは終わらなかった。濃厚な口づかいに、すっかり生気を吸い取られていった。


 あまりの心地よさに、脳が焼き切れるかと思った。至近距離に凛花がいる。口だけではあるが、凛花と繋がっている。


 この瞬間、俺は凛花であり、凛花は俺だった。いわれていた言葉の意味が、はじめて理解わかった。


 長いが、一瞬とも思える時間がすぎた。甘美な感触をしっかりと残して、終わった。

「これが正俊の味……♡ 甘い、甘すぎる! こんな体験、はじめて……心底感動した、あぁなぜしなかったのでしょう?」

「感動らしい」

「しないわけないでしょう、この体験をしてしまったのなら」


 最悪で最高のキスだ。


 昔の女から逃れようとして、凛花を利用した、最悪のキスだ。


 そして、最低なことをしている背徳感がもたらす、かつてない幸福を得られた、最高のキスでもあった。


「続ける?」

「いうまでもない」



 ふたたび、長い時間が流れた。そのまま何度か、繰り返した。病みつきになっていたのだ。


 このままずっとしていてもよかったが、途中でふと我にかえった。凛花も同様だった。



「もう戻れないね、私たち」

「あぁ。凛花はただの幼馴染じゃなくなった。いままでもそうだったのだろう。しかし、きょうは決定的だったよ」

「この気持ちを知っちゃったんだもんね」

「凛花と離れたくない。ずっとそばにいたい。そして、そして……」

「私もそう。正俊以外を味わいたくない。正俊じゃないと嫌、正俊をもっと知りたい……」


 キスをした。とびきりのやつを。


 であれば、次は決まっている。


「凛花……」

「正俊……」


 凛花の体に手をかけようとしたとき、ふと着信が鳴った。


「こんなときに」


 出ると、ただの営業電話だった。ふだんなら出ることもない類のものだった。


 たかが十数秒だった。それが決定的だった。


 燃え上がるように、制御できなくなっていた劣情は、さっと消え去った。


 流れでいける雰囲気がなくなった。お互いに、冷静になってしまったのだ。


「料理、作ろうか」

「ああ……」


 最初は、無言の調理だった。最低限の質問と指示しかせず、淡々と続けた。


 いままでにないよそよそしさだった。空気を一変させて、いつも通りに接することなど、できなかった。技量がなかった。


 次第にものができあがりつつあるなかで、会話が戻ってきた。すこしずつではあったが。


「私のメニュー、どうかな」

「至上だよ。これ以上にないと思う」


 焼きそばに焼肉にお好み焼き。


 焼く系三点セットという超ボリューミーなメニュー。が、味は間違いない。期待は高まりまくっている。


「いっぱい疲れたから、いっぱい食べれるね」

「ふっ、不意をつくようなことをいうんじゃあない」

「気持ちよかったよ、さっきの。改めて思ったの」

「だとしてもな……」

「お通夜みたいな空気、私たちには合わないでしょう?」

「そりゃそうだ」


 いってからは、会話が戻ってきた。ふだん通りであるはずなのだが、どこか違って聞こえた。新たなステージに踏み込んだ、ということなのか。


「いっぱい食べようね、正俊」


 食卓についてからの第一声がそれだった。


「はい、アーン」


 当たり前かのように、箸がやってくる。


「小恥ずかしいな」

「いまさらなにいってるの?」

「それもそうか」


 そのまま受け入れた。凛花に食べさせてもらってると思うと、よりおいしさが増した。


「えらいね、まーくん。よく食べたね」

「まーくんってのは、どうもしっくりこないし、幼稚園のお世話になっているようでくすぐったい」

「じゃあ、マサくんは?」

「くだけてるし、許容かな」

「じゃあ、きょうから正俊はマサくんになります」


 唐突だな、というツッコミを飛ばした。飛ばさざるをえなかった。


「正俊、これは儀式なの。あの女と訣別するため、過去の呼び名を捨てる。そして、私たちは変わるの。幼馴染という世界を超えて、未来に進んでいけるの。思いつきで動いているわけじゃない。私と正俊のために考えたこと」


 淀みのない口ぶりだった。


「受け入れてくれる、正俊……いや、マサくん」

「よーくわかった。もちろんだとも、?」


 俺からの呼び方は変わっていない。変わったのは、言葉に込める思いだ。誰もが呼ぶ凛花りかではない。これまでの十数年間、特別な想いを込めたリカなのだ。


「なんだか違って聞こえるね、不思議。これからもよろしくね、末長く」

「こちらこそ。じゃ、こちらもアーンとしますか」

「やった〜!」


 結局、自分の箸を自分のために使うことはしなかった。付き合いたてのカップルでもやらない、すべてアーンで食べ切るという行動に出た。


 ただのバカップルな仕草だったかもしれない。しかし、そうしているだけでよかった。自分の中で、例の件をうまいこと消化しつつあると、実感を持てつつあったのだから。

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