第31話 人の不幸は蜜の味
選択教室を後にする。肩の荷が下りた、と改めて思う。ここまでずっと揺らいでいたが、ようやく落ち着きを得た。
軽やかな足取りで階段を下っていく。自分のクラスに戻る前に、ひとりの女子生徒と遭遇した。
凛花だ。
「どうしてここに」
「正俊こそ、なにか用件でもあったのかな。口角が上がっているよ。なんだろう、そんなに楽しいことなのかな」
木崎の話では、化け物と評価されていた凛花だ。色眼鏡を通さないよう努めているが、まったく気にならない、とはいえなかった。
「楽しいかどうかはさておき、廊下で話せることじゃあない」
「やっぱり木崎さん、振られちゃったか」
「どうしてそれを」
「正俊の考えなんて、お見通しだもん」
俺は領き、正解だよ、とつぶやいた。
「よかったね。これで、ひとつの物語は終わった。偉いね。最後は自分で締めて」
「無関係なはずの凛花まで巻き込んでしまった。本当に申し訳ない」
「無関係じゃないよ。正俊の問題、すなわち私の問題だもの。過干渉だった点は、私としても反省すべき点だったけどね。これで、お互い様だね」
「あぁ、お互い様だな」
凛花の笑顔は明るかった。久々のことだ。どす黒いものに支配され、暗い笑みをこぼす姿は、見るに堪えがたかった。
「きょうは祝杯をあげなくちゃね。元カノサヨナラ記念日」
「性格が悪い真似を」
「いいじゃない、延々と祝い続けるわけじゃない。きょう限定なら、人の不幸を舐めまわしても、許されるよ」
一理ある。これからやろうとすることは、木崎サイドに整ちることかもしれない。
が、祝わずにはいられない。ようやく正常な日々が取り戻されるのだから。
「わかった。地に落ちるのは、きょうだけだな」
「もちろん。会場は、私の家ね」
放課後が待ち遠しかった。さすがの木崎は、午後の授業に出ることはなく、早退という形をとっていた。
別れる前から追い詰められていたのだ。王手を決められては、学校にいるのはつらい。
目的の家につく前に、スーパーに買い出しにいくことにした。きょうは宴なのだ。
「お菓子にジュース、そして食材」
「お手製料理が楽しみだよ」
「期待大だからね?」
めちゃくちゃ料理がうまいことで有名な凛花。何度か食べたことがあるが、絶品だった。数を重ねるごとに、俺の好きな味に近づけてくれていた。凛花の執念じみた気遣いの心には、驚かされることがすくなくない。
近所のスーパーに入るやいなや、迷いのない手つきで食材をカゴに押し込んだ。
「計画は立っているのか」
「自炊歴何年だと思って。脳内プランは完全に構築されているわ」
「やるな。惣菜ばかりに頼っていた俺とは、人間のステージが違う」
「大袈裟ね。たかだか料理という一分野、正俊の方ができることもたくさんあるでしょ」
「凛花のいう通りだよ」
ドリンクの担当が俺だった。炭酸がメイン。自販機で売っているようなサイズではなく、ホームパーティー用のでかいボトルだ。
お菓子だって抜かりない。甘い物から辛いものまで揃えた。
すべて買い終えた。ちょっと苦労しながら袋を部屋まで持っていった。
「ひゃあ、だいぶ買い込んだもんよ」
「余裕、余裕。私の食欲を知っているでしょう?」
「胃袋は拡大をやめていないのか」
「日に日に弁当の量は増えているもの」
「とんでも食欲だ」
「ここ最近、エネルギーが必要だったものね」
夕飯というにはまだ早い時間帯だった。
リビングでくつろぎながら、お菓子をつまむ。
木崎と話した経緯を伝えた。半分ほどは近くから聞こえていたようで、話は早く済んだ。
語り終わった後、コップに炭酸を注いだ。
ソファに座りながら、俺たちはカップを近づける。
「私たちの戦いの勝利に」
「乾杯?」
「そう、乾杯」
カン、と甲高い音が響いた。カップの中の氷がゆらゆら揺れる。
半分ほど飲んだところで、俺は口火を切った。
「うまいか、勝利の一杯は」
「ええ、とっても。くだされるべき罰はくだった。正俊が、ずっと望んだ、あの女の没落した姿まで拝めた。おいしくないはずがないわ」
「俺も、うまいと思うさ。すべてが終わったんだからな」
ただ、どうも完全に割り切ることはできなかった。
「最後の幕切れで吐いた暴言は、凛花にしてほしくないと思っていたようなことだった。穏便に済ませたいなんて頼んでおいて、俺は手荒に済ませちまった。そこが、引っかかる」
「問題ないわ。私も、手荒なことをした。その点、同罪よ」
「手荒なこと?」
「木崎を追い込んだのは私。わかっていたでしょうけど」
わかっていた。今回の件で、凛花が絡んでいないはずがない。
「一ミクロンくらいは、罪悪感があるんでしょう。当然よ。犯した罪から、逃れることはできないもの。たとえ許せない相手だとしても、暴言は罪になってしまう」
「やっぱり、そうだよな……」
「でもいいの、正俊」
カップを床に置くと、凛花はそっと寄った。俺の膝の方に手をやって、そっと撫でながら、続けた。
「過去には戻れない。でも、正俊は私、私は正俊。なら、一緒に罪を背負っていけばいいんだよ」
「一緒に、罪を」
くすぐったい。が、別種の喜びには繋がらない。揺れた心を穏やかにする、すべてを包み込む聖母・凛花の姿があった。
「私にとって、木崎は消してしまいたいほど反吐が出る対象。それとは別に、かわいそうな生き方しかできない彼女に対しての、憐憫の情はある」
「俺も、同じだ。ほんのちょっぴり、塩ひとつまみくらいの」
「あの女が正俊をうまく愛せなかった分、私は正俊をより大事にしていこうと思うの」
「凛花」
「性格が悪いからさ、私。あの女を飯のタネにして盛り上がれるなら、やってしまう。だから、こんな会を開くの。負けず劣らず、ひどい女よ、私も」
膝を撫でる手が止まった。こちらの方を、子犬のような目で捉えてきた。
凛花よ、君は俺になにを求めている?
答え方によっては、自分がダメになってしまう。いけないところに自分までもが堕ちてしまいそうな、恐ろしさもある。
考えは尽きないが、俺の答えは決まっていた。
「自分を否定しないでくれ。凛花こそ、俺と一緒にいるべき人なんだ」
「やっぱりそうだよね。私、間違っていないよね」
「間違ってないさ、きっと」
本当に正しいのか、はっきりとした確信は持てなかった。それでも、きっと凛花はそう望んでいたし、俺もそう答えるのを望んでいた。
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