第22話 治療を中断する凛花

「体調管理を怠っちゃいかんぞ、凛花」

「おじさんみたいな口調だね」

「心の中の親父が目を覚ましたみたいだ」


 凛花はベッドの上で軽く笑った。


 食事が済んでから、ベッドの前で膝をついている。


 俺は凛花の話し相手になっていた。何度目だろうか、小学校時代のことばかりが口についた。


 思い出が色濃いのはそのあたりで、話していて楽しいものだった。


「修学旅行のこと、覚えてるか」

「怖くて寝れなかったやつ?」

「ああ。一日目、緊張しすぎて徹夜した。二日目の惨状といったら、目もあてられない。ついには途中で体調を崩した」

「で、私が付き添った」

「あのときは迷惑をかけたと思っている」


 同じクラスかつ同じ行動班であった俺たち。保健係を任されていた凛花が、係の仕事をまっとうした形になる。


 せっかくの自分の時間を、俺のために使ってくれた。半日も潰してしまったことを思えば、感謝してもしきれない。


「いいの。ここ最近いってるでしょう? 困ったときはお互い様だって」

「凛花……」

「こうして看病にきてくれてる時点で、私は十分なんだよ」

「では、このまま看病継続かな」

「無理しない範囲でね」

「任せとけって」


 話したり、タオルを変えたり、おかゆをよそいなおしたり。


 やることはしばらく尽きなかった。暇になったのは、凛花が疲れ、口数が減ってきた頃合いだった。


 仕事がなくなり、会話が尽きる。肩肘張らない関係ではあるが、いきなりコミュニケーションが減ると、自然とモードが切り替わる。オンからオフへと。


 オフになった俺。ついに瞼が重くなる。


 顔をベットの一角に埋めた時点で、敗北は避けられない一本道の果てに定められた。


 身体は疲れに正直だ。起き続けようと命じても、無理な注文だとはねのけられた。


 眠りの園へ誘われるのは、時間の問題だった。




 * * *




「おはよう、正俊」


 看病していたのは俺のはずだ。疲れの余り、顔を布団に埋めてしまった。


 であれば、俺がベッドの上に全身が乗っており、布団を被っている現状はイレギュラー以外になんというべきか?


「入れ替わっているな」

「そうだっけ?」

「とぼけないでくれ。看病されるはずの凛花が、正座をしてベッドの横にたたずんでいる。おかしいだろう」

「おかしいね。身体の疲れであれば、私こそベッドの上に転がるべきだよね」 


 身体の疲れであれば、ということは。


「まさか精神の疲れを癒すため、患者と看病する者の立場が入れ替わったと?」

「鋭いね。お見事だよ」

「心の治療を施すっていうのかな。風邪とは話が変わってくる。易々と治療できるものでもなかろうに」

「簡単でないけど、私はやるの。やらなくちゃいけないの」


 どうも義務感に駆られている。ベッドの上で無防備に転がっているいま、覗き込む姿勢の凛花は脅威だった。


 落ち着いている様子の凛花だが、隠しきれぬ黒い熱意がたぎっている。ふだんは感じないほどに強かった。


「焦りは禁物なんだ。暴走はしないでくれよ」

「大丈夫。焦ってなんかない。ゆっくりしすぎて、周回遅れの仲間入りを果たしそうなんだよ」

「俺の認識はズレていたのかな」

「主観と客観が一致しないこともある。どちらが正解なのかな?」

「聞かれても……わからない、わかりたくないんだかな」

「いずれわかるから、気長に待つのも一興だよ」


 いずれわかる、か。無責任な言葉だ。凛花の場合は、確信を持てる言葉でもある。彼女の持つ、えもいわれぬ説得力のためだ。


 この頃、凛花の言葉が脳に浸透しやすくなっている。恐怖や不安はない。いい傾向ではないか、とすら思っている。


「じゃあ、始めるね。正俊はこのままいてね」


 なにが始まるのか、凛花は説明しなかった。ここから先は、見知らぬ世界が待っている。


「まずは、心を解き放とうね」


 凛花の指示のもと、呼吸を整えていく。体から力が抜け、楽になった。


「次は、頭の中を空っぽに」


 またしても、俺は凛花のいいなりだった。悪くいうと、である。


 指示に従うたび、自分というものがすっぽり消滅していく。身に覚えがあった。


 覚えはあっても、該当する記憶は蘇らない。喉元まではいっても、出させないという強い抵抗にはねのけられた。


「できたかな」

「ああ」


 夢心地だ。「ハイ」なゾーンに至っていると、直感でわかった。


「じゃあ、アーンをしましょうね」


 凛花は、恍惚そうな表情だった。スプーンを口元に持って行こうとする凛花を受け入れたら、さらに心地よいであろうことはよくわかっている。


 受け入れてしまえば――。


「ごめん、正俊」


 凛花の表情が一気に曇っていく。


 スプーンは口に差し込まれた。心地よさはなかった。心のないあーんだった。


「違うね、正俊」

「なにが違うんだよ、おかしいことなんてひとつもない」

「心をどうにかするべきは、正俊の方じゃなくて――」


 続きの言葉は、小さくて聞き取れなかった。


 それに。


「ちょっと静かにしていてね」


 トン、トン、トン。


 トン、トン、トン。


 快感の波が押し寄せて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 どこか身に覚えがあった。いったいどこで――。


 考える間もなく、意識は遠のいていった。

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